血迷った求婚者 6
あれは三年前だっただろうか。
わたしが十五歳の、社交デビュー前のことだ。
ベルクール国では、ほとんどの貴族令嬢が十四歳から十六歳の間で社交デビューする。
そして、できるだけ早く社交デビューした方が結婚市場で有利に働くので、大半が十四歳、遅くとも十五歳で社交界に出ることがほとんどだ。
社交デビューすれば貴族社会では成人したとみなされる。
ドレスのデザインも子供から大人のものへと変わり、夜会への出席が認められるようになるのだ。
カンブリーヴ伯爵家でも、お姉様のベアトリスは十四歳で社交デビューを果たした。
もともと端正で大人びた顔立ちをしていたお姉様は、十四歳のときにはすでに子供っぽさはなく、デビュタントでは堂々としたものだったとお父様が言っていた。
お姉様という前例があるので、家族はわたしも十四歳で社交界に出ることを期待したけれど――わたしはできる限り社交デビューを遅らせたくて、十五歳のときもまだ領地の邸で子供丈のドレスを着て過ごしていた。
オレンジ色の強い金髪は無造作にリボンでまとめただけで、度なしの眼鏡をかけて。魔術の練習をしたり本を読んだりしながら、来年になったら否が応でも社交デビューしなければならないのかとうんざりしながら過ごしていたのだ。
そんなある日のことだった。
わたしは領地に残っていたけれど、社交シーズンにはお姉様を含め家族全員が王都のタウンハウスに移っていた。
使用人たちと一緒に領地でのんびりしていたわたしの元に、お姉様と同じく十四歳で社交デビューしていた二歳年上のマリオットがやって来たのだ。
十歳の時にマリオットに「魔女のような目」と言われてしばらく落ち込んだけれど、五年も経てば子ども同士の関係なんて簡単に修復される。
マリオットへの淡い恋心はあの日無残に砕け散ったけれど、彼が幼馴染であることには変わりなかった。
てっきり、マリオットも社交シーズンに王都に行っていると思っていたわたしは、彼が突然訪ねてきて驚いたものだ。
丘の楓の木の根元に座って本を読んでいたわたしは、やって来た彼を見上げて首を傾げた。
「どうしたの? お父様たちは全員王都に行っているわよ?」
わたしは、マリオットとお姉様の間に婚約話が浮上していることを知っていた。
家族同士仲がいいし、領地は隣同士だし、マリオットは次男だし、我が家の婿と考えるならマリオット以上に相手はいないとお父様も言っていた。
わたしが十歳のときのあのひと騒動も、子ども同士のことではあるし、マリオットはもともと快活で優しい性格をしている。魔術の腕は中の上くらいで、頭もいい。彼が来てくれるならカンブリーヴ伯爵家も安泰だろう。
わたしは相変わらず眼鏡をかけ続けていたけれど、別にこれはマリオットに対しての当てつけではなかった。
彼に目のことを言われた時は傷ついたけれど、年月が経つうちに言われてみればそうだなと自分でも思いはじめていた。
わたしのように濃い緑色の目をした人はほかに見ない。
世の中には他と違うものを嫌悪する人もいるから、他人を不快な気持ちにさせるのなら眼鏡でぼかしたほうがいいのだ。
「アドリーヌ、話があるんだ」
わたしの隣に座ると、マリオットは言った。
改まった様子の彼に、わたしは読みかけの本にしおりを挟むと、体ごと向き直る。
「何? もしかしてお姉様のこと? お姉様は確かにモテるけど、浮気をするような性格じゃないから心配しなくても大丈夫よ」
「そうじゃない」
先手を打って教えてあげたのに、マリオットは少し不機嫌そうな顔になった。
「ベアトリスは関係ない」
お姉様に関係しないのなら何の話だろう。
自慢じゃないが、マリオットとわたしは特別趣味が合うわけでもない。
非社交的なわたしと違い、マリオットは社交的なタイプだ。家にこもるよりは外に出たい人だし、自然と会話はそんな外の世界のことになる。
反対にわたしと言えば、口を開けば魔術のこととか本のこととかばかりだ。自分がつまらない女の子だという自覚もあった。
「なあ、アドリーヌ。俺と婚約しないか」
今日はいい天気だな、くらいのさらりとした口調でマリオットは言った。
「……は?」
わたしは目を点にして、まず、自分の耳を疑った。耳の中に何か詰まっているのだろうか。変な単語が聞こえた。
そしてマリオットの少しだけ強張っている顔を見て、ああ、幻聴ではなかったのかと理解する。
「ねえ、何を言ってるの?」
マリオットはお姉様との婚約話が浮上している。わたしじゃない。わたしはカンブリーヴ伯爵家の跡取りではないし、お姉様を差し置いて自分が跡を継ごうなんて考えていない。
マリオットはお父様に我が家の婿として、次期伯爵として望まれているのだから、わたしと婚約するのはお門違いだ。
……第一、マリオットはお姉様が好きでしょう?
子供のころから一緒に過ごしていたのだ。わたしにだって、多少の感情の機微くらいはわかる。
去年か一昨年か……お姉様とマリオットが社交デビューをして少し経ったくらいから、マリオットがお姉様を見る目つきが変わったことくらい気づいていた。
本の世界に逃げている子供のわたしと違って、お姉様もマリオットも大人になったのである。そう思った。
「いろいろ考えたんだ。俺は、お前と結婚するのがいいと思う。そうするのが最善だと思うんだ」
「意味がわからないんだけど」
そこにわたしの意思はあるのだろうか。
他の爵位も持っていない伯爵家の次男と次女が結婚して、そこになんの生産性があるというのだろう。
せっかく次期伯爵の地位が約束されようとしているのにそれを棒に振るなんて馬鹿ではないのか。
それ以前に、お姉様という好きな女性がいて、すでに周囲も二人の結婚を認める雰囲気であるのに、その妹と結婚するのが最善だと言う彼の考えがわからなかった。
マリオットは真剣な顔で続ける。
「俺は責任を取るべきなんだ」
「いったい何の責任よ」
「お前に対する責任だよ」
わたし、マリオットに責任を取ってもらわなくてはならないようなことをされただろうか。
ますます解せない気持ちでいると、マリオットが手を伸ばしてわたしの眼鏡を奪い取る。
「あ! ちょっと返してよ!」
「度なんて入ってないんだから、なくたって見えるだろう?」
「そういう問題じゃないのよ!」
十歳の時からずっと眼鏡で瞳の色をぼかしてきたのだ。すでに眼鏡は体の一部で、ないと落ち着かないのである。
「俺の、あの不用意な一言のせいで、お前は傷ついたんだろう? だからずっと眼鏡をかけているんだろう? だから俺は、お前に対して責任を取りたい」
「その責任が婚約? 結婚? 誰がそんなことしてほしいなんて言ったのよ」
マリオットの手から眼鏡を奪い返して、わたしはそれをかけなおした。マリオットの指紋がくっきりとついているせいで、視界が悪い。
「それとも何? 責任を取らないとわたしは一生独り身だって言いたいわけ? 可哀想だから結婚してやろうって、そういうこと?」
自分でも可愛げがないことを言っているとは思う。でも、無性に腹が立ったのだ。
「それから、わたしがいつまでもあの日のことを根に持って、だから眼鏡をかけているってそう言いたいの? 五年よ? いったいどれだけ自意識過剰なのよ。別にこの眼鏡は、マリオットのせいでかけているわけじゃないわ!」
はじまりは確かにそうだった。でも、それだけの理由で五年も眼鏡をかけ続けるほど、わたしは繊細じゃない。
「わたしは責任と結婚なんてしない。そんな重たいものに縛られて過ごすなんてまっぴらよ」
ましてや、相手の男の心にはお姉様がいるのだ。その状態で責任を取って結婚してもらって、わたしが喜ぶとでも思っているのだろうか。みじめになるだけだろう。
「どうしても責任が取りたいなら、お姉様と結婚してお姉様を幸せにしなさいよ。わたしはお姉様が幸せそうな顔を見るのが好きだもの」
わたしはキッとマリオットを睨みつけて、もう一度繰り返した。
「それともあんたは、わたしが責任と結婚しなければ他に結婚相手も見つけられないような、みじめな女だって、そう言いたいわけ?」
マリオットはしばらく押し黙って、それから小さな声で「ごめん」と呟いた。
謝罪なんて欲しくなかったけれど、理解したならそれでいいと、わたしは読みかけの本に視線を戻す。
――お姉様とマリオットが婚約したのは、それから三か月後のことだった。
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