第7話 ライラック

 鮮やかな花々から、濃厚で甘い香りがあたり一帯に漂う。緑が青々と茂り、そよ風が柔らかい音を運んでくる。特別なにかあったわけではないけれど、晴れの日が増え、私はなんとなく明るい気分になる。


「クッキー、ごはんだよー。」


 軽やかに揺れる蝶を横目で見ながら、私の足はエサ場に向けて回転し始めた。

 今日も異常なし。


 …いや、違う。


 エサ場に向かう途中のことだった。穀物や干し草、そして鼻をつくような匂いが私に押し寄せた。すかさず足を止めて、あたりに耳を澄ませる。微かな息づかい、そして乾いた何かが僅かに擦れるような音。間違いない、今日はついにその時がやってきたのだ!


 私が、高鳴る心臓のリズムに足音が重なりそうな速さで鳥声の巣穴に近寄ると、そこには小さな隙間があった。寝床と食卓が一緒になったような独特な香りが足元にまとわりつく。緊張に包まれて体は硬くなったが、不思議と気持ちは落ち着いていた。何百回にもわたるイメージトレーニングの賜物だろう。速度を変えずにそのまま巣穴に突入し、私はひらりと鳥声の椅子に飛び乗った。


「サッザッザッ」


 今にも消え入りそうな音から、その瞬間何かが身を潜めたような気がする。「何か」が隠れたのだろうか、それとも「何か」が別の何かを隠したのだろうか。想定外の音に戸惑い、私は息を殺したまま身をかがめた。


「フッフッ、フッフッ」


 ほどなくして、あの短く速い息づかいが幾度となく繰り返される。「何か」は動いているわけではなさそうだ。相手との距離が一定のまま変わらないのを確信した私は、音もなく本棚の上へと飛び移った。


 そこには、可愛いお城があった。周囲には私の爪が通るかどうかという目の細かい金網が張り巡らされ、ところどころに城の内外を貫通するトンネルが通っている。トンネルの太さは私の腕一本くらいだろうか?とても私は住めそうにないサイズだ。


 城の最下部には無数の紙切れと干し草が敷かれ、その合間に見たこともないような小ささの二つの通気口を見つけた。それはまるで私の存在がその場にないかのように、「フッフッ」と変わらないリズムで命の動きを細かく刻んでいる。手足や顔や体の大半は埋もれていたけれど、通気口の周りには、どこかぬくもりを感じさせる柔らかい毛がチラチラと見え隠れした。


 私は前足を丁寧に折りたたみ、城の住人の観察を続けた。このお城にはいつから住んでいるのだろう。ここでは何をしているのだろう。夜中に鳴り響くカタカタという音色は、あなたの歌声だろうか?顔や体は、私の手のひらくらいの大きさかもしれない。先ほどからピクリとも動かず、出てくることも隠れることもない。あなたは眠っているのだろうか、本当に動くのだろうか。よくよく嗅いでみると、少し鼻をつくような獣の匂いも漂うが、一体何を食べているのだろう?


 一定のリズムと穏やかな窓越しの光が私たちを包む中、私の問いは浮かんではどこかに消え、それを幾度となく繰り返していた。


 ……。


 ハッとして周りを見渡すと、鳥声の巣穴に射す陽に赤みがかっている。一日の終わりが近いようだ。あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。


 何度かまばたきをして体を解きほぐすと、私の体とさほど変わらない大きさのお城はまだそこにあったが、住人の姿は紙きれと干し草に変わっている。


 それでも私は、跳ねる小さな鼓動を確かに感じることができる。


 あなたも私に気づいてくれるだろうか?今度はお話しできるだろうか?


 想像を膨らませながら、期待を込めて鼻先を金網に擦り付けた後、私は首輪の鈴音を全く気にせずそこからドスンと大胆に飛び降り、尻尾を立てて軽い足取りでエサ場に向かった。


 それじゃ、またね。

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