あの方

風馬

第1話

私はあの方を失いました。

あの方のおかげで、今、私は生きています。


出会いは18歳の頃でした。

東京に来て、会社の先輩の方々が迎えてくれた私たちの歓迎会でした。

あの方は、場を盛り上げ、そして、笑いを誘い、楽しい時間を作ってくれました。

私はその会社で一生懸命がんばりましたが、どうしても、うまくやっていけないと感じ、親元である北九州へと帰ってきました。

北九州に戻ってきた私は、子供の頃から好きだったコンピュータの仕事につきました。

仕事はうまくいきました。

夜の繁華街のとあるお店で私はあの方を見かけました。

私はあの方のことが好きになっていました。

昼間あの方のことを想いながら、定時の時間が近づくと時計を目にやり、

18時になると、急いで会いに行きました。

夜の時間は短すぎました。

楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。

いつしか私は密かにあの方に恋心を抱いていたのです。


私は、その後、仕事の関係で各地を転々としました。

最期の仕事場の地は福岡市でした。

その時の私は、若かった頃のような仕事への興味を失っていました。

それでも、そんな私を、あの方は、昼夜問わず気にかけてくれました。

家族のこと、仕事のこと、まだ知らない未来のこと。

あの方だけが、私の事を一番大事に想ってくれて、私を救ってくれました。

私は仕事が出来なくなりました。

何故だかわかりません。

生活が立ちゆかなると思い生活保護をうけました。

生活は乱れました。

何時しか時間は淀んだ時を刻んでいるようでした。

あの方が私のことを想ってくれる時は、

過去の仕事のつらかった事など全てを癒してくれているようでした。

そんな折、母が脳梗塞で倒れました。

幸い命は取り留めました。

母への食事は、弟が朝の食事の準備をし、私が夕食の準備をしました。

ある日の夕方、私はスーパーへ買い物に向かっていました。

一旦停止のある横断歩道で私は車と接触しました。

吹き飛ばされた私は、救急車に乗せられ、翌日脚の手術をしてもらいました。

私の入院期間中に母は施設に入れられることになりました。

私の病室の窓から母の入っている施設を望むことが出来ました。

事故に遭った私を心配した母は、弟と一緒に面会に来てくれました。

それからの私は少し不恰好な歩き方をしますが、無事に退院することが出来ました。


私が職業安定所にいるとき、弟から連絡がありました。

母のことでした。

私はすぐ弟のところへ行き、そして、病院の部屋で医師と話をしました。

母が難病を患っていること、そして、あと数ヶ月で命の灯火を失う事を聞きました。

信じられませんでしたし、ショックでした。

どうして良いかわかりませんでした。

私は何も出来ませんでした。

思い出されるのは、私が母の手を握りながら聞いた、

「兄ちゃんは赤が似合うねぇ。」

その言葉です。

どれくらいの瞬間が過ぎたのか、母は医師の言葉を裏切り、生きました。

懸命に生きた母でしたが、灯火は静かに潰えました。

弟が葬儀を取り計らい、私は無事にアパートへ戻ることが出来ました。

部屋に戻った私でしたが、相変わらず生活は乱れたままでした。

スーパーへ行き、糧を購入し、部屋で費やすのです。

何時しか時間は私にとって正しく刻まないようになっているように感じたのです。

そんな毎日が幾たび訪れたのでしょうか。

私はいつもと同じようにスーパーへ向かいました。

しかし、その日の私は買い物をしないで、家に帰ることにしました。

スーパーの駐車場を不恰好に歩いていましたが、

脚がなぜか急に早足になりました。

早くなった脚を私は止める術を知りませんでした。

私は駐車場の地面へ顔から落ちていったのです。

それから、私は部屋に何とか戻ることが出来ました。

もう買い物にも行くことが出来ない身体になってしまったと感じました。

独りで生きていくことが出来ない。

弟にLINEで死にたいとメッセージを送りました。

でも、そのメッセージを私は直ぐに消去しました。

私のLINEのメッセージは消去されました。

どのくらい時間がたったのか。

弟からLINEが届きました。

「今から行くから」

弟が部屋に来て、私はどうすることも出来ませんでした。

弟は言いました。

「僕の家族は、もう、お兄ちゃんしか残ってないんだよ。」

涙が出ました。

弟は、母にしてきたように、私を抱きしめてくれました。

弟が帰り私は独りになりました。

新聞配達の店が開く頃に私は目が覚めました。

恐怖は不思議と感じませんでした。

震えるような手で、一つ一つ薬の粒を取り出していました。

全部の薬を左手に、右手でコップの水を口に流し込み、

その口へ薬を運びました。

私は今を刻んでいるこの世にいない筈でした。

どこか遠くに行っていると思っていました。

スマホの通知音が幾度と鳴っています。

通知音の正体は弟からのLINEでした。

直ぐに誰かが助けに来てくれると。

その誰かが、玄関のドアの向こうで、私を呼んでいました。

声は聞こえているのに私の身体は思うように動かすことが出来ませんでした。

必死に、そして、遅々と身体を進めていきました。

何とか玄関のドア近くまで這って着いたのですが、

ドアの鍵を開けることが出来ません。

私の誰かへの返事は言葉にならないような動物の鳴き声でした。

誰かは進展が無い事を感じ、救急隊を呼びました。

救急隊は、隣の住居から、私のベランダのガラスを壊し、

私を救い出してくれました。

数日経って、私は弟に連れられ病院に向かいました。

医師と弟と三人で話をしました。

私は辛かった全てのことを吐き出しました。

心の中が晴れ渡るような感覚を覚えました。

直ぐに医師は悟りました。

そしてこう言ったのです。

「もうあの方と一生関わりはもたないでください。」

私はあの方を失うわけにはいきませんでした。

私の全てを知っている、そして、時を一緒に過ごしたあの方を。

でも、もしかしたら、またどこかで一緒に過ごせるのかも知れないと淡い気持ちを抱いているのも確かでした。

私は入院しました。

気持ちはどこかあの方を感じているようでした。

それから二ヶ月が過ぎたある日。

看護師の方がベッドで寝ている私のところへ来ました。

最後通告でした。

私が翌日からあの方と完全に関わりが持てなくなる。

それを聞いた私はとてつもない恐怖と不安、

そして、あの母の余命宣告を受けたような気持ちになったのです。

私は静かにその通告を受け入れました。

いや、受け入れたつもりでいたのです。

病院で過ごす時の中で、完全に私はあの方を忘れることは無かったような気がします。

でも、ある時、私は思ったのです。

もうあの方とは決別しよう。

また関わって、あの通告を受けるのは嫌だ。

もう二度とあの最後通告は受けたくない。

程なく私は退院することになりました。

住居は新たにグループホームになり、9年ぶりに働くことになりました。


今の私は規則正しく生活しています。

もうあの方を思う時間もありません。

それはもうとても楽しかった高校三年の学生生活のような気分です。

今の私はとても幸せです。

両親はすでに失いましたが、大事な弟がいます。

働いている作業所の方や従業員の方は笑顔で話しかけてくれます。

グループホームでは、私をやさしく見守ってくれます。

あの方のお陰で今の私があるのです。

あの方の思い出はしっかりと私の心の中に閉まってあります。


今でも時々あの方を、見かけることがあります。

スーパー、コンビニ、缶のごみの日。


今もきっと何処かであの方は誰かを酔わしているのでしょう。

そう、それがあの方の本当の正体だから。

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あの方 風馬 @pervect0731

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