新異世界の塩事情◆中編◇前編

 All are equal before Salt.

 人は塩の前に平等である。


 列強と呼ばれた国であれ、殖民地化された国(経済的殖民地化された国含む)であれ、「生命の維持に塩が欠かせない」という意味では、平等であると言えるかと思います。

 ただ、塩はあまりにも人間の欲望に直結しすぎていて、その国の経済を支配してしまったり、その国の未来を左右してしまったり……なんてことも、ままあるわけです。文字通り血で血を洗う塩の奪い合いです。生憎と日本人は自国の歴史の中でそういう塩の獰猛な一面を目にする機会はほぼありませんが。――だからこそ塩の取り扱いが「海塩チートしてみたらおしまい」とか「塩を流通させるデメリット(既得権益との軋轢とか)が一切出てこない」とかいう展開になりやすいのかも知れませんね。


 しかしそもそも、古代ギリシア・ローマの時代から既に、塩は重要な品目でした。単純に調理全般や食料の備蓄に使われるだけでなく、消毒用としても、薬そのものとしても、美容にも、はたまた火薬の原料としても、布を染めるにも、皮を鞣すにも、塩が必要だったと言います。「古代では『何をするにもとりあえず塩があれば何とかなった』とか思い込んでいても差し支えないんじゃないか」と思うほどです。

 フェニキア(≒現レバノン)は塩を輸出して繁栄し、ヴェニスにとってもまた塩は主要な交易品目であり、ガリア人(現在の北東ヨーロッパの原住民)は塩泉を奪い合って戦いを繰り広げたと言います。

 そしてその当時から既に塩税はありましたから、世界最古の物品税(間接税)は塩税、ということになるのではないでしょうか。


 塩へのアプローチは国ごとというよりその国の立ち位置――大雑把に言えば支配する側かされる側か、あるいは供給する側かされる側か――によって変わってきますから、支配する側の場合と支配される(もしくはされそうになる)側の場合とに分けて、あるいは供給する側の場合と供給される側の場合とに分けて、その中でも特に極端で有名なものを中心に、今回はおさらいしていきたいと思います。



◆塩とヨーロッパ

 ヨーロッパ全体を見渡した時に、最も深く塩と結びついているのが「キリスト教」と「タラ(あるいはニシン)」であることは、疑いようのないことかと思います。

 その原因は「中世カトリック教会による『肉食禁止日』の制定」(その日数たるや、年間百五十日以上!)にありました。その「肉」の範囲に、「水棲動物」であるクジラやイルカやビーバーにラッコ、「魚類(カピバラ含む!)」は含まれなかったせいです。そのため「クジラの塩漬け脂身」や高級食材の「イルカ肉(塩漬けにはしなかった模様)」は「肉抜きの日」をちゃんと遂行しようとする、ヨーロッパ中の全カトリック教徒の生命の維持に貢献することになります。その後、クジラよりも白身の「タラ(あるいはニシン)」の方が塩漬けに適していて利益になると分かった時点で、塩漬け界のターゲットはクジラから「タラ(あるいはニシン)」の方にシフトしていくことになるのですが(もしタラやニシンが白身魚でなかったら、ヨーロッパでは今もまだクジラが食べられていたかも知れません。ちなみに十七世紀末頃にイルカ食が廃れた理由は不明)。


 とにもかくにも、塩ダラ貿易(あるいは塩漬けニシン貿易)はヨーロッパを席巻する一大ムーブメントとなった訳です。

 ここで必要となるものは何か?

 ――勿論、「タラ(あるいはニシン)」と「塩」です。

 これらを準備できた者(あるいは国、あるいは都市)だけが、莫大な富を手にすることができました。そのために各国の漁業と製塩業はかなりの発達を見せます。ポルトガル然り、オランダ然り、ハンザ然りです。そして塩漬けニシンに生活を支えられた人々が、その富と、画期的な保存食である塩ダラ(あるいは干し塩ダラ)を手に、大航海時代へと乗り出していく訳です。

 だからもし当時、「肉抜きの日」がなかったとしたら、そして「潤沢な塩」がなかったとしたら、塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)が爆発的に広まることも、塩ダラ貿易(あるいは塩漬けニシン貿易)で荒稼ぎする国や都市が生まれることも、ましてや大航海時代を迎えることもなかったかもしれません。


 さながらバブルが弾けるがごとく、塩ダラ貿易(あるいは塩漬けニシン貿易)によるボロ儲けは、やがて終わりを迎えます。最も大きな理由の一つが、宗教改革由来の「肉食禁止の緩和」です。半ば強制的に塩漬け魚を食べさせられていた(食べざるを得ない状況に追い込まれていた)人々にとって、「肉食禁止はナンセンス」という主張は衝撃を持って受け入れられたに違いありません。ただ、「カトリックは魚を食い、プロテスタントは肉を食う」とも言えるような状況に陥ったことによって、プロテスタントの国々の中には漁業が一気に衰退し、海軍力まで衰退してしまった国さえ現れたと言います。「軍艦」が確立していなかった当時の漁業は「海兵の養成所」であり、漁民は「即戦力となりうる予備兵的存在」だったからです。


 そんな状況でも塩は、食品保存上重要であることに変わりはありませんでした。「魚がなければ肉を漬ければ良いじゃない」と言ったかどうかは分かりませんが、塩漬け肉を作るためにも、たくさんの塩が使われました。



◆塩とドイツ

 ヴェント都市同盟(リューベック【Lübeck】・ヴィスマール【Wismar】・ロストック【Rostock】の三都市同盟。1259年)をきっかけとして、北海・バルト海貿易を通じて北方ヨーロッパの経済圏を支配した「ハンザ」を擁したと見做されているドイツを例に、「経済を支配する道具としての塩」並びに「戦争の原因としての塩」についておさらいしておきたいと思います。ちなみにこの文章中での「ハンザ」は、あくまでも塩目線で話を進めるというこのエッセイの性質上、「ハンザ内で唯一の塩の生産地であったリューネブルク【Lüneburg】(現ドイツ連邦共和国)とその売買を牛耳っていたハンザ都市リューベック(現ドイツ連邦共和国)とに話が絞られざるを得ない」ということで、「ドイツのもの」という体で話を進めさせていただきます。さながら幕藩体制下の武士のごとく、中世ヨーロッパ人の帰属意識は「都市」に対してしか存在しなかったということは承知の上です。「ハンザ」という存在をどう理解すべきかということについては、別の機会に譲るということでご理解ください。


 まずは塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、ドイツは岩塩に恵まれていましたので、スウェーデンのニシンとノルウェーのタラを塩漬けに加工することで、1400年頃には北方ヨーロッパにおける貿易全般と塩の製造とを独占していた商人組織があったようです。これこそが「ハンザ」です。


 そんな「ドイツと塩」との関係を一言で表すならば、

「ハンザ貿易品としての塩漬け魚=リューネブルク製塩業×スカンディナヴィア漁業×リューベック海運業」。

 これに尽きるかと思います。


 (ドイツ語の「Stadtシュタット/都市」が女性名詞だという理由で)「バルト海の『女王』」「ハンザの『女王』」と呼ばれたハンザの盟主リューベックは、交易品としての塩に目を付けていたハインリヒ獅子公(ザクセン公ハインリヒ三世兼バイエルン公ハインリヒ十二世)によってリューネブルクの塩を売り捌くべく、リューベックの創建者ホルシュタイン伯アドルフ二世に圧力をかけて強引に譲り受け、1159年に再建された都市でした。当時の日本は保元四(平治元)年、源義経が生まれた年です。


 北方|(スウェーデンまたはノルウェー)で作らせた塩漬け魚他を南方で売り捌き、リューネブルクの塩や南方で仕入れた穀類他を北方|(スウェーデンまたはノルウェー)に売り付ける、といった生活必需品を大量に商う遠隔地貿易によって多くの利益を得てきたハンザですが、十四世紀のバルト海地域における「塩」は、ハンザ都市リューベックの海運によってのみ齎された「リューネブルク塩(年間生産量二、三トン)」が市場を独占していました。


 一般に、原材料や半製品を輸入して加工したものを輸出する貿易方法を加工貿易と言うかと思いますが、リューベックの場合はリューネブルク塩を自ら船団で北方|(スウェーデンまたはノルウェー)に持ち込み、北方|(スウェーデンまたはノルウェー)で製品化させたものを買い付けて輸出する、という貿易方法を採っていました。例えばタラならばノルウェーのベルゲンへ、ニシンならばスウェーデンのスコーネへ、それぞれ塩を運び込んだ訳です。そのため十四世紀後半のリューベックからの輸出商品への課税額第一位は塩であり、塩と塩漬け魚類(ノルウェー産塩ダラまたはスウェーデン産塩漬けニシン)だけで全税収の約四分の一を占めていたと言います。


 ただ最終的に、自前の「リューネブルク塩」(=混じりっけなしの煎熬塩)だけではすべてを賄いきれなかったことをきっかけとして、盟主リューベックが率先して比較的安い「ベイ塩」(=不純物混じりの天日塩)をフランスに求めるようになる辺りが(しかもやがてリューネブルク塩とベイ塩の割合が逆転してしまう辺りが)、もしかしたら岩塩の限界というものなのかもしれません。特にリューネブルク塩(=煎熬塩)の場合はベイ塩(=天日塩)にはない「煎熬のための燃料費」だけでなく、「地下深くまで掘り下げられた井戸からの塩水の汲み上げ代」だの「複雑化した製塩絡みの権利所有者への支払い」だのといった諸経費が高くついてしまったせいで、商品としての旨味が薄れていったようですから。



◇塩とミュンヘン

 ドイツ最大の州、バイエルンの州都ミュンヘン市の創設(1158年6月14日)と岩塩との関わり方は、もしかしたら日本人にはピンと来ない可能性もまあ、無きにしも非ずなのですが、当時の塩の存在感を言い表すに相応しい例と言えるかと思います。


 塩の交易路、いわゆる「塩の道」に沿って都市が発達するのは自明の理として、川に架けられた橋は関所(=税関橋)のような役割を果たし、通行料として現金や塩そのものが支払われていました。橋の維持にはお金がかかりましたから、橋の持ち主、橋の架け主にとっては当然の権利でした。バイエルン州の場合は、ドイツアルプスのふもとを流れる急流、それぞれ国際河川ドナウ川の支流であるイン川|(スイス・オーストリア・ドイツ)・イザール川|(オーストリア・ドイツ)・レヒ川|(オーストリア・ドイツ)などに架けられた橋達がその役目を担っていました。

 1158年、交易品としての塩に目を付けていたハインリヒ獅子公(ザクセン公ハインリヒ三世兼バイエルン公ハインリヒ十二世)は、自領ミュンヘン近郊のイザール川に「イザール税関橋」【現ルートヴィヒ橋(1935年~)】を架けさせ、さらには塩のための倉庫を建てさせます。それから、五キロメートル下流に架かっていた、オットー・フォン・フライジングが治めるフライジング大司教区の税関橋を破壊しまうのです。それによって塩貿易のルートを力づくで変えさせ、フライジング大司教区が受け取っていた塩の関税と橋の通行料とを奪い取ることが狙いでした。

 当然のことながら、オットー・フォン・フライジングは激怒するのですが、仲裁を求められた当時の神聖ローマ皇帝であった赤髭王バルバロッサフリードリヒ一世は「新たに建設された橋はそのままにする代わりに、バイエルン大公はミュンヘンの税関で得た収入の三分の一をフライジングへ支払う」という命令をハインリヒ獅子公に課すことで、その暴力行為を正式に認めてしまいます。

 これで味を占めたのか、はたまたこれが仕上げだったのかまでは不明ですが、ハインリヒ獅子公は自領に橋を架けては他領の橋を破壊、自領に倉庫を建てては他領の倉庫を破壊、ということを繰り返して、塩が必ずミュンヘンを通るように仕向けます。

 この新しい橋々の効果は単純な現金収入の増加にとどまらず、人々の入植を大いに促しました。塩を中心とした交易圏、商業圏に自らをねじ込んだミュンヘンは目覚ましい発展をしていきます。

 1332年には神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ四世によって「南ドイツにおける塩の専売権」さえ与えられ、ミュンヘンの経済的基盤はかなり強固なものになります。歴代のバイエルン公爵達がバート・ライヒェンハルの製塩設備の増強や製塩技術革新に取り組んだことで、1816年にバイエルン州の塩の専売が廃止されるまで、バート・ライヒェンハルの塩はバイエルン州の収入源であり続けました。



◆塩とフランス

 産業遺産(世界遺産)「サラン・レ・バンの大製塩所からアルク・エ・スナンの王立製塩所までの製塩所」【De la grande saline de Salins-les-Bains à la saline royale d’Arc-et-Senans, la production du sel ignigène】を擁し、悪名高き「塩税ガベル」で知られたフランスを例に、前回の「新異世界の塩事情◆前編」では「語ることのできない幻の制度」扱いだった第三の制度「塩税」についてもおさらいしておきたいと思います。


 まずは塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、フランスにはロレーヌ地方で採れる岩塩の他に、海塩も潤沢にありましたので、その利を生かして獲りたてのタラを船上でそのまま塩漬けとして完成させる、というタイプの塩ダラを作っていたようです。


 そんな「フランスと塩」との関係を一言で表すならば、

塩税ガベル=フランス王政の不公正の象徴=フランス革命」。

 これに尽きるかと思います。


 「gabelleガベル」とはそもそもはイタリア語の「la gabella・ガベラ/義務」を語源とした、いわゆる「消費税全般を意味する語」であったようです(実際、フランス語を語源とすると見做される英語の「gabelleガベル」は「税・租税」を意味しています)。しかしフランスではいつの間にか(大体十四世紀くらいから)「塩に対する消費税」に限定されていきます。

 領主(王領ならば国王)が領主権に基づいて各領地で徴収していた領税(要は地方税)であったはずのフランスの塩税ガベルは、やがて戦費調達の必要から、王権に基づいての徴収が開始(要は国税化)され、十四世紀には「一律1.66パーセントの税金を価格に上乗せする方式」が「確立」されたにもかかわらず、ルイ十四世の塩税王令(1680年)によって更なる「制度的確立」を見ます。


 ――既に確立している税制が更に確立するとはどういうことか。


 「現代」を生きる我々にならば大喜びで迎え入れられるであろう税率(2018年6月27日現在の8パーセントに比べれば、1.66パーセントなんて、ねえ)が、横紙破り(要はごり押し)の王令により、「八歳以上の国民への義務塩(週毎のノルマ、一人当たり年間計算で7キログラム)の押し付け(それも政府の言い値で! そのくせ加工用に回すのは違法で「塩の詐欺罪」扱いになるんだとか)」並びに「課税エリアによる税率格差(エリアによっては義務塩ナシなんてことも!)」などの改悪が行なわれた挙句、それが定着してしまったことを意味します。――ちなみに慈善団体はまだしも、支配階級やら官吏やらにまで塩税免除があったそうです。貧困階層からは命を人質に搾り取るくせにね!


 課税方式だけに話を絞っても、二種類があったようで、生産量の抑制を目的とした「小塩税プチ・ガベル」は生産した塩を倉庫に収める時点で徴税総請負人が徴税、流通の監視を目的とした「大塩税グランド・ガベル」は販売段階で塩税局が徴税というシステムだったと言います。――こう書くと二重取りされていたようにも読めてしまうかもしれませんが、フランスの南部や南東部は義務塩ナシで税率も低い「小塩税プチ・ガベル区」、北部・中部は義務塩アリの「大塩税グランド・ガベル区」と、地域で住み分けがなされていたようです。ただ、二重取りされてはたまりませんから、恐らくそれぞれのエリア内で塩は消費されていたものと思われますが。

 一見すると「小塩税プチ・ガベル区」に住んだ方が有利そうですが、「小塩税プチ・ガベル区」側には「大塩税グランド・ガベル区」並みの量を買わないと闇塩(=密売塩)の使用を疑われて厳しく追及されるというオマケつき。


 こんな、専売制を取っている訳でもないのに「塩の価格が政府の言い値(しかもバカ高い)」という惨状から必要悪的に発生したのが「闇塩(=密売塩)」です。塩の密売者は庶民の味方とも言うべき「低価格の塩」を扱ったそうで、大儲けをしていても「庶民の人気者」であったようです。当然のことながら、塩税ガベルを取り立てる徴税総請負人の方は嫌われ者で、しかもその多くが「武器を携帯した粗野な無法者」で「特権を乱用した」と言われています(「どんな役人だよ」という気がしないでもないですが、もしかしたら「嫌いな奴を悪く言う」のパターンかも知れません)。ただでさえ義務塩ノルマがあるのに、更に塩を買い込んで大丈夫なのかという気がしないでもないですが、徴税総請負人と比較して語られるということは、義務塩ノルマのない「小塩税プチ・ガベル区」の話なのでしょう。


 この、さながら「不公平」が服を着て歩いているような塩税ガベルですが、違反すると投獄され、焼印だのガレー船送りだのと重い懲罰があったそうです。十六~十七世紀にはしばしば塩税一揆が起きたと言いますが、当然でしょう。1780年には「塩税ガベルを支払わない違反者一万人近くが投獄され、四千人近くが何らかの形で差し押さえを受けていた」と言いますから、「塩税ガベルに対する不満」の高まりがそのまま「フランス王政に対する不満」を煽ったとしても、自業自得としか言いようがありません。


 1789年、遂にフランス革命が起こります。

 塩税ガベル廃止を唱えた塩税一揆の比ではない、「国民議会」の設立を唱えての蜂起ですから、塩税ガベル以外の理由――不公正な階級制度だとか貴族への反感だとか――も勿論、革命の根底にあったものとは思われます。それでも、「改革」として、国民議会が塩税ガベルを廃止(1790年)し、塩税ガベル違反者全員を釈放しているところから鑑みるに、「塩税ガベルへの不満がフランス革命の一因である」と唱える学者が存在することも、的外れではないように思います。


「塩が惹き起こした市民革命」なんて、日本人にとっては最も縁遠いイデオロギーなのかもしれませんが。


 そんなフランス革命の終焉(1799年)とともに、ようやく悪名高き塩税ガベルもその歴史に幕を閉じたのかと思えば、そうは問屋が卸しませんでした。かのナポレオン一世が、皇帝即位(在位1804~1814年、1815年)とほぼ同時期(1806年)に塩税ガベルを復活させてしまうからです。それだけ、大衆から金銭を巻き上げるには都合の良い、旨味の多い税制だったのでしょう。その割にはロシア遠征(1812年)の際には「消毒用の塩が足りなかったからという理由で、軽傷が元で兵士をバタバタと死なせてしまう」という失態をやらかしたようですが。

 結局、塩税ガベルの完全撤廃は1946年ですから、十四世紀から二十世紀にかけて、フランスの税収の多くを塩が担っていたということになる訳です。



◇塩とフランスとハンザ

 フランスの西海岸、ブルターニュ地域圏レジオン南部のブルヌフ湾から輸出された黒っぽい塩は「ベイ塩」【Baisalz/Baysalz】(「湾の塩」とも)と呼ばれました。明らかに不純物は多いものの、天日塩だけに産出量はかなり豊富であったようで、「魚の加工には向かないが肉の保存には問題ない塩」として白い黄金「リューネブルク塩」の三分の二程度(三分の一という説も)の値段で取引されたと言います。イギリスやオランダの商人達は元より、リューネブルクを擁するはずのリューベックの商人達までも、ベイ塩を買い漁っていたというから驚きです。リューネブルクという一都市だけではハンザの塩を賄いきれないところまで、ハンザの商いが来ていたと同時に、べらぼうに経費の掛かるリューネブルク塩は割に合わない存在になっていってしまっていたということなのでしょう。



◇塩とペスト?

 信憑性のほどについては分かりませんが、フランスには「ペストにも打ち勝つ塩」という逸話があるようです。

 十四世紀にヨーロッパの全人口の半分を死に追いやったとされるペスト。フランスにはその影響を受けなかったとされる小さな漁村があり、それがスペインとの国境近くにある、オクシタニー地域圏レジオン【La Région Occitanie】ピレネー=オリアンタル県【Le Département des Pyrénées-Orientales】の基礎自治体コミューンコリウール【La commune de Collioure】だというのです。村全体がアンチョビ漁と塩アンチョビ作りで成り立っており、コリウールではペストは流行らなかったことを理由に、塩が村全体の抵抗力を上げていたからだろう、塩が村人をペストから救ったのだろう、と考えられているようです。

 これが本当なら、製塩業に携わっていた人々は皆、死ななかったのか、あるいは極端に死亡率が低かったのか、という話になるのでしょうが、そういった統計や、実験結果のようなものは、生憎と見つけることができませんでした。

 ただ、物語としては、そういう最強の塩、みたいなものが出てくるとわくわくするかもしれませんね。異世界に渡って初めて知った塩の凄さ、みたいなものがあっても面白いかも知れません。



◆塩とイギリス

 最後は、かつて(十九世紀末から二十世紀初頭)は世界一の塩の生産量を誇ったこともある、殖民地大国大英帝国イギリスを例に、「殖民地を支配する道具としての塩」についておさらいしておきたいと思います。


 まずは恒例になりつつある塩ダラ(あるいは塩漬けニシン)との関係ですが、イギリスは塩にもタラにもニシンにも恵まれていませんでしたので、わざわざアイスランドまで出かけて行ってタラを獲り(ニシンとは本気で縁がなかったようです)、船上では最小限の塩漬けに抑えておいて、港に戻ったら干す、というタイプの塩ダラ(要は干し塩ダラ?)を作らざるを得なかったようです。持ちが良いのはこのイギリス方式だったようですから、不幸中の幸いといったところでしょうか。ゆくゆくは塩には困らなくなるイギリスですが、塩がより手軽に手に入るようになったからと言って、フランス式に切り替えるということはなかったようですね。

 ちなみにイギリスとタラ(あるいはニシン)との関係が本気で気になる方は、『魚で始まる世界史:ニシンとタラとヨーロッパ』(越智敏之/平凡社新書/2014年)辺りをご参照ください。


 そんな「イギリスと塩」との関係を一言で表すならば、

「塩による支配力=チェシア製塩業×ランカシア石炭産業×リヴァプール海運業」。

 これに尽きるかと思います。


 ただ、この点を正しくおさらいするためには、イギリスと塩との関係をより強固なものとした「産業革命」(命名ジェローム=アドルフ・ブランキ【Jérôme-Adolphe Blanqui】)の存在を外すことはできません。十八世紀末当時、殖民地では奴隷も活用していた大英帝国イギリスが、世界一高かった本国の人件費を削減するためにたどり着いた境地こそが「人件費より燃料費(泥炭・石炭)の方が割安」、要は「人間の労働を機械に置き換えてしまえ(=労働の機械化)」であり、いわゆる「産業革命」(最長で1730年代~1830年代)だからです。教科書の記述などでは本来の目的であったはずの「繊維に関する機械化」を踏み台にさっさと「産業革命の華」とでも言うべき重工業へとシフトしてしまいますが、製塩業もまた「大量生産が可能となった」という意味では産業革命から大きな恩恵を受けた分野であると言えるのです。


 そんなイギリス最大の製塩地と言えば、イングランド北西部に位置し、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルを生んだことでも知られる「チェシア州/チェシャー州」【Cheshire county】です。採掘岩塩と煎熬せんごう塩で知られています。――もしかしたら一般的には輸出港(この場合はリヴァプール港)の名を採った、「リヴァプール塩」の方が通りが良いのかも知れませんが。


 そもそもイギリスの製塩業界は長らく、鹹水かんすいを海水や塩泉に頼らざるを得ませんでした。当然のことながら採鹹さいかんに苦労したであろうことは想像に難くないかと思います。ただそんな状況を一変させる出来事が、1670年にチェシャー州はノースウィッチ【Northwich】(=「北の製塩所」の意)で起こります。イギリスでは初となる岩塩層の発見です。――それも、地下45メートルという浅さで! これは、石炭探査のためのボーリング技術の発達が岩塩層の発見に繋がったものです。当然のことながら、「溶解採鉱法(岩塩層を直接水で溶かして作った鹹水かんすいを吸い上げて採取する方法)」にもボーリング技術は生かされましたし、さらには掘り出した岩塩を今まで鹹水かんすいとして使っていた海水や塩泉に溶かすことでもまた、チェシャー州では容易に上質(発見前比)かつ潤沢な鹹水かんすいを得ることができるようになりました。原料の一部扱いとなる岩塩は、ウィーバー川【River Weaver】の畔にあるフロッドシャム【Frodsham】から海岸沿いの製塩所へと船で運ばれたと言います。ちなみに「ウィッチ/ウィック」【-wich】とは元々「製塩所」の意味であったそうで、イギリスでは岩塩が溶け出した地下塩水が取れる場所によくつけられた名前だとか。ミドルウィック【Middlewich】然り、ナントウィッチ【Nantwich】然り。そして「ウィッチ/ウィック」【-wich】と名づけられた場所には、地下塩水を頼りに家族経営で製塩を行う中小の製塩業者がひしめいていた訳です。


 そこへ産業革命の波が押し寄せたならばどうなることか。


 機械化以前と比較するならば「(まだ)上質な安い塩」が大量に手に入る環境が整ったということになります。これにより、チェシャー州は一躍、イギリス最大の製塩地に躍り出たのです。

 勿論、産業革命が製塩業界に齎したものは、メリットばかりではありませんでした。十九世紀後半には、燃料である石炭から排出された煙による大気汚染と、原料である地下塩水の汲み上げ過ぎによる地盤沈下が問題になっていきました。また、家族経営の中小製塩会社の労働環境は劣悪としか言いようがなかったようです。

 ちなみにそんな製塩状況を改善したのもまた、技術でした。「真空式製塩法」を用いた「製塩業(=煎熬せんごう)の近代化」です。「真空にすることで加熱器内の気圧を人工的に下げる(=沸点が下がる)」=「燃料費の圧縮」+「結晶の均一化」という図式です。


 大英帝国イギリスはこうして得られた塩を、船のバラストとしてインドやアメリカといった殖民地に大量に持ち込むことで、殖民地を経済的に支配していきました。やがては塩はボイコット品目の一つにも挙げられていくのです。

 この点については次回、被殖民地側(被経済的殖民地側含む)の視点から、おさらいしたいと思います。



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長すぎたので、諦めて分割しました。

大航海時代にフランス革命と来れば、そりゃあ長くなるはずだわ。

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