幻燈街
天永哉
幻燈街
月明かりだけが照らす商店街には、人はおろか夜の演奏を飾る虫さえもいない。沈黙と暗闇が霧のように漂い、シャッターに閉ざされた店たちが息をひそめるようにひっそりと佇んでいる。
空気の澄んだ商店街に、突如コツコツと小さな甲高い音が響き渡った。
その音の正体はひとりの人間であった。その男は目的もなく歩いていたが、自分の置かれている状況に混乱しているわけでも、道に迷っているわけでもなかった。男はしばらく放浪していると、街灯の灯ったベンチに人影があるのを見つけ、その明かりに吸い込まれるように歩みを進めた。
その人影の正体は少年らしかった。細身の少年はベンチの上で膝を抱えて項垂れていた。
黒色のしなやかな直毛の髪は伸びきり、シワの多い黒シャツに身を包んでいる。細腕で色白の肌は荒れて赤みを帯びており、病弱そうな印象を受けた。特筆すべきは、少年の背後に黒光りした巨大な十字架が浮かんでいることである。男は少年と十字架の両方を見つめていた。
「幼稚園の頃、クラスの中で僕だけが青色の鍵盤ハーモニカを持っていたことが嫌だった」
少年は裏声交じりの芯のない声で呟き、顔も上げずに続ける。
「みんな僕を、奇妙な虫を見るような目つきで見ていたんだ」
男は表情一つ変えず、少年を棒立ちで見つめているだけだった。その間、二人の言葉が交わることも、視線が合わさることもなく時間だけが過ぎていった。
唯一動いていたのは冷気のこもった乾いた風であった。二人の肌を撫でるようにして流れた風は、不思議と強くなったり、弱くなったりしていた。
男は風上の方角を向き、無言で歩き始める。男は少年の方を振り返ったが、まるで時が止まったかのように同じ姿勢のまま静止しているだけだった。
少年が座っているベンチの下に、褐色の瓶が置かれていた。風に乗って、アルコールと思われる匂いが微かに男の鼻に届く。十字架は依然として少年の背後に漂っていた。
歩みを進める男の視線の先に、温かみのある橙色の光がひとつ、朧気ながらに煌めいていた。その灯りは次第に数を増し、まるで蛍が水辺を舞っているかのように点滅を繰り返している。その中心に、胡乱な雰囲気を纏うこじんまりとした店が、その光を宿した。
男は引き寄せられるかのように、早歩きでその店に近づいた。
外装が蔦に埋もれた古めかしいアンティーク調の店は、近くでみると物騒な気配を放っており、丸い窓ガラスからは室内の光が微かに洩れている。
橙色の光の正体は小さなカボチャであった。店の周りに大量にあしらわれたカボチャは、男が扉に近づくと、その灯りは一斉に消え失せた。
そしてくたびれた木製の扉には、小型のナイフが紙を挟んで突き刺さっていた。
『取り込み中 ロットナー工房』
男は張り紙に記された殴り書きの文字を見て鼻で笑い、ドアノブを捻って中へ入った。
うっすらと埃が舞う店内は静謐に包まれていた。
吹き抜け構造の広い玄関には、葉が生い茂る一本の木が床から生えていた。頭の大きなロバの彫刻が廊下の奥に佇んでおり、周りにはブロック状の木材が散乱している。男が足を踏み入れた瞬間、温かみのある茶色のフローリングの床は軋む音を鳴らした。
男の足元にはヨークシャー・テリアの雑種と思われる老犬が居座っており、伸び切った毛の隙間からつぶらな瞳で男を見つめている。左耳の一部が欠けており、靴下を履いているかのような白い脚が特徴的な犬だった。
「どうどう、俺だ」
男は微笑みながら屈んで犬を撫でた。犬は気持ちよさそうに尻尾を振り、満足したのかよろよろとした足取りで薄暗い廊下に姿を消した。
その瞬間、右側の明かりの点いている部屋から屈託のない声が響いた。
「どんな風の吹き回しかと思えば、来たのはパッジかよ。運命の可愛い女の子でも来たのかと期待した自分が馬鹿だったぜ」
パッジと呼ばれた男は呆れ顔で重い腰を上げ、声のする部屋へと向かった。
そこには小汚いエプロンを着た中年くらいの男が、天井を見上げて床の上に大の字で横たわっていた。短い黒髪は寝癖で荒れ、堀の深い顔に切れ長の目をしている。男が履いている靴下は左右で絶妙に色が違っており、穴が空いて親指がむき出しになっている。
「せっかく来てやったというのに、随分とひどい言い草だ。だいたい、扉にナイフが刺さってる店に可愛い子なんて寄り付かないだろう」
パッジは足元に視線を向け、嘲笑の色を浮かべながらにべもなく言った。
「あと、その不細工な親指が出ちまってる足元にも気を使うんだな」
床に寝そべっていたロットナーは勢いよく立ち上がり、不貞腐れた様子で靴を履きながら、
「ええい、うるさい。お前みたいな小言が多い野郎はそんなんだからいつまでも独り身なんだよ」と言い、靴のかかとを踏んだままキッチンへと向かった。
パッジはその小言を耳から耳へと聞き流した。
「ほら、お前が俺をお使いさせた赤の絵具だ。ありがたく受け取れ。スペイン製しかなかった。一個は暗闇で気付けなくて青色になってしまったがな」
「はあ、まあいい。そこに置いておいてくれ」
パッジは自分のズボンのポケットから二つの絵具を取り出し、窓際の丸テーブルの上に無造作に置いた。隣には白いガーベラの花が咲いている植木鉢が置かれており、顔を近づけるとほんのりと魅惑的な匂いがした。
「ほら、これをやるよ」
キッチンにいるロットナーが紙袋を投げ、軌道を描いてパッジの手元まで届く。
「カボチャのクッキーだよ」
パッジは「カボチャ嫌いなんだよな」と言いそうになるのを抑え、袋の中をのぞいた。バターの甘くて心地よい匂いがパッジの鼻腔をくすぐった。肝心のクッキーはどれも形が不揃いで、中には丸焦げのものから、焼いたかどうかすら怪しい色合いのものも含まれている。
「あんなに料理をめんどくさがっていたお前が、急に料理に目覚めてお菓子作りか?妙な風の吹き回しだな」
パッジは焦げていない淡い色のクッキーを口にした。それは中身が若干湿っている生焼けのクッキーだった。カボチャ独特の風味と生焼けの生地が合わさった、得体のしれない味が口の中に広がった。
「今まで毛嫌いしていたものを敢えてやってみるのも悪くない。退屈が霧のように押し寄せる日々、無味乾燥とした色のない日々をどう彩ろうかと躍起になるのさ」
〇
この商店街にはらしからぬ明るさで充ちていた。天を摩する雄大な雲が空を占め、夏の風物詩ともいえる夕立ちの到来を物語っていた。
パッジは再び店に足を運んだ。
先日訪れた時に目についた大量のカボチャはすっかりなくなっており、入口近くの花壇は整地されている。店の外では、なにやら香ばしい匂いが漂っており、パッジの食欲を誘った。扉の前に立つと、目線の高さにある一筋の深い傷跡がパッジの目に映る。
以前と特に変わりもしない店内だったが、出迎えてくれた老犬の姿はない。玄関近くの左側の部屋は閉ざされており、見覚えのあるナイフがまたもや扉に突き刺さっていた。
パッジは「おい、犬は」と言いながら右側のリビングに入った。
そこには椅子に座り、樫の長テーブルに顔を伏せているロットナーがいた。
返事はなくとも、その悲しさが漂う背中からパッジは事の顛末を悟った。
テーブルにはパンケーキやカボチャの切り抜きスープ、グラタンや煮物などのあらゆるカボチャ料理が並んでいる。
すると、突如として小窓の外が暗闇に沈んだ。パッジはその暗黒に視線を向けた。窓際には可憐な青いガーベラの植木鉢が置かれている。
「死んだよ」
低い声でようやく放たれたその一言は寂しさと悲しさに染まっていた。
パッジが振り返ると、ロットナーは顔を上げて虚空を見つめていた。その透き通った灰色の瞳は、大粒の涙を抱えている。
それから観念を含んだ眼差しで淡々と語り始めた。
「なあ、俺はな冬が好きなんだよ。いまみたいな暑い夏はクソ食らえだ。裸になろうが暑い。このどうしようもない暑さに俺はウンザリだ」
パッジは「そうだな。俺もそう思う」と言いながら、ロットナーの向かい側に座った。木製の椅子が軋む音が鳴る。二人の視線が合わさることはなかった。
「冬は俺にとって死を連想させる。対して夏は生を感じる。木の葉が鬱蒼と生い茂り、花は優美な色と官能的な匂いで虫たちを誘う。あの唸るような暑さがあるおかげで虫たちは活動ができる。ほんの僅かしか生きられない期間に、次の世代を残すための交尾に命を散らす。ところが冬はどうだ。あんなにわんさか活動していた虫たちの姿は見当たらない。花は枯れ果て、木は葉を落として痩せ細っている。あの冬ならではの殺風景はまるで死神がさまよっているかのようだ」
ロットナーはテーブルの上の皿を手に取り、カボチャの煮物を移して黙々と食べ始めた。カチャカチャと食器の鳴る音が静かな空間に響き渡る。パッジは見守るようにただ茫然と見つめる。
「でもな、落ち葉は土に還り、冬を越すため次の世代の養分となる。虫たちだって、どこかに身を潜めてじっと夏の到来を待っている。枯れ切った花はどこかに種を残している。この世界は、死が生を育んでいるんだ。俺たちが死ぬ運命にあるのも、きっとそういう理由だぜ」
そう言い終わるとロットナーは朗らかな表情でフォークと取り皿を差し出した。
「ほら、お前も食えよ。振る舞いだ」
パッジは無言で受け取った。
すると突然、玄関の扉が開かれる音がした。二人は揃って音のする方に顔を向けた。
「おっと、このいい匂いにつられて人が来るはいいが、可愛い女の子はまだ釣れないか」
入ってきたのはパッジが以前に商店街のベンチで見た少年だった。しかし前回と違って、少年の背後に十字架は浮かんでいない。
どこか幼さの面影が残る少年は、入口に佇んだまま怪訝な目つきで窓際の青いガーベラを見つめており、「青色なんて……」と細い声で呟いた。
「サトル、お前も食いたいか?」
サトルと呼ばれた少年は振り返り、眠そうな表情で腕をかきながら言った。
「まあ、これは僕が植えるのを手伝ったカボチャだし」
サトルが食卓の椅子に座ると、これまで陰鬱としていた雰囲気が晴れるように変化した。
「箸はないの?」
「そんなもんねぇよ」ロットナーはカボチャを食べながら喋る。
サトルは仕方ないといった表情でフォークを握り、自分の食べる分を取り皿に移し始めた。
「なんだよお前、肉しか取ってないじゃないか。カボチャが嫌いなのか?」
パッジとロットナー、二人してサトルの肉しかない皿に注目した。
「苦手なんだよ。野菜のくせに密度が高くて、食べると口の中が一気にカボチャに支配される。口内にまとわりつくような食感も味も苦手だ」
「何を言ってる、このバカ舌め」
「実は俺もそうなんだよな。野菜にしては味の主張が強いし、ねっとりしているのも苦手だ」
「はあ。とんだ大馬鹿野郎どもだ。いいか?このとろけるようなやさしい甘さと、ほくほくした食べ応えのいい食感。種以外を食べられるという可食部の多さ。そして高い栄養価。こんなカボチャのよさがわからないとは。お前ら、不甲斐ないな」
パッジとサトルは口をぽかんと開けたまま、カボチャについて嬉々として語る男を凝視していた。ロットナーは片方の眉を吊り上げ、二つの顔を交互に見る。
「よし、これは俺だけで食うことにする。お前らは皿洗いだ」
サトルは大急ぎでグリルドチキンを頬張り始めた。
「馬鹿野郎、これってカボチャだけじゃねぇよ。あと一人で全部食おうとするんじゃねぇ」
パッジもサーモンと粉チーズのかかったサラダを取り始める。
三人は、食事を囲んで時間を共に過ごした。
「もうお腹いっぱいだ。ごちそうさま」
手を合わせたサトルは席を離れ、窓際の青いガーベラの植木鉢に近づいていった。
「なにこの花、全然いい匂いがしない。油の匂いがする」
その一言にハッとしたパッジは、パンケーキを切っているロットナーを呆れ顔で見た。
「はあ。まさかお前、花の色を絵具で塗り替えたのかよ」
「せっかくの可憐な花の匂いが台無しだ」とサトルが笑いながら突っ込んだ。
ロットナーは子供が悪戯をするときのようにニンマリとしていた。
「それは贈り物だ。花に触るんじゃないぞ。『でもやっぱり貰うなら白じゃなくて赤色がいい』って仲のいい出店の女に言われたんだ。買いなおしたら金がかかるから自分で塗ってやったのさ。いい出来だろ?」
パッジは内心で贈り物に注文をするその女を訝しみながらも、神妙な面持ちでガーベラを見つめ、続いて正面の透き通った灰色の瞳を見つめた。パンケーキをハムスターのように頬張っている。
パッジは自分の紅茶に砂糖を入れ、スプーンで軽くかき混ぜた。
「頼まれたのは赤色か。通りで靴下もちぐはぐだし、丸焦げのクッキーも寄越すわけだな」
パッジは椅子から立ち上がり、かつて自分が買ってきた二つの絵具を手に取った。新品同然の赤色の絵具に、見慣れない異国の文字が刻まれている。
ロットナーは紅茶に入れるレモンを絞り、サトルは指を伸ばして花弁に触れようとしていた。
「お前、色が見えないのか」
パッジのその一言で、ロットナーは動きを止めた。レモンの小さな種がカップの中に落ちた。
「俺が買ってきたスペイン製の絵具は、頼まれた赤色だけじゃなく、青色も含まれていた。お前はこのスペイン語の文字が読めなかったのだろう?」
三人の空間に沈黙が降りた。
紅茶を一口飲んだロットナーが落ち着き払った様子で口を開いた。いつも皮肉を飛ばすときの陽気さと抑揚はそこにはなかった。
「二択を外すなんて運が悪いな。……そうだ。俺は明暗の世界しか知らない。俺は生まれてからずっと、色のない日々を生きている」
〇
曇天の空模様は、地平線の彼方まで続いている。
数々の店の屋根を打ち付ける無機質な雨の音が商店街に轟いていた。その雨脚は強まるばかりで、止むことを知らない。
持っている傘をささず、パッジは雨に打たれながら小走りで店に向かった。
シャベルや手袋が散乱している店の花壇には、なにやら植物が植えられていた。暗闇で視界は悪かったが、葉っぱの形状を見るに紫陽花だろうとパッジは思った。
店に入った瞬間、足元に活気に充ちた小犬が勢いよく寄ってきた。
それは以前にロットナーが飼っていた犬と瓜二つの姿で、パッジはいま見えている現状と記憶との齟齬に戸惑った。その子犬は若さこそ違うが、靴下を履いたような脚の毛の色合いや左耳の欠け具合までもが以前の老犬と一致していた。
「また飼い始めたのか?それも……」
「かわいいだろ?うちの犬」
リビングから出てきたロットナーは子犬を自慢するように抱き上げ、喜びに溢れた笑みを浮かべている。
「元気すぎて飯を食う量が半端ないんだ。おまけに一日何回もウンコする。その辺に落ちてるかも知れねぇから、お前も気をつけるんだぞ。俺は見つけにくいからな。これまで何回踏んだかしれねぇぜ」
子犬はロットナーの腕から抜け出し、元気よく廊下に駆けて行った。パッジは依然として二の句が継げずにいた。
「お前びしょ濡れじゃないか。ちゃんと拭けよ。うちを汚すんじゃないぞ」
パッジは渡されたタオルで顔を拭いた。そのタオルには絵具と思われる油の匂いが微かに残っている。窓際のガーベラに視線を移すと、紫とも赤ともいえないような混ざり合った色に変化していた。
手洗いと着替えを済ませるために、パッジは洗面所に向かった。照明をつけた途端、床に小さな灰色の粒が散乱している光景が広がった。開いていた戸棚には「セントジョーンズワート」と表記された小瓶が倒れており、中に少し残っていた錠剤は床に散乱していたものと一致している。
パッジは手洗いを済ませたのち、床に落ちている錠剤をひとつひとつ手に取り、小瓶の中へと戻した。洗濯機の隣には犬用のトイレが置いてある。それを見たパッジは二重の意味で拾い上げた錠剤の少なさに不安を抱いた。
リビングに向かうと、ロットナーはいつものようにキッチンで作業をしていた。コーヒーの匂いがしている。
パッジの視界の片隅に、ぬいぐるみのような犬の後ろ姿が入る。パッジはそれに手を触れるも、その硬い手触りと冷たさから、生命の宿らない単なる物体であることが肌を通して瞬時にわかった。不気味に思ったパッジは素早く手を引っ込めた。
それは先ほど見たこの家に住まう子犬の姿であったが、その目は光を失っていた。
パッジは硬直し、唖然としながらも口を開いた。
「これ、剥製か?」
暗闇に埋もれた外が一瞬明るく光り、雷の轟く音と地響きがした。
キッチンにいるロットナーはしばらく口を開かなかった。聞き耳を立ててはいるものの、振り返ることすらしない。そしてコーヒーを注ぎ終えると、ゆっくりと、抑揚のない声で言い放った。
「別れるのがつらいから、剥製にした」
ロットナーは静かに食卓の椅子に腰掛けた。生気が抜けきり、抜け殻のようになっている。重い沈黙が二人を包んだ。
「今では甘美な思い出が俺を殺している。楽しかった幸せな日々の記憶が次々に脳裏に浮かんでは、全て単なる記憶だった、と現実との落差に絶望する。この心にぽっかりと空いてしまった穴を埋めるのに毎日必死なんだ」
今にも光を失いそうな目は、涙が枯れてしまったようにすっかり乾き切っている。
パッジはどういう言葉をかけようかと考えあぐねた。
「そういうことだってある」
悲嘆に暮れるロットナーの足元に子犬が寄ってきても、石像のように無反応だった。
「ときに現実は、どんな悪夢よりもひどいものになる。俺も自分の中に眠り続ける、記憶に苦しめられることがある」
パッジもロットナーも、お互いに明後日の方向を向いていた。
「本当に大切な人が終わってしまったことがある。正直、いまでもそれに立ち直れていないと思う。だが、時が経って慣れたというか、時間が俺を癒した。といっても、感覚が鈍くなっただけだけどな」
それから二人は沈黙を貫いたまま、コーヒーを飲んで過ごした。
扉が開く音と、豪雨と風の音によって沈黙が破かれた。
全身がずぶ濡れで、手やズボンが泥にまみれたサトルが入ってきた。
「お前どこ行ってたんだよ。ガキが雨の中泥遊びか?さすがだな」
顔色がすぐれないサトルは鼻水をすすり、ゴホゴホと咳をしている。
「おまけに鼻詰まりに咳だしよ。なに風邪引いてんだ。俺たちに世話を焼かれたいのか?まず、さっさとその汚れをシャワーで落としてこい」
ロットナーは棚からタオルを取り出してテーブルに投げた。
「おっさんみたいな過去を引きずってメソメソ生きる大人にガキだと言われたくないね」
鼻声のサトルは渡されたタオルを手に取り、思い切り鼻をかんだ。
「うるせぇ。そうやって誰かまわず皮肉を言っていると、誰もお前に近づかなくなるぞ」
「どの口が言ってるんだよ」とパッジは大笑いした。
「おっと、何かよさそうなものがある。これ貰おう」
サトルはテーブルに置かれていた小さくて華美な箱を開け、一粒の四角いチョコレートを頬張った。
「馬鹿野郎、勝手に食ってるんじゃねぇよ。そんな高いチョコ、お前みたいなガキにはまだ早いんだよ」
サトルは美味いと頷きながら、「病人にやさしくするんだな」とどこか得意そうな顔をして、ロットナーを指差していた。
「あいにくここは病院じゃない。早くママのところにでも行ってろ」
サトルはその言葉を聞き流しつつ、タオルを持って洗面所に向かった。フローリングの床に濡れた足跡が残る。
パッジは大雨の窓の外と、床についた足跡を呆然と眺めていた。
ある時突然に重くて鈍い音が鳴り、リビングにいる二人は何事かとお互いに顔を合わせた。
音がした方向に向かうと、洗面所で気を失ったサトルが倒れており、そばにいる子犬が吠えていた。
「どういうことだ。何か毒でも飲んだのか?」
「バカ言え、この大荒れの天気の中に泥遊びでもやってるからだろう」
ロットナーは急いで二階に駆け上がった。
「おい、しっかりしろ」
冷静なパッジはサトルを仰向けに寝かせ、肩を軽くたたいて意識を確認したが、応答はなかった。
顔面蒼白のサトルの呼吸が浅くなっており、全身には発疹が出ている。
これはまずそうだと勘繰ったパッジはサトルの脈に手を当てる。太鼓のようにすばやく高鳴っていた。
そこに、タオルケットや注射薬を手に抱えたロットナーが息を切らしながら戻ってきた。
「結局俺たちの世話がいるじゃねえか。これだからガキはよ」
〇
今にも雨が降り出しそうな雲が空を埋め尽くしている。雨と泥の混ざり合った匂いが商店街に充満していた。
花壇に植えられていた花はパッジの予想通り、紫陽花であった。横一列に並んだ紫色のかわいらしい紫陽花は、入口から遠い端の一部が青色になっていた。パッジはそれを横目に苦笑いをしながら、いつものように店の中へと入っていった。
今回は一番にロットナーの声が出迎えた。
「なあ、俺のナイフ見てないか?木製のグリップで刃がちょっと錆び付いているやつだ」
パッジは記憶をたどり、左側の部屋の扉を見たが、そこに残っていたのは傷跡だけであった。
「ここに自分で突き刺していたんじゃないのか」
「そう、そこに置いたのが最後なんだ」
部屋の扉が空いており、パッジは少しだけ中をのぞいた。作業台や冷蔵庫、化学薬品が入っていると思われる瓶などが棚に並んでおり、パッジはかつて自分がいた大学の実験室を連想した。
ロットナーは各部屋を行ったり来たりして探していた。靴下は相変わらずちぐはぐであった。
「あのナイフ、ずっとお気に入りで昔から使っているんだ。どうして消えるんだよ」
ないないと独り言を呟きながら、薬缶が鳴る音に呼ばれるようにロットナーはキッチンへ向かった。
パッジは少々声を張り上げる。「俺は知らないな。サトルが隠したんじゃないか?」
すでに話を聞いていなさそうなロットナーは「もしや、お前が隠したか?」と笑顔でテーブルの下にいる子犬と戯れ始めている。
パッジはズボンのポケットから赤の絵具を二つ取り出し、丸テーブルの上に落とした。ガーベラの植木鉢は、もうどこにも見当たらなかった。
川が流れるようにゆっくりと確実に時間は過ぎていく。コーヒーの心地よい香りと温かさが二人を包んだ。
「やっぱり、コーヒーといえばこのキリマンジャロだよな」
「キリマンジャロもうまいが、ブルーマウンテンだね」
「お前の地元のやつか」
「今度持ってきてやるよ」
「おっと、また雨が降ってきた。お前気づいていたか?あのガキがいると“ここ”は暗くなるんだぜ」
パッジはコーヒーをすすり、一呼吸おいて喋る。
「どうしてそんなことがわかるんだ」
子犬を腕に抱きかかえているロットナーはニンマリと笑った。落ち着きのない子犬は自分に絡まる腕から抜け出したそうにしている。
「そんなの、俺の勘だよ」
パッジは店を出たあと、穏やかな雨が降り続いている曇り空を見上げた。曇り空といえども、目を細めずにはいられないくらい眩しい空だった。
無人で閑散とした辺りを見渡し、濡れた青色の紫陽花を見て独りごちる。
「これは塗ってないのかよ」
地面に目を凝らすと、苗木の近くの土が軽く盛り上がっていた。
〇
いつもと変わらない静けさが漂う商店街だった。パッジはいつもの道を、いつものように歩いていた。パッジの足音がリズムよく響いている。
不気味なまでに商店街が明るいのは、空に浮かぶ月が二つもあるせいである。壁紙に張り付いたような二つの大きな満月は、それぞれ違った顔を見せている。
街灯の灯るベンチにまたもや小さな人影があった。その背後には大きな十字架が漂っており、パッジは近くで見なくとも誰であるかすぐに理解した。
以前と同じように、サトルは膝を抱えて顔を伏せていた。隣には栓の付いた緑色の瓶が置かれている。
「大切な人が終わったって、どういうことですか」
その一言に、パッジは鼻先でふんと笑う。
「俺はずっと蜃気楼を追っていたんだよ」
「ずいぶんと含みのある言い方をしますね」
生ぬるい風が二人の間を通り過ぎた。点滅する街灯を見ながら、パッジは口を開く。
「お前がナイフを花壇に隠したのか」
サトルは目を丸くしてパッジを見上げた。以前よりも線が細くなったサトルの顔色は病人のように血色が悪かった。
「どうしてわかったんですか」
「花壇の紫陽花の色が一部だけ変わっていた。初めはあいつがまた色を塗ったのだろうと思ったが、雨が降っても変わらなかったから本物だ。別の苗木を植えた可能性もあるが、お前が泥をつけてきた日と、ナイフが消えた日は同じだった。埋まっている錆びたナイフによって土の性質が変化して、紫陽花の色が変わったんだろう」
サトルは破顔した。
「あれがなかったら、剥製にできないと思って」
パッジは無言で首を縦に振る。
「お前も気張れよ」と言い残し、パッジは店に向かって歩み始めた。
振り返ると、サトルはいつもの姿勢に戻っていた。黒光りしている十字架が大きくなっているような気がした。
「お前はほんとうに頭の切れるやつだ」
ロットナーは包囲されて孤立した自分のキングの駒を取る。本日五回目の敗北だった。
「お前の定石はもう全部見切った」
パッジは散らばっている駒をチェス盤の上に整列し始める。
「お前みたいに賢さを持っているやつが羨ましいよ。俺にも学があればなあ。なあ、大学ってのはなんでも学べるのかい?自分の好きなことならなんでも。俺はここでずっと木を彫り続ける世界しか知らないんだ」
好奇の眼差しを向けているロットナーは、大学という未知の世界への底知れぬ憧れを抱いているようだった。
「ああ、自由に学べる。目についたものを手に取るように、自分の好奇心に身をまかせて知らない世界へ飛び込んでいくんだ。研究をしていると、自分はなんて無知なんだろうと思い知らされる。この世界はわからないことだらけだ。しかし、すべてを知りつくすには、人生はあまりにも短すぎる」
「天文もできるのか?俺、昔から宇宙に興味があったんだ。ガキの頃、この世界の誕生や終わりについて考え始めると、夜寝れなくなる日も何度かあったぜ。だから来世は天文学者になりたいなって思ってた」
パッジは微笑み、「今からでもやればいいじゃないか」とささやくように言った。
「でも、そうしたらお前とこうしてチェスもできなくなるな」
「お前が決めるんだ」
ロットナーは白のポーンを中央に進めた。
全勝のチェスを終え、パッジはテーブルの上に雑多に物が置いてある中、小さくて華美な箱に目をつけていた。その視線に気づいたロットナーは注意するように言う。
「それは俺が出店の女から貰ったチョコレートだ。勝手に食うんじゃない。高いからな」
サトルがチョコレートを口にしていた記憶がパッジの脳裏に浮かぶ。
箱を開け、手にした小さなチョコレートからは、ほんのりと赤ワインの匂いがした。半分かじってみると、中にはとろっとした赤いゼリー状のものが入っていた。
「これ、酒入りか」
「はあ、お前もあのガキと同じかよ。俺のものを勝手に搾取しやがって!」
ロットナーは子犬の餌を用意していた。待ちきれなさそうな子犬はロットナーの脚を登り上がろうとしている。
「そういやサトルは、このチョコを食べた後に倒れたよな」
「そうだが。なんだよ、それに本当に毒でも入っていたというのか?」
あの夜、気絶したサトルに出ていた発疹が脳裏に蘇る。
「毒……?」
「酒といえば、そういやさっき、あいつが酒くださいって来たから余っていたハイネケンを一本くれてやった。あいつ、歳の割に随分と派手にやったもんだ。もう俺らの色に染まっている。将来が楽しみだ」
俺らも飲むか、と意気込んでいるロットナーはもう一本のハイネケンを取り出していた。
ロットナーが手にしているその緑色の瓶には見覚えがあった。その瞬間、パッジの全身の毛穴から汗が吹き出した。
パッジの脳内に浮かぶ点々とした疑問が線となり、暗闇に埋もれそうなサトルの姿が目に浮かぶ。
「ちがう、ちがう、ちがう。全然ちがう」と言いながら、唖然としているロットナーを必死の形相で見つめた。
「鼻づまりで気づかなかったのか……そういうことかよ」
「どういうことだよ。はあ、小賢しいことを考えている時のお前は全く、楽しそうじゃないな」
能天気なことを言う目の前の男は楽しそうにヘラヘラと笑い、ご飯を食べる子犬を撫でていた。
窓の外を見たパッジは説明することもなく、勢いよく店を飛び出した。はあ、と呟く声が後方に聞こえる。
一人の男が、暗闇の中に吸い込まれていった。
コツコツと甲高い音が、空気の澄んだ商店街に響き渡った。
幻燈街 天永哉 @Tmg628
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