第8話 アジサイ

 青空が一面に広がり、遠くの山々がくっきりと見える。目に入るもの全てがキラキラと輝き、乾いた風は優しく頬をくすぐる。窓の向こうでは彩りが豊かになり、コマツグミが「チュルチュル」と澄んだ声を響かせる。もし天国というものがどこかに存在するならば、きっとこのような場所に違いない。


 エサ場では、丸目玉と鳥声が揃ってパンをかじっていた。こんな時間に丸目玉が出没するのは実に珍しい。今日はせっかくの晴天なのに、雹でも降ってしまうのではないだろうか…

「やっと今日で終わりだ。」

「本当だね、タクもきーちゃんもまた一年よくがんばったね。」

「ナツヤスミが楽しみ!」

「宿題がないなんて本当に最高だわ。」

「ニホンへ行くのも楽しみ、早くマユナたちに会いたいなー!」

「その前に、すぐにオヒッコシなんだから。まずはしっかり片付けをするのよ。」

「分かってるよ、ダンボールを何個か詰めるだけなんだから。すぐに終わるよ。ラクショウ。」

「早めに準備しておかないと、後で大変なんだからね。」

「はいはい、ごちそうさまでした。」

「行ってきまーす。」

 時折意味不明な言葉を発しているが、私もそれには慣れたものだ。テンポよく、明るいトーンであり、きっと平和そのものなのだろう。会話が終わるとすぐに、二人はそそくさと玄関を出ていった。丸目玉は学校へ、鳥声はバス停へ向かい、それぞれがまた新たな一日を歩き出す。

 本日も異常なし。


 二人が出発してほどなくしてから、ママはエサ場で恒例の苦行を開始した。全くもって不可解なのだが、ママはなぜか毎朝のように、ため息をつきながら黒々とした汁をすする。苦くて酸っぱい匂いがあたりに充満し、私はどうもそれが苦手だった。

 あの空気を吸いたくない。エサ場を出て、何をしよう。蝶や鳥を窓から眺めようか、それとも円形ロボットと遊ぼうか、いや、お城の住人に会いに行こうか。

 横目で確認したところ、残念だが鳥声の巣穴は閉じている。私は向かいにある丸目玉の寝床に入り、ドアと積み上がった段ボールの隙間に体を沿わせて、そのまま静かに目を閉じた。


 あれ、こんなところに段ボールなんてあったっけ?


 …どれほど経ったのだろう。ママが鳥声の巣穴にやってくる足音に体が自然と反応した。準備運動をする間もなく、私はスッと立ち上がると、背後から音を立てずに忍び寄り、ママの足の間をひとっ飛びに通過して、お城の前に陣取った。


「あ、クッキー!!」

 ママはなぜか興奮気味に叫び声をあげ、私を捕まえようとすぐさま両手を出す。

 私は余裕を持ってひらりとその手をかわし、視線をお城に戻した。


 ついに会えた!


 城の住人は、やはり小さかった。オドオドして常に動き回り、吐息は短く速い。私の両手ほどの大きさで、綺麗な灰色の毛皮をまとっている。そのつぶらな瞳に見つめられた私の胸には温かさが広がり、仲良くなりたい気持ちで満たされた。

 ご挨拶にと思い、私は鼻先を差し出した。干し草、湿った紙、生きている証のような匂い…

 それも一瞬のこと、不意に斜め後ろから再び手が伸びてきて、私はママの腕に収まっていた。


「クッキー、ダメだよ!チーちゃんはびっくりしちゃうから!」

 私は驚かせたりしていないよ。もっとお互いをよく知りたいだけ。


「ほら!そんなに鳴いたら怖くなっちゃうよ!」

 ただご挨拶してるだけだってば!あんなに可愛いの、無視できるわけないでしょ。


「だから、チーちゃんが怖がっちゃうって。」

 チーちゃん?いまハムスターって言った?それはお城の住人のこと?


「クッキーはあまり近づいちゃダメなんだよ。」

 なんで私だけダメなのさ。そんな大声をあげて驚かせているのはママでしょうが。


「あれ、クッキー怒ってる。ふがふがしないの。」

 あ、ママのせいでお城の住人が潜っちゃった。


「ほら、チーちゃんは寝る時間だよ。静かにしなきゃね。」

 だからさ。騒いだのママだってば。


「さ、クッキーは向こうでおやつを食べよう。」

 おやつ!?赤色、まぐろ味の気分。これだけ私の邪魔をしてくれたんだから、今日はたくさんちょうだいよね。


 おやつの響きで、尻尾が天空へと一直線に伸びる。チーちゃん、あなたはおやつを知ってるかしら。上機嫌でまぐろ味を満喫しながらも、丸々とした瞳は私の頭から離れなかった。今度はゆっくりお話しして、お城の秘密を聞かせてほしい。


 そのすぐ横で、2つの段ボールが不気味に大きく口を開けている。


 あれ、ここにも?まるで何かが潜んで、こちらをじっと見ているような気配すら感じる。いや、そんなはずはないけれど、私はなぜかそこから視線を外すことができなかった。

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