第五話 夜の残した影跡 ②
影を落とす。
それはもしかしたら、初めての事なのかもしれない。
これまで能天気に生きてきたおかげか、何か真剣な悩み——いや、この場合は苦悩と言った方がいいのかな?
兎に角、私はこれまでの人生において、何かを不安がったり、それに頭を悩ませるなんてことは殆どなかった。
テストの度に頭を悩ませてるけど、多分あれとは種類の違う話だ。そういうことでしょ?
例えば、自分の将来に不安を感じてみたりと、そういう種類の漠然としたものだ。
けど、こんな悩みを——私にとっては少しばかり辟易してきた、あの多くの男子生徒の私へのアプローチも——こういう影を産んでいたのかと思うと、それを認めて抗ったのだと思うと、素直に尊敬出来るし、羨望の眼差しすら今ならしてしまう。
紗夜先輩からあんな事を言われるまで、一切の不安なく星香と恋人になれると信じていた私はもしかしたら、能天気どころの話ではないのかもしれない。
だけど、紗夜先輩が残した夜の跡は、影になって心に染み込んでいた。
影とは光があって初めて存在できるものだ。
星香との関係性に可能性を見出しているからこそ、影あるんだろう。
そうやって素早く自分にとってのポジティブな要素を思いついてしまう私は、やっぱりどうあっても能天気な存在なんだろう。
そして、何て自分勝手な人間なんだろうとも、同時に思ってしまう訳だ。
暖色系のホッと一息が吐いて出る様な、そんな灯りが店内を満たしていることに気付いた。
昼間の明かりの中では気付かなかった、暖かみのある光に私は、すっかり夕闇の帷が降りていることを知った。
「結構長居しちゃったね」
もう三杯目になるコーヒーを飲み干したタイミングで時折星香も混ざる談笑を終えて、そろそろ帰宅するか、とカバンを手繰り寄せる。
「あ、那月」
財布を取り出して会計を済ませようかとすると、佐竹が何かを思いついた様に私の手を制止した。
もしかしたら奢ってくれるのかな、とかなり現金な期待を頭に過ぎる。
「そろそろ星香、上がりだからさ一緒に帰れば?」
と、私の期待した提案じゃなかったが、期待以上のものであった。勿論二つ返事でそれを了承すると、少し戸惑った様に星香は頷く。
その頷きの動作に前向きな意味合いが込められているのか、それとも嫌々或いは渋々というような感情が込められているのか。
判断しかねたが、私のように餌皿を差し出された犬の様の如く即座に反応した訳じゃないのは確かだ。
そういう小さな感情の機微に聡くなったのは、私が彼女に恋をしているからなのか。
(それとも——)
紗夜先輩が落とした影が、私を弱くしてしまっているのか。
バックヤードに戻って帰る準備を終えた星香と共に佐竹の店を出る。
「あの……保科先輩は?」
「ああ、保科はこの後すぐバイトだからまだ時間潰しから向かうってさ」
言いながら、やはり、というか流石に、というか。臆面も無く生きてきた私の中に初めて感じる疑念が湧く。
——やっぱり、星香は私と二人きりは嫌なのかな。
それを思うと、泣き出したくなるし、彼女に嫌われたくない一心で逃げ出したくもある。
それでも、一秒でも長く彼女と二人で過ごしていたいという望みもあるのは確かで。
そういう矛盾した二つの心が、私を責め立てる。
「あの……」
と、星香は控えめに声を出す。
「ん?」
出来るだけ怖がらせない様に、優しいさを意識して応える。
「那月先輩達って仲良いですよね」
「そうだねぇ、ウマが合うっていうのかな?性格は全然違うけどさ、一緒にいるのが楽しいって感じなのかな」
というか、お互い暇な時は遠慮なく呼び出す仲と言うべきかも知れない。
それがとても気楽だったりする。
「昔から仲良いんですか?」
「全員高校からの知り合いだよ、どうして?」
「いえ、佐竹先輩って昔からあんなに優しいのかなって」
優しい?
結構マイペースで時々毒を吐くイメージなんだけど。それが星香の目には優しく映っているらしい。
「引っ込み思案で、人見知りだったんですけど……佐竹先輩がバイトに誘ってくれたおかげで、少しだけ、ちょっとだけそういうのも克服出来るような……そんな気がしてるんです」
「そうなの?星香は全然そんなふうに見えないけど」
少しばかり大人しい娘。そういう印象はあるけど、引っ込み思案とか人見知りという感じは私には感じられてない。
というか元々、人のそういう部分には不感症というのもある。
「そうですか?よく人からも言われますけど」
と、自嘲するように笑う星香。
——その表情を見て、私は確信した。
星香は、そういう自分が嫌いなんだ、と。だから、機会さえあれば、そういう自分から脱却したいのだとも。
そして私は理解してしまった。
紗夜先輩の言葉の意味を。
私はそういう星香が好きなんだ、と。
星香が否定する星香を好きだからこそ、星香は否定する自分を好きな誰かを好きになることは無いのだ。
でも、それは。
でもそんなことは。
答えの無い真理に到達した人は、何を思うのだろう。
背反する望みを夢に見た子供は、何を思うのだろう。
夜の中にある影は、影と呼べるのだろうか。
私の吐き出した言葉の中に、私の答えはかき消えたままだった。
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