新異世界の塩事情◆中編◇後編

 後編では、いわゆる「中国大陸」と呼ばれる狭いエリア内で、数多くの王朝が興っては消え興っては消えし続けた歴代中国王朝における塩政史に絞っておさらいしておきたいと思います。


 塩が歴代中国王朝で重要視されてきたことは、『漢書』(=前漢に関する歴史書)「食貨志しょっかし・下」(=経済に関する記録)の「塩は食肴の将軍(=ありとあらゆる食べ物の中で最も重要な食べ物)であり、酒はあらゆる薬の中で最も効果のある薬である」(鹽食肴之将、酒百薬之長)、『晋書』(=晋に関する歴史書)「食貨志しょっかし」の「塩は国の至宝である」(鹽者国之大宝)といった記述を読むまでもなく、「塩」という字そのものを見るだけでも分かると言われています。


 そもそも塩化ナトリウムを表す文字として使われている「塩」はあくまでも日本独自の俗字であって、中国では「鹽」――簡体字では「盐」であってやはり「塩」ではない――が長年使われてきたそうなのですが、この「鹽」という字、「水の入ったたらいを、しっかりと目を見開いた人がのぞきこんでいる様子をかたどる象形文字」であり「取り締まる」という意味のある「監」という字の省略形に、「しお」を意味する「鹵」を組み合わせて作り出されたものなのだとか。「鹽」という字は発生の瞬間から「塩を見張り、取り締まる」という意味を持たされている以上、そこに「国家による塩の管理」つまりは「国家による塩の専売」という意味が追加される程度のことは時間の問題だったということなのでしょう。


 そんな中国における塩の専売は、さいの宰相管仲かんちゅうの「塩を作らせ(制度を)整えて塩を(税として国庫に)積みましょう」(為鹽、正而積之)という提言によって始められたと言われています。その管仲に仮託した、戦国時代末から漢代にかけての人々によって完成された、道家どうか(=無為自然あるがままを説いた一派)の書とも法家ほうか(=法治主義を説いた一派)の書ともされる『管子』〈軽重甲篇〉に拠れば、管仲は「国は塩がなければ人民が病気になる」(国無鹽則腫)・「(敵からの侵略を)守り防ぐ(必要のある)国は、塩の消費がはなはだしい」(守圉之国、用鹽独甚)などと発言している(ことになっている)わけです。このことからも分かるように、管仲は「斉には(渤海に面した)渠村と展村の塩がある」(斉有渠展之鹽)ということの優位性をよくよく理解していて、塩を国庫に集め、「塩の取れない国」(饋食之国)に国策として「これを輸出する」(糶之)ことで、斉は「巨万の富を得る」(得成金万一千余斤)ことに成功するのです。


 ただ、この場合の「専売」はあくまでも「かき集めた塩を武器に斉という国の力を対外的に強めるための政策」であって、「専売」によって「かき集められた税収を国家予算の財源としてあてにする政策」を最初に採用したのは――そこまで国家財政を困窮させたのは――前漢の第七代皇帝である武帝(=武力で国土を広げた皇帝や戦乱を平定した皇帝に死後贈られる称号。戒名のようなもの)でした。


 中国歴代王朝では、皇帝のポリシーや周囲の意向によって塩との付き合い方ががらりと変わってしまいます。歴史的な変遷で言うと、概ね「無税制→徴税制→専売制→徴税制→無税制」で一巡といった感じで、これをぐるぐると繰り返していたと言える模様。念のため、各制度をおさらいしておきたいと思います。


●無税制

 塩は生きるに不可欠なものであり、人間の健康にも重大な関係がある上に、他のものでは代用できないことを理由に、課税の対象外とする制度。三代(夏殷周のこと)以前・隋・唐初期に採用された。――要は前漢の元帝や隋の文帝のように、儒教に傾倒して理想を追いがちの皇帝の治世の際に導入されがち。


●徴税制

 塩は生きるに不可欠ではあるものの、一人一人の必要量が少ないことを理由に、課税の対象とする制度。塩の生産地に課税している点、徴税後には一切の制限を加えない点、「課税しても庶民に痛手はない」という点が専売制とは異なる。三代(夏殷周のこと)・秦・前漢初期・後漢・六朝によって採用された。――始まりは「常識の範囲内での課税」であったものの、秦以降、どんどん税率が上がったうえに、商人は商人で自分たちの利益を貪ったため、塩の値段は高騰し、人民は苦しめられることとなった。


●専売制(全五種)

 塩は生きるに不可欠なものであるからこそ、塩に関する事業からは莫大な利益が生まれることを理由に、事業を民間に任せることは利益もまた民間に独占させることになるとして、塩を国有のものとして国家がその営業に当たり、塩の存在そのものを租税としてしまうことで、「商人によって利益が好き勝手に使われることを防げる上に、人民の負担を軽減できて、さらには国家の収入をも増加できる」とかいう一石三鳥を謳った制度。


①部分的専売制

 塩の製造を主として民間に委ねつつも、国家も補助的製造を行なうという広い意味での専売制。塩場が散在して管理しにくい地方では官営、塩場が多く管理しやすい地方では民営とした点に特徴がある。民間で製造された塩は全部国家が買い上げ、政府が出荷や販売を行なう。春秋時代の管仲が提唱した政策こそがこの制度。


②全部専売制

 製造から販売まで、塩に関する全事業を完全に国営化するという狭い意味での専売制。徴税制の下、政府の財政を顧みずに私腹を肥やしたり、勢力を強めたりしていた塩商人の排除を目的とした。前漢の武帝時代に採用されたのがこの制度。――確かに商人は排除できたものの、つまりは政府の都合だけで簡単に塩の価格を操作して儲けることができるようになったということであって、役人が商人にとって代わっただけに過ぎなかった。結果的にはやはり塩の価格の高騰で人民は苦しむしかなく、後に専売の是非を問う塩鉄会議が開かれることとなった。


③間接専売制(就場専売制)

 塩の製造は登録制にして民間に任せ、これを政府が全て買い上げたうえで、政府の認可した商人にのみ転売することで、出荷や販売の権限そのものはあくまでも政府が握ったまま、実務は商人に任せるという専売制。「塩を作る民の利益も商人の利益も奪わなかった」と評価されていることから、専売制中最善の法とされたため、後世でも採用されることが多い。唐の第五琦だいごき(盛唐から中唐にかけての政治家)が提唱したものを、劉晏りゅうあん(盛唐から中唐にかけての政治家)が受け継いで実行した制度。唐の劉晏時代・宋(の中期)・金・元・明(初期から末期直前まで)時代に採用された。――唐代には専売担当の政府の役人として塩鉄使えんてつしが新設された。課税価格で塩を得た商人は塩鉄使の管轄区域内では自由に運搬や販売ができた。塩の密売人たちの活動が活発になったことで、取り締まりの費用が必要となる、費用捻出のために塩の価格が上がる、ますます塩の密売人たちの行動が活発になる、という負のスパイラルに陥った。また、宋代には政府の輸送費削減対策の一環として、「政府指定の食料を指定の辺境に運んだ商人にだけ塩との引換手形が発行され、その手形を塩の産地に持ち込んで塩とその販売許可証とのセットに交換した商人だけが塩の販売ができる」という「入中法にゅうちゅうほう」と呼ばれる通商法が適用された。明代には宋代と同様の方法を「開中法かいちゅうほう」と呼んで実行した。


④混合専売制(官商並売制)

 フランスが大塩税グランド・ガベル区と小塩税プチ・ガベル区に分かれていたように、産塩地方を二分し、一方を政府の出荷販売エリア、もう一方を塩商人に委ねるエリアとして、相互に干渉し合うことがないように境界を定めた専売制。人口の集中しているエリアを政府が、地方や僻地を商人がそれぞれ担当するように割り振るなど、各地の実像に合わせるために融通を利かせることを理由に取り入れられたものの、実際には塩税が複雑化してしまった元凶と言える。五代(後唐こうとう)・宋(の初期)・遼・金・元時代に採用された。――政府と商人(密売人含む)とが利益を争う結果となり、政府の塩庫は貯蔵塩が乏しくなっただけでなく、政府が販売するという前提、安全に塩を運んで売るという通商ともに破壊されるに至った。


⑤商専売制

 政府が塩を買い取ることなしに行なわれた初めての専売制。何らかの方法で商人に先に銀を政府に納入させたうえで、その対価として塩の出荷や販売をさせた。明代末期や清代に導入された。――明代の「開中法かいちゅうほう」は引き続き実行された。



 財源として永らく重視されてきた塩ですが、中国大陸での生産は、古くは主として内陸部でなされるものでした。特に、中国文明発祥の地と言われる「中原ちゅうげん」(=黄河中下流域にある平原)の一部分である、今日の山西省さんせいしょう運城市うんじょうし(歴史的には河東郡などと呼ばれた地域)は、古くから中国最大の塩の生産地である塩湖「解池かいち」を擁し、全盛期には中国で使われている七割以上の塩(この場合は池塩)を生産していたのだとか。黄河流域でもあることから交通の便も良く、中国最初の王朝と言われる(紀元前2100年頃~紀元前1600年頃)の都城だけでなく、春秋戦国時代の晋の首都や、戦国時代の魏の首都も運城地域に設けられています。


 ――そんな中国で生産されている塩の種類は、上記の池塩を含めて五種類。その詳細と分布は以下の通りです。

●池塩=古くから王朝の栄華を支えた、塩湖から作られる塩。(分布:解池・花馬池・擦漢池・雅布賴池など)

●海塩=産出量一位、海水から作られる塩。(分布:渤海・黄海・東海・南海など)

●井塩=限られた場所のみで作られた、井戸から汲み上げた地下塩水から作られる塩。(分布:四川省・雲南省など)

●土塩=食用にはならない塩。(分布:黄河両岸・山西北路および口北など)

●岩塩=辺境にあり、交通の便の悪さからほとんど開発されていない塩。(分布:新疆しんきょう=ウイグル・雲南省・西蔵せいぞう=チベット)


 ちなみに山西省運城市出身の有名人と言えばやはり、中国の通俗小説『三国志演義』の英雄の一人としても名高い蜀の武将、関羽かんう(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)ではないかと思います。その彼さえも民間伝承では勝手に塩の密売人だったことにされていることはご存知でしょうか。出身というだけで「じゃあ(塩に)かかわっていたな」と思われる、それほどまでに解池が塩の生産地として有名すぎたということなのでしょう。



◇塩と『黄帝内経こうていだいけい


 現存する中国最古の医学書と言えば、前漢代に編纂された『黄帝内経こうていだいけい』(全十八巻 by『漢書』)。現代に遺っているものは、後世に何やかやと書き足されたり編集し直されたりしたものであるようなのですが、ひとまず、黄帝こうてい(中国古代の伝説上の帝王。いわゆる「三皇五帝」の一人)と岐伯きはく(黄帝の臣下。伝説上の名医)との問答形式で「漢方医学の基礎理論」を記述している「素問そもん」(全九巻)と「鍼治療」について記述している「霊枢れいすう」(全九巻)の二部構成のものが最初期のものだったようです。


 とにもかくにもその『黄帝内経』には「食塩と健康の関係性についての記述がある」というのですから驚きです。何ならこの件に関しては最古の文献と言ってしまっても良いのかも知れません。

 食塩と健康の関係性が塩政史と直接関係があるかどうかはさておき、「舞台が中国または中華風の世界となる物語」をお書きになる方には参考になる可能性が大であるということで、特に有名な数か所についておさらいしておきたいと思います。


●「塩気|(のもの)を食べすぎると、血管が滞って血行不良になり、(顔色が)変色してしまう」(多食鹹、則脈凝泣而変色〈素問・五臓生成篇第十〉)


●「(過剰に摂取された)塩気は血液(の流れ)に打ち勝ってしまう(=正常な流れを阻害する)、そのためその(塩気を摂りすぎる)人々は皆、(腎臓の機能が低下したり血液の循環が悪くなったりしているために皮膚が)黒く、(肌の肌理きめも)粗いので、その(地域の)病気と言えば皆、癰瘍ようよう(と呼ばれる皮膚化膿性炎症などの外科的疾病)となるのである」(鹽者勝血、故其民皆黒色疎理、其病皆為癰瘍〈素問・異法方宜論篇第十二〉)


●「塩気は腎臓に入(り込んで腎臓を養うと同時に痛めつけ)る」(鹹入腎〈素問・宣明五気篇第二十三〉)


●「塩気は血液に作用し(血液を損傷して血流を悪化させるとされているため)、(高血圧や動脈硬化といった)血液の病気(の患者)が塩気を多く摂取することはない」(鹹走血、血病無多食鹹〈素問・宣明五気篇第二十三〉)


●黄帝がおっしゃることには「塩気は血液に作用し、これを多く摂取すると口の渇きをおこさせるというが、何故か」。小兪が申し上げることには「塩気が胃に入りますと、その気はのぼって中焦ちゅうしょう(と呼ばれる気と水の通り道のうちへそから鳩尾みぞおちにかけての部分)に作用して血管に入り込みます。すると血管には血液が流れているので、血液と塩気は混じり合いまして、(血液の粘度が高まることで血流が)滞ってきます。(血流が)滞ると(流れが悪くなるのを防ぐために)胃の中から水分が(血管に)注がれます。これが注がれると(今度は)胃の中(の水分)が枯渇します。(胃の中の水分が)枯渇すると食道が渇きます。それで舌の根本が乾いてよく渇きを覚えるのです。血管は、中焦ちゅうしょう(と呼ばれる気と水の通り道のうちへそから鳩尾みぞおちにかけての部分)の道です。それで塩気が(過剰に)入り込むと血液に作用するのです」(黄帝曰「鹹走血、多食之、令人渇、何也」。少俞曰「鹹入于胃、其気上走中焦、注于脈、則血気走之、血与鹹相得、則凝、凝則胃中汁注之、注之則胃中竭、竭則咽路焦、故舌本干而善渇。血脈者、中焦之道也、故鹹入而走血矣」〈霊枢・五味論篇第六十三〉)


 ――いかがでしょうか。漢方独特の解釈ですし、摂りすぎた場合の影響についての説明しかありませんが、興味深くお読みいただけましたら幸いです。



◇塩と塩鉄会議


 長年の外征(主として対匈奴きょうど戦)と度重なる大土木工事の実施によって国庫を空にした武帝劉徹りゅうてつ(前漢第七代皇帝。前漢の最大版図を築いたことで名高い)が、「商人の利益を抑圧して国家の財政を確保すること」を目的として、力づくで導入したことで知られる漢代の塩鉄の専売(並びに均輸法きんゆほう平準法へいじゅんほう)ですが、この武帝の死から6年後の武帝の子(前漢第八代皇帝・昭帝劉弗陵りゅうふつりょう。武帝の六男)の代には塩鉄(と酒)の専売制の存続の是非(並びに均輸法きんゆほう平準法へいじゅんほうの是非)について討論する会議が開催されます。それが「塩鉄会議」(始元6年・紀元前81年)です。


 会議は、法家ほうか思想に基づいているかのような専売肯定派(政府の官僚)と儒家じゅか思想と農本のうほん思想に基づく専売反対派(民間の知識人)が議論する、という形式で行なわれたようです。これは中央対地方(プラス商人)の代理戦争であると同時に、大臣桑弘羊そうこうよう(全制度を導入した張本人)対大将軍霍光かくこう(皇帝の外戚)の代理戦争でもありました。対話形式の会議の記録(≒議事録)である『塩鉄論』(全十巻)を読む限りでは、議題は塩鉄(と酒)の専売制の存続の是非(並びに均輸法きんゆほう平準法へいじゅんほうの是非)だけに留まらず、思想や社会、経済や法制など多岐にわたっており、会議はかなり白熱したと言っても良いのかもしれません。


 なお、塩鉄の専売についての両者の主張は以下の通り。


 専売肯定派(政府の官僚)の場合

 1.(軍事費用の財源が確保できることで)財政の負担の軽減に大きな役割を果たしている

 2.(国が一元的に管理することで)安定的な供給に大きな役割を果たしている

 3.(反乱勢力に財政源を渡さないことで)反乱の抑制に大きな役割を果たしている

 4.(軍事費用の財源が確保できることで)匈奴への出征が可能になり、匈奴の侵攻を未然に防ぐことに大きな役割を果たしている


 専売反対派(民間の知識人)の主張

 1.(国家が人民と利を争っているにすぎず)国家の政策として不適当である

 2.(官吏の商人化が避けられないところから)汚職の横行を助長している

 3.(国家が一元化することで画一的にならざるを得ず)それぞれの地域の実情に見合っていない

 4.(匈奴まで出征してまで匈奴を討伐すると国が荒れるため)まずは内政を重視すべきであって、匈奴討伐のための財源は必要ない


 議論そのものは専売反対派(民間の知識人)が優勢で進んだものの、具体的な対案を出せなかったため、結果的には廃止は酒の専売制のみにとどまり、塩鉄の専売制は依然継続されることとなってしまいます。――これらが廃止されるのは、武帝の長男の曾孫(前漢第十一代皇帝・元帝劉詢りゅうせき。儒教に傾倒するあまりに国政を混乱させた)の代(紀元前44年・初元5年)のことでした。その結果、国家財政は危機に見舞われます。


 ちなみに「均輸法きんゆほう」と「平準法へいじゅんほう」はどちらも政府収入の増大と商人の利益抑制を図ることを目的とした法律で、「均輸法きんゆほう」は「政府が物流を直接管理するための法律」、「平準法へいじゅんほう」は「政府が物価を直接管理するための法律」、だと思っておいていただければ基本的には問題ないのではないかと。

 また、「法家思想」は法によって国を治めようとする「法治主義」という考え方、「儒家思想」は道徳によって国を治めようとする「徳治主義」という考え方、「農本思想」は「農業は国家を運営する基盤であり、体制の維持に農業・農村の維持が必要である」という中国独自の考え方、をそれぞれ意味しています。



◇塩と『塩鉄論』


 塩鉄会議(始元6年・紀元前81年)の対話形式の記録(≒議事録)を、武帝の曾孫(前漢第十代皇帝・宣帝劉詢りゅうじゅん。中国歴代皇帝の中でも名君の一人とされる。武帝の長男の孫・元帝の父)の代に十巻六十篇に編纂したものが『塩鉄論』であるとされています。編纂者の桓寛かんかん(生没年不詳)自身が直接会議に参加していたかどうかは不明なものの(なんたって生没年不詳ですから)、当時の議事録や(今となっては紛失してしまっている)会議資料などを活用して編纂されたものと考えられています。――その割には篇名は気休めにすぎず、内容の整理も不十分ではあるのですが。



◇塩と安史の乱


 唐代の二大反乱と言えば「安史あんしの乱」(755~763年)と「黄巣こうそうの乱」(875~884年)になるかと思いますが、両者は実は「塩で繋がっている」と言えないこともないのです。というのも黄巣をはじめとした塩の密売人を生み出すことになる「塩の専売制」は、安史の乱の戦費を稼ぐため――より厳密に言えば同盟相手であり援軍を出してくれた回紇かいこつ(要はウイグル)に報酬を払うため――に導入されたものだったからです。塩の専売を司った財務官である塩鉄使えんてつしが設置されたのもこの頃のことです。「塩を専売したうえで、数十倍の専売税(要は塩税ガベル)をかける」ことで、唐政府は労せずに財源の確保に成功します。中唐期には塩からの税収は唐政府の全収入の半分を占めたとさえ言います。


 武力国家から財政国家への転換。


 これより唐は百五十年ほどの延命を果たします。それは同時に(官塩に比べたらまだ)安価な闇塩――生産地から政府の目を盗んで勝手に持ち出した塩――を売りさばいて巨額の富を得る「塩賊(=塩の密売人)」を生み出すことにも繋がりました。唐王朝はフランス政府のように国家が販売する官塩の購入量を義務づけたりはしませんでしたので、人民は闇塩を買い放題の状況にありました。そして、後に「黄巣の乱」で指導者に祭り上げられることになる黄巣(835~884年)や、最初に挙兵した王仙芝おうせんし(?~878年)も、その中の一人だったわけです。



◇塩と黄巣の乱


 塩の密売人が指導者に祭り上げられている以外では塩とは何の接点もない、長年「農民の反乱」扱いされてきた唐代末期の暴動。正しくは、政府が「密売塩の摘発の強化」という形で自分たちの既得権益●●●●が侵したことに反発した塩の密売組織が武装蜂起したところへ旱魃に蝗害こうがいに洪水に重税のコンボに苦しんでいた農民たちが便乗したもの。複数人いた塩の密売人のうち、最後まで指導者に祭り上げられたままだった黄巣の名を採って一般に「黄巣の乱」と呼ばれています。


 その実情については蝗害こうがいをまき散らすイナゴの大群を想像していただくのが最も近いのではないかと思います。密売組織のネットワークと数千万という農民の数の暴力を生かし、中国各地を転々としながら占領と略奪と消費を繰り返す「大流賊るぞく団」。そこには最低限の大義名分さえもありませんでした。例えば彼らにむさぼられた広州は交易港としての機能を失い、回復するまでには数十年を要したとさえ言います。彼らは最終的に六年かけて中国内地の富を略奪し、消費しつくしたうえで首都・長安入りするのですが、そこで初めて皇帝を名乗ってみたり、何らかの大義名分を打ち出してみたりし始めるのです。


 インドやアメリカでは支配の象徴であり、人々が命がけで奪い合った「塩」ですが、黄巣の乱の指導者●●●たちにとっての「塩」は楽に稼げる代用可能な商品の一つにすぎなかったようで、最初に蜂起したはずの王仙芝おうせんしは官職を餌に唐王朝から投降を働きかけられるとあっさりと応じていますし(黄巣に激怒されて結局決裂)、黄巣は黄巣でもっと手っ取り早く稼げる手段(=略奪)に流されて以降、二度と塩の密売人として働くことはありませんでした。それでもこの反乱は、唐王朝の塩政を崩壊させてしまう大きな一因ではあるのですが。


 ただ、もしかしたら「塩の密売で金と人をかき集めたうえで武力で成り上がる」というのが、中華風立身出世物語におけるオーソドックスな型の一つであると言ってしまっても良いのかも知れません。先述の関羽もまた、民間伝承では勝手に塩の密売人だったことにされている訳ですし、君主の権力を下支えする最も重要な財源が塩の専売による収入であった以上、それに群がる密売組織が姿を消すということはありませんでしたから。――事実、五代十国時代ごだいじっこくじだい朱全忠しゅぜんちゅう後梁こうりょう初代皇帝=太祖)・銭鏐せんりゅう呉越ごえつ初代国王)・王権おうけん前蜀ぜんしょく初代皇帝=高祖)のように、塩の密売組織の棟梁が建国した例は数多くある訳です。歴史は勝者が語るものである以上、「塩の密売人たちは悪政の手先と化した塩商に立ち向かう正義の味方である」などという解釈がまかり通っていたとしても不思議ではありません。


 処刑されて人生を終えた黄巣にしても、その途中ではわが世の春を謳歌したわけですし、皇帝とまで名乗り、歴史にも名前を遺しますから――この時点で『史記』の「伯夷列伝」を一通りお読みの方々はうすうすお察しのことかとは思われますが――中国人的にはいわゆる「勝ち組」として評価されている可能性があるかも知れないという国民性の違いに愕然としてみたり。


 ちなみに故事成語「天道是か非か」も生んだ「伯夷列伝」は、オープニングパートとAパートとBパートの三つに分かれていまして、兄弟が餓死するAパートの山場が「天道是か非か」であり、日本の高校漢文の教科書や問題集などに掲載されているのもまたAパートのみになります(「天道是か非か」「首陽山に餓死す」等の独自タイトルが勝手につけられていることの多いアレです)。著者・司馬遷の歴史家としての矜持と本音がぎゅっと詰まったBパートがカットされているのは日本人の価値観や美意識とは到底合わないからでしょう。Aパートを台無しにする蛇足だと思われているのかもしれません。――兄弟の不遇を嘆きに嘆いたAパートから一転、Bパートでは「死に方が悲惨だからどうした、歴史に名を遺せない方がよっぽど悲惨だし、そういう人間の人生を書き残すことこそが自分の使命だ」とかいうようなことを言い出しますからね。

 いかに近くて遠い国かを思い知る格好の教材になること間違いなしなのに。もったいないことです。


 閑話休題はなしをもどして


 乱の平定後、二十年以上かかってようやく唐は滅びます。それでも「黄巣の乱」は唐滅亡の原因の一つとされがちなのですが、「農民の反乱」扱いされたままなので、「農民が政府に怒りの蹄鉄を食らわせた」といった、民主主義臭キツめの総括を見かけることがあります。現代中国でも「支配階級から農民の解放をめざす階級闘争」というような評価をされているらしいんですけれども。


 ただ、黄巣の乱を受けたところで中国大陸に民主主義が芽生えることなど一切ありませんでしたし、現実的には唐が「強大な中央集権国家」から「かろうじて長安一帯を治める地方政権の一つ」レベルに転落してしまったことで五代十国時代ごだいじっこくじだいという、群雄割拠の時代に逆戻りしてしまうわけです。


 どちらかと言えば、「そりゃあね、国そのものがそれだけ大規模な流賊団の略奪の餌食にされた日には、国を支える物も人も金も、何もかもが足りなくなるだろうね! 国も散り散りになるだろうよ!」というのが正直な感想です(独断と偏見)。


 そして「独裁者の権力の象徴」でありながら、途中から忘れ去られてしまう塩の扱いについては、返す返すも残念としか言いようがありません。宋代以後の近世中国社会における反乱の多くは、塩の密売組織がその温床となっていることがほとんどですし、元代に発行された通貨交鈔こうしょうの価値を保証したのは塩でしたし、塩の引換券として販売された「塩引えんいん」は有価証券として取引されてさえいましたのに。



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 歴代中国王朝の塩政史が本気で気になるという方は、『支那塩政史』(仰豊ぎょうほう/大東出版社/1941年)・『中国塩政史の研究』(佐伯さえきとみ/法律文化社/1987年)辺りをむさぼり読んでいただければ、それだけで充分網羅できるのではないかと。

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