新異世界の塩事情◆中編◇中編
あまりの長さに「支配する側の場合」と「供給する側の場合」だけで終わってしまった前回。
今回は「支配される|(もしくはされそうになる)側の場合」と「供給される側の場合」についておさらいしていきたいと思います。
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「殖民地(経済的殖民地含む)から見た塩」の問題を端的に言い表そうとするならば、恐らく「いかに宗主国(経済的宗主国含む)からの妨害を穏便にやり過ごし、塩の安定供給を維持するか」に尽きるかと思います。殖民地主義時代の塩は、宗主国(経済的宗主国含む)が世界に殖民地(経済的殖民地含む)を広げるための重要な戦略物質であり、塩の生産能力が国力に直結していたからです。
殖民地(経済的殖民地含む)が自由や独立を勝ち取るには、どんな方法を使ってでも自国の消費量を賄えるだけの塩を手にする必要がありました。
では、「持たざる者」側に追いやられていたそれぞれの国はどのようにして塩の供給問題を克服したのか、その辺りを特に極端で有名なものを中心に、今回はおさらいしていきたいと思います。
◆塩と北欧
ニシン漁やタラ漁で知られる恵みの海と言えば北海とバルト海なのですが、一般的にも塩目線(=塩分濃度)で見ても「大西洋の一部」に過ぎない北海に対し、一般的には「ヨーロッパ大陸とスカンディナビア半島に囲まれた
つまり、バルト海としか接していない国々――要はスウェーデンとフィンランド――は、海に面していながら海水からの製塩の絶望的な地域であり、自国内に岩塩鉱だの塩湖だのでも発見されない限りは自国だけでの塩の供給が困難な地域であって、塩目線で見れば「潜在的に殖民地化されやすい地域である」ということになってしまう訳です。
◆塩とスウェーデン
バルト海に面する製塩困難地域の一角であり岩塩鉱も持たないスウェーデンを例に、「輸入品目としての塩」についておさらいしておきたいと思います。ちなみに、あくまでも塩目線で話を進めるというこのエッセイの性質上、スウェーデンがデンマークに事実上支配されていた時期があるとか、フィンランドに独立されたとか、塩には関係ないと思われる部分での国土のわちゃわちゃについては目を逸らしたまま話を進めさせていただきますのでご理解ください。
まずは恒例になりつつある塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、塩に恵まれなかったスウェーデンはニシンにだけは恵まれていましたので、自らは肝心要のニシンにその加工場所に労働力までを提供、塩は相手――ハンザはもとよりオランダをはじめとした塩漬けニシン貿易を希望する国々――に持ち込ませるという分担で塩漬けニシンを作っていました。これは、ニシンが「鮮度落ちが早く傷みやすい魚」であったから――採れたてをすぐに加工する必要があったから――こそ採れた選択肢であったと言えるでしょう。
「魔女の宅急便」の主人公キキが引っ越した海の見える街「コリコ」のモデルのひとつとしても知られるヴィスビュー【Visby】(ヴィスビーとも)もまた、そうして栄えた貿易港の一つでした。
ちなみに、バルト海からわずかな海塩を精製しようとするだけで大量の森林破壊を行なわざるを得なかった上に、自力で輸入しようにも自前の船の輸送力が弱々しかったスウェーデンが、それでもかろうじて輸入していた塩の変遷につきましては以下の通り。
十五世紀半ばまで=ハンザ商人の持ち込みによって独占的に供給されていた高価格高品質の「リューネブルク塩」。
十五世紀半ば以降=オランダの大規模輸送によって齎される、安かろう悪かろうでお馴染みだったフランス産「ベイ塩」と、比較的安い割に高品質のポルトガル産「セトゥーバル塩」。
ハンザの押し売りにより白い宝石「リューネブルク塩」に慣らされてきたスウェーデン人がどちらを選んだかは、勿論お察しの通り。しかも、価格があまりにも高騰した場合には生産地の変更も視野に入れることで、経済的殖民地化を避けていたようです。
海側からスウェーデンに塩を持ち込むには、ドイツ発の「リューネブルク塩」以外はいずれにせよ北海からバルト海へと抜ける必要があるのですが、バルト海と北海とを結ぶオアスン海峡は海上封鎖のたやすい場所で、戦争等から海上封鎖に発展する度に塩の輸入はストップしてしまうことになり、スウェーデンは塩不足に陥ったと言います。
現代でも上記の問題を解決できてはいないものの、輸入相手をイギリス・ドイツ・デンマーク・ポーランドと分散することで、いまだに経済的殖民地化を避け続けていると言えるでしょう。
◆塩とオランダ
複数の殖民地を持ち、「列強の一角」であった印象さえありながら、塩環境に限って言えば、決して良いとは言えなかったオランダを例に、スウェーデンとは異なり、「中継貿易がメインで独自の資源が乏しい場合の輸入品目としての塩」についておさらいしておきたいと思います。ちなみに、あくまでも塩目線で話を進めるというこのエッセイの性質上、オランダがスペインから独立したとか、フランス・ルイ十四世にたびたび侵略されたとか、塩には関係ないと思われる部分での国土のわちゃわちゃについては目を逸らしたまま話を進めさせていただきますのでご理解ください。
まずは塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、オランダは塩にもタラにもニシンにも恵まれていなかったものの、イングランド沿岸部で
そんな「オランダと塩」との関係を一言で表すならば、
「オランダ貿易品としての塩漬け魚=オランダ産再精製塩(フランス産ベイ塩またはドイツ産岩塩)×オランダ漁業×オランダ海運業」。
これに尽きるかと思います。
そもそもオランダは1886年に国内初の岩塩鉱がヘンゲロ近郊で――飲み水用の地下水の探査中に偶然――発見されるまでは、国内での製塩と言えば、干潟から掘り出した海水を吸った泥炭を乾燥させて燃やして作るか、フランスやドイツからの輸入塩を再精製して作るしかなかったと言います。そのため塩漬けニシン貿易でハンザに対抗した時の塩も勿論、ベイ塩(フランス産)を自国で再精製したものでした。
バルト海のニシンの独占がハンザの台頭を下支えしたように、オランダが強大な海洋国家、中継貿易国家として台頭した背後には、イングランド沿岸部でのニシン漁をはじめ、北海でのタラ漁、北極でのクジラ漁などがありました。現代のような領海や排他的経済水域といった考え方のない時代のことです。そこからヨーロッパの漁獲量の半分近くを稼ぎ出すことができたことで、塩目線で言えば「輸入頼みで経済的殖民地化されやすい地域である」という問題は先送りされたまま、オランダは十六世紀末にはヨーロッパの最富裕国かつ最強国のひとつとなった訳です。
第一次世界大戦のことです。大戦中には中立の立場を取っていたオランダですが、主たる塩の輸入先であったドイツは同盟国側。ドイツから塩の供給を止められたことで塩の輸入量が激減。オランダは深刻な塩不足に陥ったと言います。
1886年に偶然発見していた自前の岩塩鉱を採掘してヘンゲロの平釜で炊くことで、泥炭塩以外の国産の塩の生産をオランダが始めたのは、第一次世界大戦後の1918年のことでした。
長いこと塩資源が乏しいとされてきたオランダですが、溶解採鉱法(岩塩層まで井戸を掘り、水を圧入して岩塩を溶かすことで作るほぼ飽和濃度の塩水を、鹹水として汲み上げる採鹹法)の確立と、深層地質探査技術の進歩により、従来の方法では採掘が難しかった深層の岩塩資源までをも開発の対象とすることができるようになりました。こうしてヘンゲロとデルフセイルの二か所に大製塩場が建設されたオランダは、今や製塩大国となっているのだとか。
◆塩とアメリカ(合衆国)
「塩がいかに重要な戦略物資であったか」「塩の供給を他国(この場合は宗主国である
まずは恒例の塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係なのですが、アメリカにとっての塩ダラは、大西洋を渡って北アメリカ北部にやってきた
そんな「アメリカと塩」との関係を端的に言い表そうと努力するならば、
「塩を支配できる者=権力を握る者」。
「塩の採取場=文化の築かれる場所」。
「アメリカで使用する塩=アメリカ産塩+リヴァプール塩(
といったところに落ち着くのではないかと思います。
そもそもアメリカでは、塩なめ場を求めた獣たちが踏み固めた獣道をもとに道が作られ、人々が住む村も塩なめ場を中心に作られていったと言います。アメリカ先住民のうち、農業をしない狩猟民族の中には塩を作らない民族もいましたが、塩を必要とする場合は基本的には民族ごとに必要な時に必要な量だけを細々と作りながら生活をしていたようでした。
十一世紀前後からは古代スカンジナビア人(いわゆるノルマン人。ヴァイキングとも)がちらほらと北アメリカ(カナダ東部・ニューファンドランド島北部のランス・オー・メドーズなど)に入植を開始していますが、定住までには至らず、製塩業も特段必要とはされていません。
ただ、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーの手によるいわゆる「ヴァルトゼーミュラー地図」(正式名称『プトレマイオスの慣例にならいアメリゴ・ヴェスプッチ等の探検を組み入れた世界地図』1507年刊行)にて「アメリカ大陸」なるヨーロッパ人にとってはまだ侵略できていなかった「新大陸」が存在していたことが大々的に喧伝された辺りから、殖民地化目的でアメリカを訪れようとする者が後を絶たなくなっていくのです。
遂に、アメリカにも大規模な製塩業が必要とされるようになる瞬間が訪れます。
1607年のジェームズタウン(現ヴァージニア州)への入植成功を皮切りに、日常的に塩を大量に必要とする数百万人もの者たちが、次々と殖民地化目的でアメリカへと乗り込んでいったのです。それらのうち最も有名のものは、
ところが。
1670年に
このように、殖民地アメリカの塩事情そのものは
塩の生産量は国としての経済活動を完全にカヴァーできるほどの量には至らないままながら、次第にアメリカ移民達の間に自主独立の機運があがるようになり、それが独立戦争へと繋がっていくのでした。
◇塩とアメリカ独立戦争
1775年4月19日の、
ところが
これに対抗してアメリカ側は、汲んだ海水をそのまま煮詰めることで塩を作り出そうとしますが、大量の木材を投じたところで、得られる塩の量は微々たるものだったと言います。天日乾燥技術も取り入れましたが、それでも必要な量の塩を生産することはできないままでした。そこでアメリカ側は塩の自給率を高めるために、全ての塩輸入業者や製塩業者に補助金を出したり、製塩業者への兵役免除を行なったりしました。これによりアメリカ中の海岸で製塩が始まります。
アメリカと同盟を結んだフランス、フランスと同盟を結んでいたスペインが参戦したことからパワーバランスがアメリカ側に傾き、1783年9月3日にようやくパリで講和条約が結ばれるに至ります。アメリカの独立が認められる形で戦争そのものは終わるのですが、戦後も能率的に製塩が可能になるまでは塩の欠乏状態は続いたのでした。
つまりアメリカは、替えの利かない戦略物資という国家の命綱を握ったままの相手との血みどろの殺し合いの末に誕生した国なのです。
◇塩とアメリカ南北戦争
アメリカ南北戦争開戦直前の1858年の時点での南北の塩の生産量の格差は、北部が4320万立法メートルであったのに対し、南部が8万3000立方メートルと、510倍にまで開いていました。万年塩不足の南部には、北部の生産量の四分の一程度の塩が
その状況が改善されることはないままに、アメリカ合衆国からの南部の脱退宣言とアメリカ連合国結成を経て、いざ南北戦争が始まってみると、南部経済の締め付けを目論んだ北軍による四年近い海上封鎖(大西洋岸からメキシコ湾岸まで)によって、南部(アメリカ連合国)は塩不足に陥ってしまい、多くの食料が高騰しました。南部の塩不足が戦略上有利に働くことを改めて理解した北軍は、南部の製塩所を奪取すると必ず破壊していきます。北軍側の海軍も、南軍側の沿岸にある製塩所をことごとく砲撃して、南軍に塩が供給されないように努めました。これに対して万年塩不足の南軍は、製塩所を制圧すると「戦利品」として喜び、製塩を開始して少しでも塩を得ようとしたのでした。
こうした状況に押しやってもまだ、「自分達の土地を守る」という意識の高い南軍が、「合衆国を守る(=南部を連れ戻す)」という漠然とした目的しかなかった北軍を圧倒していました。それでも大統領に就任したリンカーンの決断した複数の戦略により、四年以上かけてようやく北軍が勝利を収めたのでした。
これを、アメリカが体験したことのある、かの「革命」に置き換えて考えてみると、塩を持つ宗主国
アメリカ南北戦争における北軍の勝利には勿論、複数の原因が挙がるはずですが、塩に限って言うならば、「戦略物資である塩に対する考え方の違いが勝敗を分けた」ということになるのかも知れません。
◆塩とインド
インドで「塩」と言えば
「塩の供給能力」には何の問題もなかったにもかかわらず、
塩の種類と統治機関の掛け合わせに着目しつつ、質的にも量的にも輸入塩を寄せ付けないほど豊富であったはずの国産塩(の一部であるベンガル塩だけ)が輸入塩(の中でも特にリヴァプール塩)に駆逐されてしまった印象のインドを例に、「殖民地支配の象徴としての塩〈上級編〉」についておさらいしておきたいと思います。――ちなみに、複雑怪奇に入り組んだインド(とイギリス)と塩との関係が本気で気になる方は、『塩とインド―市場・商人・イギリス東インド会社』(神田さやこ/名古屋大学出版会/2017年)辺りをご参照ください。
まずは謎の恒例化を遂げつつあった塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係と行きたいところでしたが、インドの場合は塩そのものを
そんな「インドと塩」との関係を一言で表すならば、
「インド塩=
であると同時に、
「
これらに尽きるかと思います。
そもそも
インドから徴税権(を主として行政権と司法権まで含む権利)を獲得すれば貿易商社と殖民地統治代行業者の二刀流を強いられ、本国で自由貿易への要求が強まれば貿易特権は剥奪されて本業でもない殖民地統治代行業者一本での活動を強いられる始末。――しまいにはインド大反乱勃発の責任を取らされて解散させられてしまいます。
このように段階を踏みながら、インドは
念のため、上記の「インド塩」三種について、それぞれ軽くおさらいしておきたいと思います。
●ベンガル塩(煎熬塩)
小型の土器製の壷で草や藁といった低カロリー燃料を利用して長時間煎熬することで生産された、より細かい結晶の塩。インド人に好まれていたため、
ところが、燃料としていた藁の高騰に拠る製塩費用の高騰や、コロマンデル塩の品質向上に伴う価格の上昇など、想定外の問題が次々に起きたことで、「高塩価政策」は破綻し、
●オリッサ塩(煎熬塩)〔外国塩扱い〕
火薬の原料として
●コロマンデル塩(天日塩)〔外国塩扱い〕
三種の中では唯一製法の違う塩。製法の都合上、煎熬塩よりも不純物が多くなるということもあって、「不浄な塩」と見做されていたことからベンガル東部では人気がなかったが、「燃料に依存しない安価な正規の政府塩」として、塩の供給が不足しがちな遠隔地市場やベンガル西部などの煎熬塩を敬遠するコミュニティでは人気があった。そのせいで「ベンガル塩と市場で競合しないうえに塩の不法生産や密売を抑制してくれて、ベンガル塩に対する高塩価政策の維持を可能にしてくれる便利な塩」という位置づけがなされていた。
ところが、天日塩の品質の向上によって価格が上昇しベンガル塩とも市場で競合するようになると、市場には多くの不法生産塩が供給されるようになった。その結果、ベンガル塩の高値維持は困難となり、
――三種の塩に関する歴史を垣間見た時点で、既に答えは出ているようなものなのですが。
リヴァプール塩(煎熬塩)のインドへの流入が本格化したのはイギリス産業革命(最長で1730年代~1830年代)も終了して量産体制の整いきった、1845年以降のことです。ベンガルにおける製塩業の衰退そのものは1820年代後半からじわじわと始まっていましたから、リヴァプール塩(煎熬塩)の流入自体が直接の原因ではなかったということになります。
何より注目すべきは、ブレンドという手法がとられたにせよ、消費者であるインド人に好まれていた「煎熬塩」同士、リヴァプール塩(煎熬塩)は衰退したベンガル塩(煎熬塩)の代替品、代替塩として市場に抵抗なく受容されていったという点ではないでしょうか。――勿論、本家本元とも言うべきベンガル塩(煎熬塩)が健在のままでさえあったならば、リヴァプール塩(煎熬塩)を輸入したところで果たしてベンガル塩(煎熬塩)に取って代わることができたのか、消費者にすんなり受容されたのか、という点までは分かりませんけれども。
以上を踏まえると、植民地時代のインドの塩事情は、地元インド人の嗜好(という今までの国々では登場しなかった新しい視点)と、
◇塩とガンディー
自国内での塩税への抵抗運動のうち最も有名なものが「フランス革命」であると言えるとしたら、宗主国からの塩税への抵抗運動のうち最も有名なものは「塩の行進」【
「塩の行進」は、
具体的には、当時のガンディーの居住地であったアフマダーバードから、南に約386キロメートルに位置するダンディ村まで二十五日かけて「行進」し、村の海岸でひび割れた塩クラスト――天日に晒されることで、砂にしみ込んだ海水から塩が析出して砂浜で堅い層状になったもの――を拾う、というデモンストレーションを行ないました。
ただ、インドの税収に占める塩税の割合のピークは1901年度(16パーセント)であって、第一次非暴力・不服従運動(1919~1922)が終了する1922年度の時点で既に5パーセントにまで落ち込んでいたと言います。それにもかかわらず「塩税への抵抗」を第二次非暴力・不服従運動(1930~1934)の中心に据えたガンディー。事前告知までした上で、自らの逮捕をも視野に入れたメディア戦略を立てたガンディー。結果は独りよがりには終わらず、大衆が追随したというのですから、それだけ「塩」という存在が宗教も身分をも超越して、「
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長すぎたので、諦めてさらに分割しました(それでも最多文字数)。
アメリカ独立戦争にアメリカ南北戦争に塩の行進と来れば、そりゃあ長くなるはずだわ。
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