第9話 初入湯

 俺たちが作った温泉第二号は、岩で囲っただけの簡単な造りだが、常に源泉が流れ込んでおり、湯の鮮度は抜群。温度も、常に湯が入れ替わるため下がることがない。


「これが、アリマどのの言う【オンセン】かい?」

「おっしゃる通りです。こちらが、私とアナスタシア、ガランド監督のご協力のもとで作り上げた温泉でございます」



 苦節1か月。坑道での採掘の仕事の合間を縫って、あるいは、休日を返上して、ようやく完成させた異世界温泉、第2号。坑道にて新たに発見された源泉を、ここまで引っ張ってきて作った。



 ハインケル公は、白い湯気を吐き出す湯の表面を手で示して「オンセンの名前は?」と聞いてきた。



 まずいな。


 ハインケル公への「おもてなし」の内容を凝るばっかりで、名前までは考えていなかった。


「ええと……名前までは考えておりません。ここは、あなた様に命名権をお譲りいたします」



 ここは、この島の所有権を有する彼に、決めてもらおうではないか。


「では、君が作ったということで【アリマ温泉】なんてどうだろうか?」

「ああ……」



 俺は知っている。現世日本にある同名の「有馬温泉」が、草津温泉、下呂温泉と並ぶ三名泉の一つとして数えられるぐらいの、素晴らしい温泉地であることを。



――こんな陳腐で小さい温泉がそう呼ばれることは、俺の知る有馬温泉に対して失礼だろうと思ってしまった。


 微妙な反応を示すと、ハインケル公は、別の名前を提案してきた。


「では、世が入ったということを強調して【ハインケルの湯】はどうだろうか?」

「それがよろしいかと。私は、後者を強く推したいと思います」



 ここで、ハインケル公のネーミングセンスが光り輝いた。【アリマ温泉】よりも、よっぽどいい名前を付けてもらえて、俺は何度も深く頷いて礼を示した。



 さて、いよいよハインケル公へのアピールポイントその1がやってくる。


 案内役を務めてくれたアナスタシアが、ハインケル公に白いローブを手渡した。



「あちらの暖簾のれんの裏で、こちらに着替えてください」

「これを着て、湯に入ればいいのか?」

「そうでございます。身に着けているお召し物は、こちらの籠にお預けください」

「ほうほう……」


 ポイントその1。入浴への心理的障壁の排除。



 アナスタシアが説明している通り、温泉に入る人は、あの白いバスローブもどきに着替えるのだ。



 入浴という文化が無い文化圏の人にとって、人前で裸体を晒すことは、心理的な負担が大きいだろう。我々日本人は、古くから温泉を嗜んできた歴史があるので違和感がないのだが、イギリス人の友人曰く「人前で裸になるのは、気が引ける」という。


 おそらく、この世界の人々も、そういう忌避感を覚えるだろうと思ったので、特注で、バスローブもどきを作ってもらったのだ。小屋を貸してくれたおばあさんの手先の器用なことには、驚かされる。



 本来なら、入浴の時にバスローブなんて着ないのだが、ここは、入浴を知らない異世界。常識なら、作ってしまえばいいのだ。【入浴時は、性別種族を問わずバスローブを身に着ける】と。



「お前たち、世の服を見張っていろ」

「はっ!」


 同行していた世話係と思しき禿頭のおじさんと、猫耳の若い女性メイドに命じたハインケル公は、彼らを伴って「ゆ」と大きく描かれた暖簾のれんくぐっていった。


 しばらくすると、白いバスローブもどきに金髪のコントラストが映えるハインケル公が姿を見せた。



 腕や太ももには引き締まった筋肉が張り付いていて、なんともたくましい体格をしていた。


「足元が滑りやすいため、お気をつけください」



 アナスタシアに手を引かれて、ハインケル公はゆっくりと、湯に浸かった。肩まで湯に浸かると、空を見上げて、歓喜した。


「10の苦節を知り、100の苦難を越えて、幾千の民に天へといざなわれ、ただ一つのエデンを見つけた……素晴らしい仕事だ、アリマ、アナスタシア、ガランドよ!」

「感謝の極み……」

「ありがとうございます、ハインケル様♪」


 俺とアナスタシアは、ハインケル公からの過大なお褒めの言葉を授かり、深々と一礼した。それに倣うように、背後に控えていたガランドも一礼。



 鳥が歌い、風に撫でられた木々の葉がざわざわと声を上げる、自然の中の露天風呂。アルカリ性が強い源泉を取り入れているため、ハインケル公は、肌がヌルヌルとする感触を手のひらで撫でて、確かめている。


 ポイントその2、リラックス効果抜群の景色。



 さらに、続けざま、ポイントその3、温泉の効能。



「こちらの湯は、火属性の魔法鉱石を由来として温められておりまして、【アルカリ聖】という、魔法のエッセンスが溶け込んでおります。肩まで浸かって、湯で体を包み込むことで、肌の調子を整え、全身を清めるといった効果が期待されます」



 アルカリ性の湯という科学的な事柄を、魔法が一般的なこの世界に生きる人に、どうやって説明しようか、寝る前にずっと考えていた。この性質を【アルカリ聖】と、彼らの宗教になぞらえて命名した。


 本来ならば、肌の調子を整えたり、皮膚の汚れを落とす効果が期待できる炭酸水素塩泉※であるが、ハインケル公へのアピールとして「体を清められること」を強調した。




※炭酸水素ナトリウムの含有量が多い温泉。つまり、アルカリ性の温泉。肌の角質をとったり、毛穴の汚れをとったりする効果があるといわれており、「美肌の湯」と呼ばれることも。



「……ほう、ここに浸かっているだけで、身を清め、美しくなれると?」

「はい」

「素晴らしいな、その【アルカリ聖】という魔法は」



 未だ科学の成熟を果たしていない、こんな異世界だからこそ通じるハッタリであった。そんな名前の魔法は、存在しないし、なんなら、昨日の朝に思いついた名前である。


 しかし、岩に背中を預けて体を傾け、青の色に晴れ渡った空を仰視するハインケル公は、ご満悦。



 そして、事前の段取りの通り、俺は、アナスタシアに横目で目配めくばせをした。



――最後のポイント、豊富なサービスである。


 アナスタシアが、暖簾のれんの隣の棚の上にあった瓶と、サンドイッチをお盆に乗せて、それを入浴中のハインケル公に差し出した。



「こちら、コーヒー牛乳と、島でとれた鶏卵のサンドイッチでございます。ぜひ、お召し上がりください」

「おお、では、せっかくだから貰おうか」


 バスローブもどきの襟元で手を拭ったハインケル公が、アナスタシアの手元からサンドイッチを受け取った。


 それを一口頬張ると、また深く頷いて、眼下の木で羽を休める野鳥に目を移した。



――反応は上々。


 もしかすれば、このアピールが成功して、温泉開発と旅館の設立のための初期投資をしてくれるかもしれない。


 俺は、手を合わせて、それを願った。



「うん。サンドイッチと、この飲み物、どちらも上出来だ」



 ハインケル公は、コーヒー牛乳を舌上で転がして、瓶を岩の上に置いて、ここまでの一連の流れを評価し始めた。


「君たちの発想と、歓迎の所作、それから、この湯の温かさと自然との融合、素晴らしいことこの上ない!世の気に入ったぞ!」



 ハインケル公は、天を手で仰いで、声を上ずらせた。口を縦に大きく開け放って、白く並びの整った歯を覗かせる。彼の表情が劇的に変わるのを見るのは、初めてのことであった。



「――君たちの望むものを与えようではないか。幾千の喜びを積み上げ、幾万の力を結束し、千客万来の理想郷ユートピアを作り上げてみせよ!!」



 上機嫌な彼は、俺が最も求めていた言葉を口にした。『望むものを与えよう』という彼の声が、いつまでも反響して聞こえていた。



 俺たちは、温泉旅館建設という夢に挑むための、最高の後ろ盾を得た。

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