その手を伸ばして
自転車の歴史は、二一三〇年現在では、約三〇〇年にもなるらしい。もっとも、一〇〇年前からちっとも進化していないようだけど。
自転車の荷台に腰掛けた私は、裕介の脚力だけを頼りに、衛星急行のプラットホームに向かっていた。ウェアコンの空気は最大出力だというのに、裕介は息を切らしている。私も漕ごうとしたが、彼曰く「お前は休んどけ」とのこと。
裕介が言うには、あの歴史の授業に、まだヒントが隠されていたという。何度も録画を見直していたところ、光の速度に近付くほど時間が遅く進む、という特殊相対性理論と、重力が弱いほど時間が速く進む、という一般相対性理論の説明が妙に引っ掛かったという。それから、小夜子が月船に向かった可能性を追っていたそうだ。
月船は、重力の弱い月周辺を、最高出力で走行し続けることにより、地球よりも速く時間を進められるタイムマシンだ。月船の一年は、地球の一〇〇年に換算されるという。確かに相対性理論の話と結びつく。もっとも、それらの話は本当に余談であり、私たちは暗号を解読するだけでも居場所が分かるようになっていたけど。
今考えてみると、チイさんは全部知っていたんだろう。小夜子が月船に乗ることはもちろん、私たちが古本屋を訪ねてくることも。
――心配しなくていいよ。一〇〇年後に返しにおいで。
この言葉の意味が、ようやく分かってきたところだった。チイさんも月船に乗って、ずっとずっと遠くに向かう。だから一〇〇年後に返せってことなんだ。でも、私が一〇〇年間確実に生き続ける方法は、まだ思い浮かんでいない。
チイさんが月船に乗るのは、きっと今回だけじゃないだろう。チイさんは過去にも月船に乗ったことがあるはずだ。ちゃんと理由だってある。
古本屋で手に取った、新型コロナウイルスの本。それには二〇一九年一二月と書かれていた。チイさんは今年で還暦だけど、コロナで高校の修学旅行に行けなかったと言っていた。仮にこれを真実とするなら、ウイルスは二〇八七年に流行したことになる。破綻している。つまり、チイさんは二〇一九年の高校生で、その後に月船へと乗り込んだんだ。
点と点が線になる。同時に、日常が終わりを迎えることを知る。
高崎駅が見えてきた。裕介が速度を緩める。足を痙攣させて、ひどく苦しそうに息を吸う。運動部とはいえ、全速力のサイクリングには堪えるものがあったんだろう。
「急げっ」裕介が、かすれた声で叫んだ。「まだ間に合うかもしれないぞ」
その言葉に従い、私は荷台から下りた。仁美の話によると、月船の燃料補給は一日かかるらしい。それを聞いたのが昨日。仮に会えるとしても、ギリギリだろうか。
駅構内に入る。朝だというのに、人が密集していた。人混みをかき分けて、衛星急行を探す。急がないと、小夜子が行っちゃう。
すぐに見つけた。衛星急行の目印は、五〇〇メートルのエスカレータ。しかし人に押されて、遠ざかってしまう。負けじと踏ん張って、一歩ずつ近づく。
エスカレータの前は、案の定混雑していた。エスカレータに乗り込む人と、顔をくしゃくしゃにする人。興味本位で見に来たような人に、大きなカメラを構えている人。衛星急行の停車・発車は一大イベントだ。
「あれっ」急に肩を叩かれる。「睦月ちゃん。睦月ちゃんじゃないの」
振り向くと、チイさんがいた。手提げバッグを持って、ただのお出掛けを演出している。チイさんも衛星急行に乗るのに。いや、演出なんかじゃない。チイさんにとって、衛星急行は一大イベントじゃなくて、日常の一部なんだ。
「睦月ちゃんも、切符を持っているの?」
「そんなの、ないですよ」私は苦笑する。「優れた功績がないと貰えません。小夜子みたいに、特段プログラムができるわけじゃないし」
チイさんの手には、緑色の切符。衛星急行のものだ。二二三〇年行きと書かれている。チイさんも、本当に行ってしまうんだ。
「アタシもプログラムはできないわ。せいぜい、歴史学者として後世に歴史を残すだけ」
チイさんが、口元を隠しながら笑う。その仕草がずっと好きだった。
「この時代でも国からお金を貰って活動していたけど、紙の書籍の需要が全然なかったの。でも過ごしやすくて、つい長居しちゃった」
「それは良かったです」心から嬉しくなる。「小夜子に、よろしくって言ってください」
チイさんは、人差し指を振った。「それは嫌ねえ」
「えっ、どうしてですか」
私が困惑していると、チイさんは踵を返した。そのまま離れてしまう。やけに小さく見える背中。これでさよならとでも言わんばかりに振る舞っている。
「教えてください。どうしてですかっ」
私が叫ぶと、チイさんは、ただ一度だけ振り返った。そして口を動かす。チイさんの声は喧騒に紛れてしまったけど、口の形から、何を伝えようとしているか理解できた。
チイさんは「あなたが直接伝えなさい」って言ったんだ。
私自身が伝える。それは、かなり大変なことじゃないか。大混雑のエスカレータを見上げながら、一筋縄ではいかないなと感じる。
エスカレータに並ぼうとしても、長蛇の列。かといって引き返すわけにもいかない。もし引き返したら、暗号を解き明かした裕介が、ああ俺の努力は徒労だったのかと嘆くに違いない。チイさんが残念がるに違いない。
私は、二人分の期待を背負っているんだ。
そのとき、私は目を見開いた。口を開けて、息を吸った。気が付いてしまった。道は残されている。あまりに単純な手段が、ちゃんと残されているじゃないか。幸いなことに、誰も使おうとしていない。
錯覚した。これは私のために残された道なんだって。
ならば応えるのみ。自分を奮い立たせて、やってやるんだと自己暗示。退屈の対極にある解決の方法。人混みを抜けて、スタートラインに立つ。
階段。
かつて見た、小夜子の幻影が浮かぶ。私の前を走る、小夜子の背中。米粒みたいになって、もう見えない姿。階段を濡らした汗の雫まで、鮮明に回想される。
私が進もうとしているこの道は、そうだ、小夜子が教えてくれたんだ。
――エスカレータよりも、階段の方が速いんだよ。
追いついてみせる。追い越してみせる。
階段に、足を踏み出す。蹴って、進む。前へ、前へと。愚直に上る。一段飛ばした。残り何段。考えるな。上れ。走れ。追いつけ。追い越せ。もっと前へ。
壁が消える。天井の管轄外。雲が見える。突き抜ける。青い空が透き通る。線路が、空を描く。燕が、空を駆ける。青に溶けて、雲に紛う。白い羽が舞う。教会の鐘が、鳴り響いた。午前六時を、告げ知らせた。汽笛は、まだ聞こえない。間に合う。走れ。踏み出せ。追い越せ。もっと速く。もっと高く。
地面を、家を、ビルを、見下ろした。地平線、消えて水平線。既に高い。建物より、ずっと高い。されど、より高く。もっと遠くへ。もっと空へ。止めるな、足を。息を。
息が詰まる。詰まる。詰まる。速度を緩めて、ウェアコンを、調節する。一五度。痛んだ喉を、まだ痛くないんだと欺く。息を吸った。空気が澄んだ。ウェアコンをしまう。ああ、涼しい。まだ走れる。更に遠くまで。行ける。追い越せる。息が詰まる。息を止める。生き求める。走る。遠く彼方へ。
ゆっくりと、エスカレータが昇る。追い越せる。踏み出す。私は上る。一段飛ばし。踏み込んで、二段。三段目は無理だ。二段飛ばしで、高く、遠く。一歩で三人追い越した。二歩で七人追い抜いた。この足なら、どこまでも跳べる。もしかしたら、飛べるかもしれない。線路の先まで。青色を越えた天体まで。月よりも、もっと遠くの惑星まで。
階段を駆ける。突き抜ける。予定調和を蹴飛ばした。口を開き、息を吸う。髪がたなびく。たった一人、自分の足で空を目指す。足音が心地良い。余韻と侘しさを味わわせる、自由で孤独なメロディ。羽のように軽やかで、足枷のように厄介。会いたいという意思だけが、ちっぽけな私を、青と白の諧調に溶かした。
プラットホームが見える。エンドロールを予感させる。思い出だけを抱えて、はいさよならと手を振りたい。振れやしない。戻れやしないんだ、小さな頃には。
だから追い越してやるんだ。背中を追うばかりだった小夜子を。
プラットホームまで、じきに届く。もう数えていない、何百人追い越したかなんて。
私が追い越したいのは、小夜子だけだ。私の前をずっと走っていた、小夜子の背中だけを見据えているんだ。
小夜子がいた。エスカレータだ。お互いに、あと数秒でプラットホーム。止まれ、昇るな。私が追い越すんだ。足を動かす。踏み出す。上り、汗を垂らす。歯を食いしばる。咆哮して、振り絞る。
「睦月っ」懐かしい声が聞こえた。小夜子だ。
大本命。その素っ頓狂な声と表情を見に来たんだよ。
右足に力を込める。少し溜める。足を曲げて、ぐっと縮む。そうして、一思いに跳び上がった。一段、二段、三段飛ばし。鈍重な時間。永遠か刹那か分からぬ跳躍。機会を窺い、足を、振り下ろす。つま先が、重力に囚われる。
私が、着地した。
追い越した。
小夜子を、追い越してやったんだ。
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