ここではないどこかへ

 その昔、公園なる場所があったらしい。私たち三人の母親が出会ったのも、近所の公園だったと聞いた。もっとも、老人たちのクレームで消えてしまったようだけど。

 要するに、私たちの生きる時代は、子供同士の交流が盛んでないってこと。だから私に幼馴染がいたのは、かなり恵まれたことだったんだ。本来なら、小学校に入学する前なんか友達の一人もいないらしい。実際、学校なんてなくてもよかった。勉強なんてゴーグル一つで事足りるんだから。

 孤独で可哀想な時代だって、誰かが言ったのを覚えている。お父さんかお母さんか、はたまたチイさんか。あるいは機械音声かもしれない。

 勝手に同情しないでよ。可哀想な時代で、私たち三人は出会ったんだよ。

 何をするにも一緒の三人だった。坂を上って、なにもかも見下した気になった。太陽が沈んでも帰らずに、なにもかも知り尽くした気になった。毎週誰かしらの家にいた。決まったことはしなかった。三人でいることが心地良かった。

 日常が壊れたのは、中学生になってから。

 三人の共同体で暮らしていた私には、オシャレのことなんか微塵も頭に入っていなかった。スカートは伸ばすもので、肌は荒れても構わなくって、アイラインどころかリップも知らなかった。だから目を付けられたんだ。

 授業中に叩かれることがあった。ゴーグルを装着していたから、誰か分からなかった。こっちを見ながら笑われた。「男女」って聞こえてきた。それが自分だなんて、思いたくもなかった。面と向かって罵倒されてから、リミッターが外れたように、私は四方八方からの悪意を向けられるようになった。

 仁美の悪意が混じっていたのをよく覚えている。別に主犯なんかいなかったけど、多分、罵倒してもいい人だって思われたんだろう。

 小夜子と裕介には、私に関わらない方がいいって何度も伝えた。それなのに、二人は小学校のときと同じように、何も変わらずに接してくれた。

 日常が壊れたのは、私が我慢できなかったから。

 小夜子に「助けて」ってワガママを言ってしまったから。

 もう限界だった。でも嫌だって伝える勇気もなかった。私はどこまでも臆病だった。だから小夜子に頼ってしまった。小夜子は顔が整っているから、どうすれば男女から脱却できるか教えてくれるはずだ。そう考えた。考えてしまった。

 確かに小夜子は、私にオシャレの秘訣を教えてくれた。アイラインの引き方も、チークの入れ方も、小夜子直伝だった。だから私は、自己肯定感が特別上がったわけではないけど、それでも平凡な女の子に成り代わったはずだった。

 その日からだ。小夜子が、休み時間もゴーグルを装着するようになったのは。

 最初は勉強に力を入れるようになったのかな、と思った。でも、クラスメイトの悪意が私から小夜子に変わった瞬間に、小夜子の意図を察知してしまった。

 あの不格好なゴーグルを装着することで、小夜子は、自分が陰口を叩かれるように誘導していたんだ。

 すぐに問い詰めた。どうしてゴーグルを装着するのって。小夜子は「さアね」と微笑むだけだった。本当は分かっているくせにって、そういう目つきをしていた。

 それから、小夜子は私たちに約束を取り付けた。一緒に帰らないことと、教室では小夜子から話しかけないこと。それから、仁美に取り入って仲良くすること。どの約束も、三人の日常を壊すには充分すぎる内容だった。

 もちろん私は反対した。私が頼ったせいで、どうして小夜子が我慢しなきゃいけないのか分からなかった。私たちが嫌いになったのなら、早く言ってほしいと伝えた。

 ――そんなコト、あるわけないでしょ。

 小夜子が感情を露わにしたのは、そのときが最後だった気がする。

 ――それでも、絶対に私を助けないで。

 助けたら許さないから。

 声の裏に隠された意味を、図らずとも察知してしまう。小夜子は助けを求めていない。それでも助けたら、今度こそ、三人の関係が破綻してしまうかもしれない。日常が壊れてしまうかもしれない。

 大事なものが変わってしまうこと。臆病な私には、それが、なによりも恐ろしかったんだ。



   ◇



 月面というのは、ただひたすらに何もないもので、私はすっかり疲弊と退屈に苦しめられていた。

 メッセージを見るに、仁美は目的地のコロニーに到着したらしい。迎えに行く体力もないので、自力で到達してほしいとのことだった。せっかくの修学旅行なのに、やることはひたすら歩くだけ。憂鬱になる。

 視界の隅には、宙に浮く線路。真空状態だから、月船はガタンゴトンとも言わずに、沈黙のまま走る。私は、このまま線路に沿って歩けば、やがてコロニーに到着するだろうと思った。ウェアコンも、あと五時間は空気を放出してくれる。空気があれば音が伝わるから、最悪近くの誰かに助けを求めることだってできる。

 それでも不安だ。孤独が嫌いだ。綱渡りでもしている気分だ。誰かに手を握ってほしい。一人じゃ怖くて仕方がない。ウェアコンの温度は三〇度なのに、震えが止まらなかった。

「睦月」

 誰かが私を呼んだ。いや、誰かなんて分かっていた。私に手を差し伸べてくれるのは、知る限り、二人しかいない。

「コッチ向いて」

 言われるがままにした。見知った顔があった。小夜子だ。目頭が熱くなる。小夜子といると安心してしまう。だから「助けて」なんて言って、小夜子を陥れてしまったんだ。

「泣かないでよ」小夜子が微笑む。「睦月を襲いに来たわけじゃないよ」

「分かってるよ」

 分かっている。そんなこと。小夜子のことを一番知っているのは、私だ。

 小夜子は一人だった。話を聞くに、班の人たちをコロニーに残して、一人で私の元に駆けつけたのだという。健気な子だって思う。好きだなあって思う。

「ねえ、睦月」

 小夜子がどこかを指さした。目を遣ると、地球が見えた。

「私たちは地球にいるから、月とかいう、ちっぽけなものが明るく見える」

 本当はどこまでも暗いのにね。小夜子は目を細めて笑った。

「月に住んだら、地球が明るく見えるのかなあ。あんな閉塞的な惑星なのに」

 そんなこと、分かりやしない。私は苦笑いを浮かべる。

「行きたいなあ」

 小夜子が虚空を仰ぐ。火星もガニメデも海王星までも通り越した、誰も知らない真っ暗闇に目を向ける。私はそれを、少しも観測することができない。

「どこか遠くに。ここではないどこかに……」

 小夜子がいなくなってしまうんじゃないかって恐怖が、ずっと私を縛り付けていた。それは論理に基づいたものじゃなくて、単なる寂しさだったんだと思う。私たちはずっと一緒で、離れることなんか考えられなかった。小夜子が「一緒に帰らない」という約束を取り付けたときも、私は、溢れ出す感情を我慢するのに精一杯だったんだ。

 でも、もう二度と小夜子にワガママを言えなかった。言いたくなかった。あの「助けて」がなければ、私が我慢すれば、三人でずっといられたんだから。ここで「行かないで」なんて言ったら、今度こそ、どこかに行っちゃうかもしれないから。

 ――どこか遠くに。ここではないどこかに……。

 私も憧れていた。どこか遠くに行くことに。きっと小夜子のせいだ。本来の私は、何も変わらないことを望んでいるような人間だから。小夜子に憧れていたから、私まで遠くの景色に憧れてしまったんだ。

 私は思う。自分自身の言葉で、小夜子を変わらない場所に封じ込められたらって。

「小夜子」

 でも言語化はどうにも苦手だった。だから、小夜子を私の隣に留めておくには、約束を破るという方法しか思い浮かばなかったんだ。

「一緒に帰ろう」

 小夜子は嬉しそうに頷いた。口元を緩めて、「ウン」と言った。

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