3・ある晴れた週末の朝

 溶けたアイスが手首を伝う、俺はその仄かに水色の甘い水滴を、人目も憚らずにベロンと舌で舐め取った。

 外気温は午前の時点で30度を軽く越え、こうして日陰のベンチに座っているだけで汗が滲むのはもちろん、Tシャツの背中や脇をみっともなく濡らしていく。

「あちぃ……まだか……」

 道路を渡った所のコンビニでアイスキャンディーを買ったは良いものの、この数メートルの距離を移動するだけでも本体が取り出しにくい程に中身が袋との張力を生んでいた。

 元居た建物の外には庭園が広がり幸い木陰も有るし、映えそうなファンタジックでアンティーク調の木製ベンチも設えてある。ロビーで食べたらスタッフに悪いかもしれない、そう思ってここで食べ始めたのだがアイスの溶け具合を見ればこの選択は正しかったと俺は確信した。

 腕を舐める間にもアイスからは新しい水気が出てきて、俺は一体何を食べているのか分からないほどに本体と指とに顔を往復させる。


「いつまでかかんねん…もう済んだか…?」

 俺はベタベタになった手を洗うべく建物内へ戻り、お手洗いを借りてアイスのゴミも捨てさせてもらった。

 ついでに用も足してから、ロビーを通ってエスカレーターで地下一階へ降りて行く。


 天井が高い建物だが、どこを歩いても、先程のトイレの個室でさえ空調が効いて涼しかった。

「生き返んなぁ…」

 今日は彼女ととある用事に出てきたものの、担当者を待つしばしの時間にクアーと《欠伸》をしたのを咎められ、「そんなに退屈なら、私一人で決めるから出て行け」と室外へ追い出されてしまった次第である。

 俺の欠伸に深い意味など有る筈もなく、眠たかったわけでもなく、ただ「お待ち下さい」と座らされたら反射的にこみ上げてきただけなのだが、最近めっきりナーバスになった彼女には当然面白くなかったわけだ。


 少ない休みを合わせてまで作った今日の時間、確かに俺も態度が悪かった。このままふて腐れて帰るのは得策ではないと思うが彼女とて同じだろう。こういうことは二人でしなければ意味がない、これは準備を任せっきりになっていた俺に彼女が昨夜言った言葉である。


 さて機嫌は治ったのか、絨毯敷きの長い廊下を彼女が居る部屋へゆっくりと足を進める。

 廊下の突き当たりには一面ガラス張りの一角、ショーウィンドウのように正に着飾られたマネキンが2体並んでライトアップされていた。さっきは追い出されてもしばらくはここで待っていたのだが、椅子も無いしやはり退屈で、館内をウロウロしてから外へ出たのである。


 一時間ぶりにゆっくりと中の様子を窺うと、スタッフの女性と目があったのでコソコソと進捗具合を尋ねてみる。

「どないなりました?もう決ま………はぁ、………うん?………ハァ?」

 どうやら彼女は既に最良と思われる物を選定し、当日まで俺には見せないつもりでいるらしい。

 頭に血が上ったとはいえ俺の意見を聞かずにソレを決定してしまうのはいかがなものか。あらかじめ彼女は数点にまで候補を絞っていたとはいえ、俺の意見も取り入れなければ意味がない。彼女の隣に立つ俺だって、ソレに合わせた物を選ばなければ様にならないのだから。

「んで…俺のは…?………ハァ⁉︎」

 彼女は俺の分まで勝手に決めて、後は採寸をして小物を選ぶだけで良いらしい。

「いや…、こんなカップル、居てます…?俺、何にしたか分からへんの…?」

 俺たち以外にも準備中に喧嘩になる人は多いらしい。俺の身体の採寸をしながら、何の救いにもならない話を衣装担当の女性がしてくれた。

 ちなみに今、彼女は奥の更衣室で私服に戻り、小物のレンタル料などの詰めをしているらしい。



 採寸が済んでテーブルで待っていると担当者と談笑しながら彼女が歩いてきて、出してもらったアイスコーヒーを吸う俺を一瞥いちべつしてから「もう決めちゃったから」と得意げに言い放つ。

「ええよ、俺も採寸したしお前の好きなようにせぇ……何にしても似合うがな、ねぇ、お姉さん」

 第三者が居る所で仲直りしてしまおう、別段お世辞でもなく本心だが俺は彼女を褒めて、プランナーの女性へ話を振った。


 再来月に迫った俺たちの挙式、その前日の前撮りまでドレスを拝めないのは惜しいが、きっと彼女によく似合っていると思う。

 プランナーは「喧嘩する程仲が良いって言いますものね」と笑い、おそらくそれまでも仲直りするために励ましていたのだろう、彼女の耳元で「ねっ、」と耳打ちして背中をポンと叩き、赤い頬の彼女を俺の元へ返した。

「ほな、また…よろしゅうお願いします、」

 彼女はもう何度か衣装合わせに来るかもしれないが、おそらく俺はこれが最後であろう。

 それなりの挨拶をして昼飯を食べに表へ出る。


「わざとやないけど態度悪かったわ、すまんな、…………うん?…あー、そんなんええから、メシ食いに行こ」

 俺を一方的に追い出した彼女の謝罪は敢えて聞かない、挙式前になっても式が済んでもきっとこんな喧嘩は繰り返されるのだ。

 死が二人を別つまで、片方が逝ってからも仏壇へ文句を言い続ける性格の夫婦に俺たちはきっとなる。


 式場を出て地元まで彼女の車で走り、行きつけの中華料理屋で俺は唐揚げセットを勝手に2つ注文する。

「ええやん、ダイエットはもう…肥えたら着物にすりゃええがな…ひひひ…」

 彼女が式に向けてダイエットを頑張っていることもよく知っている。だが充分に締まったと思うし、そのせいでカリカリして俺たちの仲が険悪になっては本末転倒であろう。


 俺はにこにこと旨そうに飯を食べる彼女を見るのが好きだし、数ヶ月お預けだった鶏の唐揚げを頬張ったその顔は毒気が抜けたように穏やかで福々としていて可愛らしかった。

「旨いなぁ、また来よな、」


 彼女のマリッジブルーはまだしばらく続くだろうが、彼女自身もその怒りが理不尽で不条理であることをよく分かっている。落とし所を用意してやればこんなにもうまく関係は回っていくのだ。

 マリッジブルーはいつしかヒステリーと呼ばれる日が来るかもしれないが、その頃には彼女も肝が据わっていることだろうし俺も簡単には折れず存分に応戦してやるつもりでいる。

 怒りっぽいババアと口の減らないジジイ、「昔はコイツも可愛いかってんなー」などと皮肉る日が容易に想像できる。


「しかし…6月でこれやで?8月んなったらもう頭バカになってんとちゃう…?こない暑い時にせんでもなぁ…、汗で顔も崩れるんちゃうの…」

 ジューンブライドではなく8月の花嫁、この式の日取りについては彼女の希望であった。

 曰く、「記念日なんて忘れちゃうんだから、貴方が忘れない月に一つにまとめておいた方がいい」だそうだ。

 8月の記念日…それは俺の誕生日、それどころか初体験も同棲開始もプロポーズも、俺たちの全ての記念日は8月だ。

 「それならお前の誕生日でもいい、惚れた女の誕生日を忘れる奴があるか」、そう言ってやりたいが一度忘れてしまった前科があるので、俺は

「そらぁ、便利やね、さすが、」

としか返せなかった。



 そうしてあっという間に式の前日。

 俺たちは近くの宿泊先から式場へ早朝から移動した。

 前撮りは白のウエディングドレスとカラードレスの2パターン、俺はもちろんどちらもまだ見せてもらっていない。

 撮影は式場の外にあるガーデンで、俺が腰掛けてアイスを食ったあのベンチも使うかもしれない。


 俺の支度は髪をかすのと顔の血色をよく見せる化粧だけ、後はドレスシャツに袖を通して丈を詰めてもらった燕尾のタキシードを身につけるだけである。

「おぉ……ええやん」

 これが彼女のドレスと対になるのだ、その色は白というよりアイボリー、これなら彼女のドレスの純白が一層際立つに違いない。

 ウォールハンガーにはカラードレスと合わせる2着目のタキシード、黒いシャツに赤いネクタイ、そして黒いスリーピースのスーツ。派手だがどこか品がある。


 「このタキシードを先に見られて、旦那様に似合うだろうって先に決められて。それからこれに合うドレスをってカラードレスを選ばれたんですよ」、衣装担当が彼女の可愛い秘密を簡単に漏らしてしまった。


 俺が映える衣装、彼女は早速いじらしいことをしてくれる。

「へぇ…でもアイツも黒やったら地味とちゃいます?…ちなみに何色でっか?」

 衣装担当はこれも簡単に「鮮やかな赤ですよ」と教えてくれた。


 黒い俺と赤い彼女、想像には毒々しい感じもするが互いに引き立てあって美しいかもしれない。

 もっとも俺は、彼女を差し置いて目立つ気などさらさらないのだが。


 コンコンと扉をノックする音がして「準備ができましたのでガーデンへどうぞ」と促され、白い革靴を履いて一階へ移動する。

 ロビーを通ってガーデンへ、自動ドアが開けば空気が動き、かんかん照りの熱気がムアっと俺の耳の下を通り過ぎて行った。


「…もう出てんのか………」

 6月に俺が腰掛けた木陰のベンチの横には彼女が、横からパラソルを差してもらって佇んでいた。


 俺の到着をスタッフが知らせるとドレスの裾がくるりと舞い、白く眩しく太陽を反射する。

 立ち姿は凛々しく可憐でたくましくて、隣に並べば俺など粉塵になって消し飛んでしまいそうなほどに無垢で…美しい。


「………………」


 こちらを振り返り陽の元に出て来る、そして「どう?似合ってる?」と目尻を下げて分かりきった答えを求める妻の姿が俺の想定以上に…


「言わんでも分かるやろ…」


あんまり綺麗で、目頭が熱くなった。




おわり


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