新異世界の塩事情◆中編◇中編

 あまりの長さに「支配する側の場合」と「供給する側の場合」だけで終わってしまった前回。

 今回は「支配される|(もしくはされそうになる)側の場合」と「供給される側の場合」についておさらいしていきたいと思います。



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 「殖民地(経済的殖民地含む)から見た塩」の問題を端的に言い表そうとするならば、恐らく「いかに宗主国(経済的宗主国含む)からの妨害を穏便にやり過ごし、塩の安定供給を維持するか」に尽きるかと思います。殖民地主義時代の塩は、宗主国(経済的宗主国含む)が世界に殖民地(経済的殖民地含む)を広げるための重要な戦略物質であり、塩の生産能力が国力に直結していたからです。

 殖民地(経済的殖民地含む)が自由や独立を勝ち取るには、どんな方法を使ってでも自国の消費量を賄えるだけの塩を手にする必要がありました。


 では、「持たざる者」側に追いやられていたそれぞれの国はどのようにして塩の供給問題を克服したのか、その辺りを特に極端で有名なものを中心に、今回はおさらいしていきたいと思います。



◆塩と北欧

 ニシン漁やタラ漁で知られる恵みの海と言えば北海とバルト海なのですが、一般的にも塩目線(=塩分濃度)で見ても「大西洋の一部」に過ぎない北海に対し、一般的には「ヨーロッパ大陸とスカンディナビア半島に囲まれた海域●●」、塩目線で見れば「ただでさえ気温の低さから海水の蒸発が少ないというのに、さらに数多くの水量豊かな河川から流れ込んでしまう大量の真水のせいで採鹹が絶望的なレベルにまで海水の塩分濃度が低下してしまった汽水域●●●」を、バルト海と言います。


 つまり、バルト海としか接していない国々――要はスウェーデンとフィンランド――は、海に面していながら海水からの製塩の絶望的な地域であり、自国内に岩塩鉱だの塩湖だのでも発見されない限りは自国だけでの塩の供給が困難な地域であって、塩目線で見れば「潜在的に殖民地化されやすい地域である」ということになってしまう訳です。



◆塩とスウェーデン

 バルト海に面する製塩困難地域の一角であり岩塩鉱も持たないスウェーデンを例に、「輸入品目としての塩」についておさらいしておきたいと思います。ちなみに、あくまでも塩目線で話を進めるというこのエッセイの性質上、スウェーデンがデンマークに事実上支配されていた時期があるとか、フィンランドに独立されたとか、塩には関係ないと思われる部分での国土のわちゃわちゃについては目を逸らしたまま話を進めさせていただきますのでご理解ください。


 まずは恒例になりつつある塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、塩に恵まれなかったスウェーデンはニシンにだけは恵まれていましたので、自らは肝心要のニシンにその加工場所に労働力までを提供、塩は相手――ハンザはもとよりオランダをはじめとした塩漬けニシン貿易を希望する国々――に持ち込ませるという分担で塩漬けニシンを作っていました。これは、ニシンが「鮮度落ちが早く傷みやすい魚」であったから――採れたてをすぐに加工する必要があったから――こそ採れた選択肢であったと言えるでしょう。

 「魔女の宅急便」の主人公キキが引っ越した海の見える街「コリコ」のモデルのひとつとしても知られるヴィスビュー【Visby】(ヴィスビーとも)もまた、そうして栄えた貿易港の一つでした。


 ちなみに、バルト海からわずかな海塩を精製しようとするだけで大量の森林破壊を行なわざるを得なかった上に、自力で輸入しようにも自前の船の輸送力が弱々しかったスウェーデンが、それでもかろうじて輸入していた塩の変遷につきましては以下の通り。


 十五世紀半ばまで=ハンザ商人の持ち込みによって独占的に供給されていた高価格高品質の「リューネブルク塩」。

 十五世紀半ば以降=オランダの大規模輸送によって齎される、安かろう悪かろうでお馴染みだったフランス産「ベイ塩」と、比較的安い割に高品質のポルトガル産「セトゥーバル塩」。


 ハンザの押し売りにより白い宝石「リューネブルク塩」に慣らされてきたスウェーデン人がどちらを選んだかは、勿論お察しの通り。しかも、価格があまりにも高騰した場合には生産地の変更も視野に入れることで、経済的殖民地化を避けていたようです。


 海側からスウェーデンに塩を持ち込むには、ドイツ発の「リューネブルク塩」以外はいずれにせよ北海からバルト海へと抜ける必要があるのですが、バルト海と北海とを結ぶオアスン海峡は海上封鎖のたやすい場所で、戦争等から海上封鎖に発展する度に塩の輸入はストップしてしまうことになり、スウェーデンは塩不足に陥ったと言います。


 現代でも上記の問題を解決できてはいないものの、輸入相手をイギリス・ドイツ・デンマーク・ポーランドと分散することで、いまだに経済的殖民地化を避け続けていると言えるでしょう。



◆塩とオランダ

 複数の殖民地を持ち、「列強の一角」であった印象さえありながら、塩環境に限って言えば、決して良いとは言えなかったオランダを例に、スウェーデンとは異なり、「中継貿易がメインで独自の資源が乏しい場合の輸入品目としての塩」についておさらいしておきたいと思います。ちなみに、あくまでも塩目線で話を進めるというこのエッセイの性質上、オランダがスペインから独立したとか、フランス・ルイ十四世にたびたび侵略されたとか、塩には関係ないと思われる部分での国土のわちゃわちゃについては目を逸らしたまま話を進めさせていただきますのでご理解ください。


 まずは塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、オランダは塩にもタラにもニシンにも恵まれていなかったものの、イングランド沿岸部で大英帝国イギリスより先にニシンの漁場を発見したことで風向きが変わってきます。大英帝国イギリスとの熾烈な覇権争いはありつつも、他にも北海でのタラ漁、北極でのクジラ漁などで財を成しました。塩漬けの魚はやはり、「肉抜きの日」をちゃんと遂行しようとするヨーロッパ中の全カトリック教徒にとって生命の維持に欠かせないものだったからです。――肝心のオランダ人は、生のニシンがお好みだったようですが。


 そんな「オランダと塩」との関係を一言で表すならば、

「オランダ貿易品としての塩漬け魚=オランダ産再精製塩(フランス産ベイ塩またはドイツ産岩塩)×オランダ漁業×オランダ海運業」。

 これに尽きるかと思います。


 そもそもオランダは1886年に国内初の岩塩鉱がヘンゲロ近郊で――飲み水用の地下水の探査中に偶然――発見されるまでは、国内での製塩と言えば、干潟から掘り出した海水を吸った泥炭を乾燥させて燃やして作るか、フランスやドイツからの輸入塩を再精製して作るしかなかったと言います。そのため塩漬けニシン貿易でハンザに対抗した時の塩も勿論、ベイ塩(フランス産)を自国で再精製したものでした。


 バルト海のニシンの独占がハンザの台頭を下支えしたように、オランダが強大な海洋国家、中継貿易国家として台頭した背後には、イングランド沿岸部でのニシン漁をはじめ、北海でのタラ漁、北極でのクジラ漁などがありました。現代のような領海や排他的経済水域といった考え方のない時代のことです。そこからヨーロッパの漁獲量の半分近くを稼ぎ出すことができたことで、塩目線で言えば「輸入頼みで経済的殖民地化されやすい地域である」という問題は先送りされたまま、オランダは十六世紀末にはヨーロッパの最富裕国かつ最強国のひとつとなった訳です。


 大英帝国イギリスの目と鼻の先のニシンをかすめ取って財を成したオランダの台頭を脅威に思う大英帝国イギリスによって漁場から締め出されたことで、オランダはその後衰退していくのですが、やがて塩目線でも、オランダは窮地に立たされてしまいます。

 第一次世界大戦のことです。大戦中には中立の立場を取っていたオランダですが、主たる塩の輸入先であったドイツは同盟国側。ドイツから塩の供給を止められたことで塩の輸入量が激減。オランダは深刻な塩不足に陥ったと言います。

 1886年に偶然発見していた自前の岩塩鉱を採掘してヘンゲロの平釜で炊くことで、泥炭塩以外の国産の塩の生産をオランダが始めたのは、第一次世界大戦後の1918年のことでした。


 長いこと塩資源が乏しいとされてきたオランダですが、溶解採鉱法(岩塩層まで井戸を掘り、水を圧入して岩塩を溶かすことで作るほぼ飽和濃度の塩水を、鹹水として汲み上げる採鹹法)の確立と、深層地質探査技術の進歩により、従来の方法では採掘が難しかった深層の岩塩資源までをも開発の対象とすることができるようになりました。こうしてヘンゲロとデルフセイルの二か所に大製塩場が建設されたオランダは、今や製塩大国となっているのだとか。



◆塩とアメリカ(合衆国)

 大英帝国イギリスの殖民地からスタートした国家としてのアメリカ(合衆国。以降、「アメリカ」とのみ称する)もまた「塩の供給能力」の不足が理由で塩の確保という難題に苦しめられた国のひとつでした。

 「塩がいかに重要な戦略物資であったか」「塩の供給を他国(この場合は宗主国である大英帝国イギリス)に依存する(もしくは依存させられる)ことがいかに恐ろしいことか」といったことをアメリカ人の魂にまで刻んだであろう二大事件を軸に、「殖民地支配の象徴としての塩〈初級編〉」についておさらいしておきたいと思います。


 まずは恒例の塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係なのですが、アメリカにとっての塩ダラは、大西洋を渡って北アメリカ北部にやってきた大英帝国イギリスが勝手に奪取して作るものでした。現代のような領海や排他的経済水域といった考え方のない時代のことです。


 そんな「アメリカと塩」との関係を端的に言い表そうと努力するならば、

「塩を支配できる者=権力を握る者」。

「塩の採取場=文化の築かれる場所」。

「アメリカで使用する塩=アメリカ産塩+リヴァプール塩(大英帝国イギリス産)」。

 といったところに落ち着くのではないかと思います。


 そもそもアメリカでは、塩なめ場を求めた獣たちが踏み固めた獣道をもとに道が作られ、人々が住む村も塩なめ場を中心に作られていったと言います。アメリカ先住民のうち、農業をしない狩猟民族の中には塩を作らない民族もいましたが、塩を必要とする場合は基本的には民族ごとに必要な時に必要な量だけを細々と作りながら生活をしていたようでした。

 十一世紀前後からは古代スカンジナビア人(いわゆるノルマン人。ヴァイキングとも)がちらほらと北アメリカ(カナダ東部・ニューファンドランド島北部のランス・オー・メドーズなど)に入植を開始していますが、定住までには至らず、製塩業も特段必要とはされていません。

 ただ、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーの手によるいわゆる「ヴァルトゼーミュラー地図」(正式名称『プトレマイオスの慣例にならいアメリゴ・ヴェスプッチ等の探検を組み入れた世界地図』1507年刊行)にて「アメリカ大陸」なるヨーロッパ人にとってはまだ侵略できていなかった「新大陸」が存在していたことが大々的に喧伝された辺りから、殖民地化目的でアメリカを訪れようとする者が後を絶たなくなっていくのです。


 遂に、アメリカにも大規模な製塩業が必要とされるようになる瞬間が訪れます。


 1607年のジェームズタウン(現ヴァージニア州)への入植成功を皮切りに、日常的に塩を大量に必要とする数百万人もの者たちが、次々と殖民地化目的でアメリカへと乗り込んでいったのです。それらのうち最も有名のものは、大英帝国イギリス国内での宗教闘争に敗れて弾圧から逃れようとしたキリスト教徒――清教徒ピューリタンと呼ばれた、イギリス国教会・カトリック勢力に対抗したイングランドのカルヴァン派――達による北アメリカ沿岸部への入植(1620年)であるということになるかと思われます。その後も清教徒ピューリタンの入植は後を絶ちませんでしたし、入植者たちを養うために、国内の塩の生産量もまた増えていきました。


 ところが。

 1670年に大英帝国イギリスの「チェシア州/チェシャー州」【Cheshire county】で莫大な量が埋蔵されている岩塩鉱脈を発見した辺りから、アメリカの製塩業は苦難の時代に突入します。大英帝国イギリスは、それを売りさばくことで本国経済が富むためならば、既に殖民地化していたアメリカの製塩業を破壊することに躊躇ちゅうちょはありませんでした。そのため大英帝国イギリスはリヴァプール塩をアメリカ産の塩以下になるよう不当廉売ダンピングすることで、アメリカ産の塩より買いやすくするという政策を採ります。そしてリヴァプール塩(大英帝国イギリス産)で製品を作っている限りは、アメリカがどれだけ生産しようとも貿易しようとも干渉はしませんでした。実際、その当時のアメリカは塩の自給を目指して国内で塩を生産してはいたものの、国内経済から輸入塩(=リヴァプール塩)を締め出すような体力はまだありませんでした。


 このように、殖民地アメリカの塩事情そのものは大英帝国イギリスの目論見通りに進んでいたのですが、アメリカが本国を介さない貿易を想定以上に盛んに行なうようになるにつれて、商業の発展が国家としてのアメリカの独立に結びつくことを恐れた大英帝国イギリスは、アメリカの貿易を妨害するようになってしまいます。

 塩の生産量は国としての経済活動を完全にカヴァーできるほどの量には至らないままながら、次第にアメリカ移民達の間に自主独立の機運があがるようになり、それが独立戦争へと繋がっていくのでした。



◇塩とアメリカ独立戦争

 1775年4月19日の、大英帝国イギリス本国軍とアメリカ植民地軍との最初の武力衝突は、反乱軍優位で幕を開けました。(主としてイギリスが言うところの)アメリカ独立戦争【American War of Independence】(1775年4月19日~1783年9月3日)の始まりです。――ちなみにアメリカ目線では「革命」ということになるようですが。


 ところが大英帝国イギリス側が反乱軍鎮圧の名目で海上封鎖を断行するや、輸入塩の入手が不可能になったアメリカ側はたちまち深刻な塩不足に陥ります。塩ダラをはじめとする食糧はもとより火薬にも医療にも塩は大量に必要だったからです。その上で大英帝国イギリス側は、アメリカの製塩所を攻撃してことごとく破壊していきます。塩の供給路を絶つことでアメリカを完全に支配してしまうのが目的です。


 これに対抗してアメリカ側は、汲んだ海水をそのまま煮詰めることで塩を作り出そうとしますが、大量の木材を投じたところで、得られる塩の量は微々たるものだったと言います。天日乾燥技術も取り入れましたが、それでも必要な量の塩を生産することはできないままでした。そこでアメリカ側は塩の自給率を高めるために、全ての塩輸入業者や製塩業者に補助金を出したり、製塩業者への兵役免除を行なったりしました。これによりアメリカ中の海岸で製塩が始まります。


 アメリカと同盟を結んだフランス、フランスと同盟を結んでいたスペインが参戦したことからパワーバランスがアメリカ側に傾き、1783年9月3日にようやくパリで講和条約が結ばれるに至ります。アメリカの独立が認められる形で戦争そのものは終わるのですが、戦後も能率的に製塩が可能になるまでは塩の欠乏状態は続いたのでした。

 つまりアメリカは、替えの利かない戦略物資という国家の命綱を握ったままの相手との血みどろの殺し合いの末に誕生した国なのです。



◇塩とアメリカ南北戦争

 アメリカ南北戦争開戦直前の1858年の時点での南北の塩の生産量の格差は、北部が4320万立法メートルであったのに対し、南部が8万3000立方メートルと、510倍にまで開いていました。万年塩不足の南部には、北部の生産量の四分の一程度の塩が大英帝国イギリス(産業革命終了済)や大英帝国イギリス領カリブから輸入されていたようですが、それでも塩の量は潤沢とは言えなかったようです。


 その状況が改善されることはないままに、アメリカ合衆国からの南部の脱退宣言とアメリカ連合国結成を経て、いざ南北戦争が始まってみると、南部経済の締め付けを目論んだ北軍による四年近い海上封鎖(大西洋岸からメキシコ湾岸まで)によって、南部(アメリカ連合国)は塩不足に陥ってしまい、多くの食料が高騰しました。南部の塩不足が戦略上有利に働くことを改めて理解した北軍は、南部の製塩所を奪取すると必ず破壊していきます。北軍側の海軍も、南軍側の沿岸にある製塩所をことごとく砲撃して、南軍に塩が供給されないように努めました。これに対して万年塩不足の南軍は、製塩所を制圧すると「戦利品」として喜び、製塩を開始して少しでも塩を得ようとしたのでした。


 こうした状況に押しやってもまだ、「自分達の土地を守る」という意識の高い南軍が、「合衆国を守る(=南部を連れ戻す)」という漠然とした目的しかなかった北軍を圧倒していました。それでも大統領に就任したリンカーンの決断した複数の戦略により、四年以上かけてようやく北軍が勝利を収めたのでした。


 これを、アメリカが体験したことのある、かの「革命」に置き換えて考えてみると、塩を持つ宗主国大英帝国イギリス=北部(アメリカ合衆国)、塩を持たない殖民地アメリカ=南部(アメリカ連合国)、アメリカ側で参戦したフランスやスペイン=南部(アメリカ連合国)を支援した大英帝国イギリスやフランス――ただし、戦争目的に奴隷開放を持ち出すことで国際世論を、ホームステッド法(アメリカ版墾田永年私財法)を制定して西部をそれぞれ味方につけた北部|(リンカーン)に対し、自分達の土地を守ることを目的としていた南部には塩不足に目を付けた投機家たちが価格操作のために塩相場に群がっている――という状況にあったと解することができるかと思います。


 アメリカ南北戦争における北軍の勝利には勿論、複数の原因が挙がるはずですが、塩に限って言うならば、「戦略物資である塩に対する考え方の違いが勝敗を分けた」ということになるのかも知れません。



◆塩とインド

 インドで「塩」と言えば岩塩サインダヴァ海水塩サームドラカ湖塩ローマカ沼沢塩パーンシュジャと種類も豊富であり、しかも国中の至る所で製塩可能という、まさに塩資源に恵まれた国でした。東のオリッサ【Orissa】(あの大英帝国イギリスに買い漁らせたクオリティ!)と西のグジャラート【Gujarat】(「塩の行進」の舞台)が特に名高く、経済的にも品質的にも、真っ向勝負では大英帝国イギリスは到底太刀打ちできなかったと言います。


 「塩の供給能力」には何の問題もなかったにもかかわらず、大英帝国イギリスによる殖民地化以降、国内の一部地域(=ベンガル地方)の製塩業は衰退の一途をたどることとなってしまった点については不可思議としか言いようがありません。その理由として、アメリカと宗主国が同じ大英帝国イギリスであることで、「アメリカに先駆けてリヴァプール塩(煎熬塩)を大量に持ち込み、不当廉売ダンピングでベンガル塩(煎熬塩)を駆逐した」かのようなイメージを一般的には持たれがちらしいのですが――少なくとも、インド側はベンガル塩(煎熬塩)の衰退とリヴァプール塩(煎熬塩)の流入とを結び付けた論調で抗議活動を行なったようなのですが――、果たしてそうなのでしょうか。


 塩の種類と統治機関の掛け合わせに着目しつつ、質的にも量的にも輸入塩を寄せ付けないほど豊富であったはずの国産塩(の一部であるベンガル塩だけ)が輸入塩(の中でも特にリヴァプール塩)に駆逐されてしまった印象のインドを例に、「殖民地支配の象徴としての塩〈上級編〉」についておさらいしておきたいと思います。――ちなみに、複雑怪奇に入り組んだインド(とイギリス)と塩との関係が本気で気になる方は、『塩とインド―市場・商人・イギリス東インド会社』(神田さやこ/名古屋大学出版会/2017年)辺りをご参照ください。


 まずは謎の恒例化を遂げつつあった塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係と行きたいところでしたが、インドの場合は塩そのものを大英帝国イギリスから押し付けられていた派でしたし、大英帝国イギリスはわざわざインドまで漁をしには来ませんでしたので、ヨーロッパ産の塩漬け魚はヨーロッパ内で生産され消費され切っていた――むしろ魚が足りないくらいだった――ということでご了承いただければ幸いです。


 そんな「インドと塩」との関係を一言で表すならば、

「インド塩=煎熬塩パンガ(ベンガル塩+オリッサ塩〔外国塩扱い〕)+天日塩カルカッチ(コロマンデル塩〔外国塩扱い〕)」。

 であると同時に、

イギリス東インド会社EIC=塩の専売+塩税=大英帝国イギリスによる殖民地統治の象徴=塩の行進」。

 これらに尽きるかと思います。


 そもそもイギリス東インド会社EIC【East India Company】と言えば、大英帝国イギリス絶対王政時代の1600年にアジア貿易を見込んだ商人たちによって設立された、純粋なる民間企業としてスタートを切るのですが、「国家が貿易の利益を間接的に独占するための手駒」として大英帝国イギリス本国政府に目を付けられ、独占特許状を与えられたことで、「特許会社」としてインド以西のアジア貿易を独占的に行なうことになります。

 インドから徴税権(を主として行政権と司法権まで含む権利)を獲得すれば貿易商社と殖民地統治代行業者の二刀流を強いられ、本国で自由貿易への要求が強まれば貿易特権は剥奪されて本業でもない殖民地統治代行業者一本での活動を強いられる始末。――しまいにはインド大反乱勃発の責任を取らされて解散させられてしまいます。

 このように段階を踏みながら、インドは大英帝国イギリス本国政府の直接支配下に置かれることになっていくのですが、統治者の変遷に引きずられて、塩事情も勿論、変貌を遂げていくことになります。


 念のため、上記の「インド塩」三種について、それぞれ軽くおさらいしておきたいと思います。


●ベンガル塩(煎熬塩)

 小型の土器製の壷で草や藁といった低カロリー燃料を利用して長時間煎熬することで生産された、より細かい結晶の塩。インド人に好まれていたため、イギリス東インド会社EICによる「高塩価政策」(=塩の高値を維持することで税収を確保しようとする政策)の餌食に。「燃料に依存しない安価な正規の政府塩」という位置づけのコロマンデル塩(天日塩)を防波堤とすることで、ベンガル塩は「燃料に依存する高価な正規の政府塩」として、1820年代中頃までは何の問題もなく税収の確保に大いに貢献させられてきた。

 ところが、燃料としていた藁の高騰に拠る製塩費用の高騰や、コロマンデル塩の品質向上に伴う価格の上昇など、想定外の問題が次々に起きたことで、「高塩価政策」は破綻し、イギリス東インド会社EICもベンガルにおける製塩業を積極的に支えてⅤ字回復させるような政策を明確には打ち出せなかったことでベンガル製塩業は衰退をせざるを得なくなった。しかもベンガル塩(煎熬塩)が落ち目と見るや、大英帝国イギリスからはリヴァプール塩(煎熬塩)でも競争が可能になるよう、実際に生産にかかる費用だけでなく、リヴァプール塩(煎熬塩)には課されることがない密売抑制などにかかる雑多な費用までに上乗せした価格に設定されるなど不当に高値に据え置かれる、インドでリヴァプール塩(煎熬塩)を販売する際にはリヴァプール塩(煎熬塩)単体ではなくベンガル塩(煎熬塩)をブレンドしてインド人に好まれるよう調整したものを横並びで販売する、などのベンガル塩(煎熬塩)潰しの方策がとられた。しかも、市場の煎熬塩需要が衰えた訳ではなかったことから、同じ煎熬塩であるリヴァプール塩(実際販売する際にはベンガル塩をブレンドしたもの)に補完を許さざるを得ない格好となった(ちなみにリヴァプール岩塩●●は買い手が付かず)。大英帝国イギリスからのリヴァプール塩(煎熬塩)の輸入本格的に伴う市場への流入は、ベンガル塩の衰退にトドメを刺したと言えるだろう。


●オリッサ塩(煎熬塩)〔外国塩扱い〕

 火薬の原料として大英帝国イギリスが本国に輸入しまくった塩。価格、品質両面で、リヴァプール塩はオリッサ塩には対抗できなかったため、大英帝国イギリスからは目の敵にされた。大英帝国イギリスはオリッサ塩をすべて買い上げることでインドの市場から排除しようと画策したが、オリッサ塩を管理していたマラーター族から拒否されてしまう。その対抗措置として、大英帝国イギリスはオリッサの塩を独占管理を一方的に宣言(1804年)し、私的な塩の販売の一切を禁止。大英帝国イギリス政府以外によるオリッサでの製塩は違法ということにされてしまう。


●コロマンデル塩(天日塩)〔外国塩扱い〕

 三種の中では唯一製法の違う塩。製法の都合上、煎熬塩よりも不純物が多くなるということもあって、「不浄な塩」と見做されていたことからベンガル東部では人気がなかったが、「燃料に依存しない安価な正規の政府塩」として、塩の供給が不足しがちな遠隔地市場やベンガル西部などの煎熬塩を敬遠するコミュニティでは人気があった。そのせいで「ベンガル塩と市場で競合しないうえに塩の不法生産や密売を抑制してくれて、ベンガル塩に対する高塩価政策の維持を可能にしてくれる便利な塩」という位置づけがなされていた。

 ところが、天日塩の品質の向上によって価格が上昇しベンガル塩とも市場で競合するようになると、市場には多くの不法生産塩が供給されるようになった。その結果、ベンガル塩の高値維持は困難となり、イギリス東インド会社EICによる「高塩価政策」の破綻の一因となったのであった。


 ――三種の塩に関する歴史を垣間見た時点で、既に答えは出ているようなものなのですが。


 リヴァプール塩(煎熬塩)のインドへの流入が本格化したのはイギリス産業革命(最長で1730年代~1830年代)も終了して量産体制の整いきった、1845年以降のことです。ベンガルにおける製塩業の衰退そのものは1820年代後半からじわじわと始まっていましたから、リヴァプール塩(煎熬塩)の流入自体が直接の原因ではなかったということになります。大英帝国イギリス本国からの輸入への圧力は勿論、あったでしょうが。イギリス東インド会社EICとすれば、「高塩価政策」が維持できる限りはベンガル塩(煎熬塩)を推しておいた方が楽だったでしょうから。


 何より注目すべきは、ブレンドという手法がとられたにせよ、消費者であるインド人に好まれていた「煎熬塩」同士、リヴァプール塩(煎熬塩)は衰退したベンガル塩(煎熬塩)の代替品、代替塩として市場に抵抗なく受容されていったという点ではないでしょうか。――勿論、本家本元とも言うべきベンガル塩(煎熬塩)が健在のままでさえあったならば、リヴァプール塩(煎熬塩)を輸入したところで果たしてベンガル塩(煎熬塩)に取って代わることができたのか、消費者にすんなり受容されたのか、という点までは分かりませんけれども。


 以上を踏まえると、植民地時代のインドの塩事情は、地元インド人の嗜好(という今までの国々では登場しなかった新しい視点)と、イギリス東インド会社EICの失策(というありがちではありながら、これも今までの国々では登場しなかった新しい視点)、大英帝国イギリス本国からの輸入圧力(というありがちの権化)とが絡み合って成り立っているということになるかと思います。



◇塩とガンディー

 自国内での塩税への抵抗運動のうち最も有名なものが「フランス革命」であると言えるとしたら、宗主国からの塩税への抵抗運動のうち最も有名なものは「塩の行進」【Saltソルト Satyagrahaサティヤーグラハ】であると言えるかと思います。


 「塩の行進」は、偉大なる魂マハトマ・ガンディー」が1930年に「大英帝国イギリス植民地政府による塩の専売への抗議」を目的としてグジャラート州内で行なった、第二次非暴力・不服従運動(1930~1934)の「中心的」抗議活動です。

 具体的には、当時のガンディーの居住地であったアフマダーバードから、南に約386キロメートルに位置するダンディ村まで二十五日かけて「行進」し、村の海岸でひび割れた塩クラスト――天日に晒されることで、砂にしみ込んだ海水から塩が析出して砂浜で堅い層状になったもの――を拾う、というデモンストレーションを行ないました。大英帝国イギリスの管理下にない天然の塩を拾う、という脱法行為をあえて行なうことで、塩に課税する大英帝国イギリスの不当性をアピールしようとしたのでした。


 ただ、インドの税収に占める塩税の割合のピークは1901年度(16パーセント)であって、第一次非暴力・不服従運動(1919~1922)が終了する1922年度の時点で既に5パーセントにまで落ち込んでいたと言います。それにもかかわらず「塩税への抵抗」を第二次非暴力・不服従運動(1930~1934)の中心に据えたガンディー。事前告知までした上で、自らの逮捕をも視野に入れたメディア戦略を立てたガンディー。結果は独りよがりには終わらず、大衆が追随したというのですから、それだけ「塩」という存在が宗教も身分をも超越して、「大英帝国イギリスによるインド統治の象徴」であったということなのでしょう。――あるいは神がかり的なガンディーの情報操作能力のなせる技、と言えるのかも知れません。



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 長すぎたので、諦めてさらに分割しました(それでも最多文字数)。

 アメリカ独立戦争にアメリカ南北戦争に塩の行進と来れば、そりゃあ長くなるはずだわ。

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