夏雲の季節
「二番、綾瀬さん」
苗字を呼ばれて目を覚ます。そうだ、今は授業の時間だ。
「一分以内にゴーグルポインタを装着してください。さもなければ出席にカウントされません」
抑揚のない機械音声が、教室に反響した。うるさいなあ、と小声でぼやく。こっちは寝不足で、休み時間に眠っていたんだ。機械はそういった事情を考慮してやくれない。血の流れていない教師というのは、まったく都合が悪いものだ。しかし出席点は欲しい。私は机の天板を開いて、渋々ゴーグルを取り出した。
このゴーグル、見た目が保護メガネのようでなんとも不格好だ。しかも授業の度に装着する必要がある。機能面ばかり追求されて、消費者の気持ちは何も考えられていない。せっかく可愛いブレザーを着られるというのに、これでは気分が上がらない。
中学三年生になった私は、人からどう見られているか、今までよりも意識するようになった。たとえば、スカートの短さとか、肌の荒れ具合とか。アイラインがズレた日には、学校すら行きたくない。一日中みっともないゴーグルを装着して、目元を隠すことも考える。
そもそも、ゴーグルがあるのに、どうして学校に行かなきゃいけないんだろう。学校は「同世代との交流の場を設ける」「伝統を重んじる」なんて説明する。実現可能な技術があるなら、とっとと実現すればいいのに。大人は頭が固い生き物なんだと、つくづく思う。
ゴーグルを装着すると、ちょうど授業が始まったところだった。退屈で仕方ない、歴史の授業。
「本日は近代分野です」機械音声が喋る。「元号でいいますと、令和から孝元。これらは『万葉集』と『日本書紀』からの引用です。繰り返します。『万葉集』と『日本書紀』ですよ」
視界に『万葉集』と『日本書紀』の紙の書籍が現れた。参考資料ということだろうか。読書はゴーグルのリーディングシステムで済ませてしまうから、表紙のある本を見る機会はほとんどない。
「では、本日の内容に入っていきます」
一度瞬きをすると、砂時計のような図形が、目の前に現れた。もっとも、その砂時計とやらを実物で見たことはないけど。紙の書籍といい砂時計といい、今日は珍しいものばかり見る日のようだ。
「早速ですが、余談を挟みましょう。この図形は光円錐と呼ばれています」
この光円錐、古典数学で出題される相似な図形に似ている。
「世間一般が言うところの『過去』と『未来』とは、この光円錐を脱出した先にあります。しかしながら、光円錐を脱出するには、光の速度を超える必要があるのです。そして二一三〇年現在、光よりも速く移動できる物体は観測されていません」
ため息をつく。これでは物理の授業だ。いくら機械が授業をしているとはいえ、その機械をプログラムしたのは人間なんだ。もはや授業を受ける気力はなかった。
「ですが、今から一〇〇年前の二〇三〇年、不可能と思われたタイムマシンは実現したのです。物理学者アルベルト・アインシュタインの特殊相対性理論に基づくと、光の時間に近付くほど『時間』が遅く進むとされています。また、一般相対性理論に基づくと……」
我慢の限界だ。ゴーグルの離席ボタンを選択して、不格好なそれを机に置いた。時間旅行の話はうんざりするほど聞いている。うんざりするほど知っている。未来にしか行けないのに「タイムマシン」と呼んでいることも。タイムマシンで一年過ごせば一〇〇年後に行けることも。
隣の席を見ると、裕介もゴーグルを外していた。あいつも退屈なんだろう。機械音声の真似をして「船波くん」と言ってみると、裕介は勢いよく振り向いた。そしてため息を吐く。
「お前かよ」野太い声だ。「全然似てねえのに、苗字で呼ばれると緊張する」
「じゃあ、裕介」
裕介は困ったように笑い、前髪を触った。「残りの離席タイムはどれくらいだ」
「離れたばかりだから、九分ちょっと」
「こっちは残り一分だよ。そろそろ戻らないとな」
本来はトイレや体調不良のために設けられた離席ボタン。開発者の思いと裏腹に、私たちは休憩に使っている。一回につき一〇分の猶予が与えられて、超過したら減点だ。
しばしば疑問に感じるけど、本当にお腹を痛めた生徒が、一〇分以内に帰ってこられる保証はあるんだろうか。技術だけが先走って、抜け穴を置き去りする現代社会が、私はとっても嫌いだ。毎晩、歯車に成り下がる自分を想像する度に、将来への絶望と嫌悪感が増していく。
裕介が「それじゃ」と、再びゴーグルを装着した。他に話し相手はいないかと、周囲を見渡してみる。一人だけいた。でも話したことのない男子だった。目が合ってしまったから、軽く会釈した。
多少気まずくなりながら、今度は小夜子に目を遣ると、彼女は真面目に授業を受けているようだった。私が知る限り、小夜子は一度も離席したことがない。それどころか、休み時間もゴーグルを装着していることすらある。
私と小夜子と裕介は、母親同士が友人だったこともあって、小さな頃からよく遊んでいた。小学生のときは、毎週誰かの家にいたものだ。特に決まったことはせずに、ゲームとか、勉強とか、読書とか、各々が好きなように過ごした。ただ単純に、三人でいることが楽しかったんだ。中学校に入ってからは離れ離れになってしまったけど。
裕介はバスケ部の部員と、私は賑やかなクラスメイトと行動するようになった。小夜子といえば、誰とも一緒にいなかった気がする。何度も私のグループに入れようとしたけど、いつも断られた。
「生贄が必要なんだよ」これは小夜子の言葉だ。「そうだねえ。たとえるなら、ピラミッドを支えるための人柱ってやつ」
小夜子と最後に話したのは月面だった。地球に帰ってから数日経ったけど、それから一度も喋っていない。小夜子はゴーグルに夢中で、私は人目を気にするので精一杯。話せなくても仕方がないと割り切るしかなかった。
離席タイムが残り一分を切ったから、再びゴーグルを装着した。しかしながら、機械音声は未だに余談を話している。今はPythonとかいう一〇〇年前のプログラム言語の話だ。興味がないので聞き流す。適当なことを考えていると、すぐに授業が終わってしまった。
「番号を無作為に抽出します」機械音声が言う。「二九番、橋田くん。三一番、渡部くん。明日までにレポートを提出してください。これは授業の理解度を測るものです。資料からの引用・転載は一切禁じます」
視界が真っ暗になる。ゴーグルを外すと、仁美が立っていた。辺りも騒がしく、どうやら休み時間を迎えたようだ。時計は一〇時三二分を指している。
「どうしたのよ」仁美が眉をひそめる。「二分もゴーグルしちゃって。調べ物? 分からないところは、録画された授業を見返せばいいじゃない」
「いや、授業が今終わったの。分からないところもなかった」
「二分も遅れて終わるって、不思議ねえ」
「本当だよ」心底同感する。「遅れたことなんか一度もなかったのに」
私は頬を掻きながら、ちらと裕介に視線を向ける。まだゴーグルを付けていた。裕介の友達たちも、席を囲って怪訝そうにしている。小夜子を除いた他のクラスメイトは、あの不格好なゴーグルを机に置いて、思い思いの時間を過ごしていた。
「あの子は、いつも通りか」
仁美が指す「あの子」とは、言わずとも分かる。授業後にもゴーグルを付けているのが普通だと思われているのは、このクラスには小夜子だけだ。裏を返せば、ゴーグルを付けないことが多数派にとっての普通だということ。私もそれに従っている。従わないと、怖くてたまったものじゃないから。
「悪いとは言わないけど」仁美が眉をひそめる。「ちょっとねえ、ダサいよね」
周りにも聞こえるような声量だった。一部の女子が振り向く。そして「メッチャ分かる」と同意する。小夜子を指さして、下品な声で笑う。ゴーグルは外部からの音を遮断するから、本人は聞いちゃいない。聞こえてほしくないと願うのは、良心の呵責。もしくは平凡な日常への固執。
「いつもスカしてるの、鼻につくよねえ」
「プログラムコンテストで優勝したからって、周りを見下してるんだよ」
「本職のプログラマーにも勝ったんだっけ。あ、そう、だから何? って感じ」
耳を塞ぎたかった。今だけは、あの不格好なゴーグルを装着したかった。でも悪口から離脱するってことは、小夜子に味方するってこと。味方になりたくないわけじゃない。四面楚歌の状況下で助けるのは無謀だってことだ。
「ねえ」仁美が言う。「睦月も、そう思うよね」
思わない。ダサくなんかない。小夜子はいつだって私の前にいて、自分自身を曲げない、憧れの人なんだ。誰よりもカッコいい、私の幼馴染なんだ。
みんなは何も知らない。プログラムコンテストで優勝したことも。本当は明るくて愉快な人だってことも。私と裕介の幼馴染だってことも。何も分かっちゃいない。分かろうともしない。
首を横に振りたかった。「そんなことない」って叫びたかった。ゴーグルを突き抜けて、小夜子にも聞こえるくらいに、とびっきり大きな声で。
でも、だめだった。窮屈だけど、多数派に染まることで満足していた。私にとっては、日常の破綻こそが、どんな事態や災害よりも恐ろしかったんだ。
だから、仁美に同調するように首を縦に振ったって、罪悪感を覚えることもなかった。これなら何も変わらないだろうって思ったから。二度と変わってほしくなかったから。
放課後、窓から茜色の光が差し込む。六月下旬の夕景。
部活に向かう仁美に別れを告げてから、誰にも見られないように、そっとため息をつく。今日も平凡でいられた。何も変わらなかった。日常が壊れることもなかった。それがどれだけ幸せなことか、私には分かっている。
小夜子は、自分が陰口を叩かれていることを知っていた。その上で、私と裕介に「何もしないでほしい」と頼んできたんだ。理由を問うと、彼女は優しく微笑んだ。
「未練ができちゃうから」
てっきり「二人も陰口を叩かれるから」という回答を予測していた私には、未練という言葉が、ひどく浮いたものに思えた。魚の骨のように引っかかって、なんとも不自然だったことを覚えている。
ふと肩を叩かれて、意識を現実へと戻した。裕介の仕業だった。
「悪いなあ、睦月」裕介が頭を掻く。「バスケの練習があるんで、一人で帰ってくれるか」
「別にいいよ。頑張ってね」
裕介は胸元からウェアコンを取り出して、ダイヤルを二〇度に調節した。これほど低い温度に合わせるということは、よほど練習がハードなのだろう。運動部は大変だ。
「じゃあ、また明日」言い終えて、すぐに行ってしまった。
私は首の骨を鳴らしながら、ゴーグルを装着している小夜子に視線を向けた。二人きりの教室。誰もいないなら、私も小夜子も話しやすい。
「ねえ」小夜子の肩を叩く。「もう放課後だよ」
小夜子が「ンア」と間抜けな声を出して、ゴーグルを外す。私の姿を捉えると、嬉しそうに口角を上げた。
「睦月から話しかけるってことは、用事でもあるの?」
「あの、一緒に帰りたいなあって」私は頬を掻く。「久しぶりに、チイさんのところに顔を出そう。ほら、古本屋を営んでいるチイさん」
「チイさんには会いたいけど……」
小夜子は目を伏せた。どうして目を伏せたかなんて、もうとっくに分かっていた。
「ごめん、睦月とは帰れない。約束でしょ」
そう、私たちは一緒に帰れない。裕介と三人で決めたことだった。
それでも声を掛けたかった。陰口に同調したことに対する、一種の償いの意味もあったのかもしれない。あなたには私がいる、という頼りない存在証明。
「じゃあ、私は帰るね」
「うん」小夜子がえくぼを作る。「帰りなアね」
帰りなアね。独特な日本語だ。小夜子らしいな、と思いつつ、私は教室の扉を開ける。一度振り返った。小夜子が「バイバアイ」と手を振っていた。目を細めて、歯を見せた。それが愛おしいと思った。
やっぱり、一緒に帰りたい。
咄嗟に「あのさ」と声をかけた。小夜子は手を下ろして、「ン」と反応する。教室には二人だけ。誰もいやしない。このまま「一緒に帰ろう」と言えばいい。でも、言葉が喉元で引っかかる。
形式的な約束が、私を縛り付ける。
言えない。帰ろうが言えない。それなら一緒に帰れない。そもそも、どうして一緒に帰りたいんだろう。それは私のワガママだ。二度と小夜子にワガママを押しつけてはいけない。小夜子と一緒に帰れないのは、日常を守るためだ。小夜子を守るためだ。これ以上を望んで、どうするというんだろう。こんな私に、何ができるっていうんだろう。
「やっぱり」小夜子から視線を逸らす。「なんでもないよ」
そのまま廊下に飛び出した。仕方がなかった。あのまま教室に留まっていたら、感情が溢れ出していた気がする。それではいけないんだ。小夜子が守ってくれたものを、私のワガママで壊しちゃいけないんだ。
「これで、よかったんだよ」
言い聞かせるように呟く。廊下が橙色に彩られて、それが斜陽の到来を告げる。私は帰らなきゃいけない。でも小夜子は一緒に帰れない。仕方ないから一人で帰ろう。そうやって、自分を正当化した。
正当化?
違う。私は間違っていない。間違ってなんかいない。
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