為政編

新異世界の塩事情◆前編

 「歴史編」や「戦争編」、「税制編」等々、候補はいくつかありましたが、今まで「物質としての塩」ならびに「精神としての塩」についておさらいしてきましたので、そろそろ「政争の具としての塩」についておさらいしておこうかなあということで、「為政編」とさせていただきました。



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 その卑近さと扱いやすさから「戦略物資界最強の小道具」と言っても過言ではない「塩」。

 そんな塩をより効果的に物語に絡めるために、塩は政治的にどのような役割を担ってきたか、あるいはどのように利用されてきたかについて、まずは日本国内に限ったところでおさらいしておきたいと思います。


 そもそも周囲を海に囲まれた島国日本(ただし岩塩層はない)においては、よほどの寒冷地(例:北海道)か内陸部(いわゆる海なし県。栃木・群馬・埼玉・山梨・長野・岐阜・滋賀・奈良が該当)かつ塩泉さえない地域でもない限り、塩は――塩浜がなければ直煮すれば良いじゃないという意味で――どこででも採れると言って言えないことのない、最も身近な調味料です。日本食には欠かせない醤油と味噌のどちらもが塩漬け大豆と麹から作られる「塩蔵調味料」であるところからも、それは断言してしまっても差し支えないかと思います。

 にもかかわらず、学校の社会科や歴史や日本史の教科書に載るレベル、あるいは全国区の知名度を誇るレベルでの塩絡みの出来事(一揆、戦争含む)となると、果たして幾つあることやら。米を求めた「米騒動」や、「専売制に反対」というざっくりとした括りでの「一揆」は目にしても、純粋に塩だけを求めた「塩騒動」に「塩一揆」なんて話、なかなか耳にしませんよね? これは「湯水のように使う」という慣用表現に象徴される「水」への意識にも通じる、塩への意識の表れと見ることができるような気がします。それに拍車をかけるのが、歴史を学ぶ側に立つ「現代人」の塩に対する意識(もしくは優先順位)の低さ、塩もまた資源であるという認識の薄さ、なのだろうと思わずにいられない今日この頃です。学ぶ側が塩をもっと大事なものだと思っていたら、塩目線で歴史を紐解くはずですからね。実際、「ウィキ形式のオンライン百科事典」として知られるウィキペディアを例に挙げれば、十三か国語版がある「Salt Tax(塩税)」に二十三か国語版がある「Gabelleガベル(フランスの塩税)」、そのどちらにも日本語版はありませんし。

 勿論、各地の郷土史を紐解いていけば、「藩を挙げての密売塩の取り締まり」だの、「塩の生産量を巡る村同士の確執」もしくは「塩浜を奪い合う村同士の争い」だの、「塩の道のルート選定を巡っての攻防」だのといった血で血を洗うような塩の奪い合いが見出せるのかもしれないんですが。


 とにもかくにも事例が少ないなら少ないなりに、「塩の供給への不安がさほどないことが前提にある国の例」として、日本の政治に占めた塩の役割をおさらいしていきましょう。



◆塩と税制

 税制界における塩について語ろうとする時、どうしても無視できない制度が2つあります(本当は3つなのですが、1つだけは反対論者によって導入を阻止されてしまいましたので、日本の政治に限った範囲に於いては語ることのできない幻の制度ということになるかと思います)。


 一つは妥協の末の「調ちょうよう」。

 もう一つは強力に付きまとう「専売制」です。


 早ければ小学校の社会科、遅くても中学の歴史で習うであろう律令制下の租税制度「租調庸」。その中にも塩は含まれています。小中学校ぐらいならば「租=稲」・「調=(布または)地方の特産物」・「庸=労役(労働)か布か米」といった説明を受けたことがあるかもしれません。

 これらのどこに塩が含まれるかというと、代納で対応可能な「調」と「庸」です。もう少し細かく言うと調・庸にはそれぞれいくつか種類があって、「調」の場合は「正調=正規の調=繊維製品に限る」と「調雑物ぞうもつ=正調免除のために納める代替品全般=現金または地方の特産物(=塩)」、「庸」の場合は「京での歳役さいえき(やがて廃れる)」と「歳役免除のために納める代替品全般|(やがてこちらがメインに)=米または布または地方の特産物(=塩)」に分かれました。


 ここで注意すべきは「塩そのものが税だった時代がある」ということと、それ以前に「国が優先する品を納められる地域は、塩を税として納めていない」ということです。


 村の納税状況を少しでも楽にするために、知識を駆使して製塩(それも魔法を駆使した苦役の少ない大量生産)を始める主人公、なんて展開もアリかもしれません。米だとか小麦だとか、徴税側が指定している品目も村でかろうじて準備できることはできるんだけれども、物納の対象を塩に乗り換えさせるように仕向ける、とかね? 対象品目が足枷で塩を量産できない、とか何とか丸め込むのが一番オーソドックスな展開でしょうか。勿論逆に、他の対象品目を充実させることで塩を物納の対象から外させる、なんていう展開もまたアリかもしれません。


 お次は、塩が塩である限り、強力に付きまとう制度「専売制」。この世界を見渡してみても、貨幣経済下にある国で「過去一度も一瞬たりとも専売制を採ったことがない」という国はほぼないのではないかと思われるくらい、塩とは切っても切り離せない、ストーカーのような制度です。

 では、塩が何故、そんな仕打ちを受けるのかと言えば。

 好き嫌いを超越して人が必ず摂取せざるを得ない塩は、嗜好品とは違って我慢するというわけにはいかず、人口に比例して確実に消費も増える、課税すれば確実に儲かる、そういう魅惑の商品だからです。


 ちなみに日本全体では、大雑把に言うと二度、塩の専売制を導入したことがあることになります。


 一度目は江戸時代の「藩専売制」。

 幕藩体制の下、年貢米以外の収入源を求めた幕府や各藩が独自に行った専売制です。品目も勿論それぞれ独自のもので、塩を専売品としていたので有名なのは仙台藩と加賀藩でした。その特徴は「幕府や藩――つまりは武士――が直接売買を取り仕切るのではなく、取引そのものは御用商人などに独占的に代行させておいて、利益だけを吸い上げる」というところにありました。何の専売を行なうにせよ、幕府や藩の役割はあくまでも「専売品の生産の保護や奨励」にとどまっていた訳です。そのくせ生産割当だの買上価格だのは強制したそうなので、専売制に反対する一揆も各地で起こったと言います(そうなるともしかしたら、国内のどこかでは塩師(塩の生産者)も参加した塩専売に対する一揆もあったのかもしれませんね、広く知られていないだけで)。


 そんな状況下での救いといえば、仙台藩の菊地きくち与惣右衛門よそえもんが当時の製塩の最先端を行く赤穂あこう藩や江戸湾最大の製塩所であった行徳ぎょうとく領(天領)で入浜式製塩を学んだ、赤穂藩は仙台藩に塩師(塩の生産者)を貸し出したという逸話でしょう。しかも赤穂は製塩法を独占しなかったというね。

 これを知ってしまうと、吉良が塩田開発のために赤穂に隠密を放ったとか、それを赤穂が捕らえてどうのとか、そういう製塩法を巡る争いが「赤穂事件(いわゆる『忠臣蔵』の元ネタの『赤穂義士伝』の元ネタ)」の遠因となったとかいう説の信憑性なんて、どれほどのものかと言わざるを得ない気がします。

 勿論それは、赤穂が塩専売を行なっていなかったからの話で、塩専売一直線の仙台藩とは事情が違います。仙台藩の場合は密売塩の取り締まりにかなり力を入れていたようですし、塩のための役職(塩方しおかた塩味噌方しおみそかた)がありましたから。


 そして二度目は明治時代の「専売制」。

 明治38年(1905年)に始まった、大蔵省に専売局を置き、国が直接販売するという、紛うことなき専売制です。「日露戦争の戦費調達を理由とした『塩税』の導入阻止」を目的とした塩税導入反対派の主張によって始まりました(この「塩税」こそが、税制界における塩について語ろうとする時にどうしても無視できない第3の制度です)。塩専売法実施後から大正7年(明治51年/1918年)に専売の目的を「需給の調節と塩業の保護」とする公益主義に転換するまでの間、収益主義による塩価の急激な高騰が続いたようです。その間、議会では廃止論議が繰り返し行われ、世論の非難も止まなかったと言います。公益主義に切り替えるより専売を廃止した方が早い気がしますが、そういう選択にはならなかったようで、昭和24年(明治82年/大正38年/1949年)には特殊法人(日本専売公社)に事業移管までしながら、専売はさらに維持されます。平成9年(明治130年/大正86年/昭和72年/1997年)の廃止から五年後の平成14年(明治135年/大正91年/昭和77年/2002年)、塩の販売の完全自由化が復活しました。


 塩の専売を廃止するに足る「ドラマティックな何か」が発見できなかったことだけは、返す返すも残念なことです。結局は公益主義に切り替えたことで、専売を続ける旨味を失っていったということなんでしょうけれども。ただ、「今までの積み重ね」が決断の理由だった場合、そこに至るまでの道筋を丹念にたどる必要が生じてしまうわけで、よほど専売廃止に思い入れでもない限り、物語の本筋の片手間に取り上げるにはそぐわない感じになってしまう気がします。ただ、主人公が自分の製塩能力を見せつけて、為政者に専売廃止を迫る、という展開はまあ、アリかもしれませんが。



◆塩と戦争

 石油の量が戦況を左右するとか、戦争を見越して米の買い占めに走ったとか、そういう話はよく聞きますが、塩は生命の維持に欠かせない存在であるにもかかわらず、備蓄の話になることはあまりないような気がします。本当にそんな逸話自体がないのか、その時の聞き手が大事だと受け止めずに流したのかは分かりませんが、重要度の割に、戦略物資としての存在感はどうにも薄い印象です。


 そんな状況にあって、塩と最も密接な歴史上の人物は恐らく、江戸時代の陽明学者・らい山陽さんよう(1781~1832)ではないかと思います。大の上杉謙信びいきで、「敵に塩を送る」の故事(『日本外史』巻十一)を生み出した人物です。


 物語の始まりは駿河今川氏(今川氏真いまがわうじざね)と後北条氏(北条氏康ほうじょううじやす)による甲斐武田氏(武田信玄)への「荷留にどめ(要は経済制裁)」。――この荷留そのものをなかったとする説もあるのですが、そうなるとこのエッセイの存在意義が失われてしまうという切実な問題以前に、謙信のエピソードが減ってしまって淋しいとか、塩の扱いがあまりにも不憫すぎるとか、心の痛む展開になってしまいますので、この文章内では無批判に「荷留はあった」というスタンスで行かせていただきます。


 ちなみに塩を送った理由については、創作の世界では義将アピールのためか、「義憤から大々的に無料で運び込んでやった」と描く場合がほとんどのようなのですが、それ以外にも「義憤から安く売ってやった」「氏康の指図に従うのが業腹なので荷留の依頼を握り潰した」「荷留に同調するふりをしつつ、商機とみて民間の取引は見て見ぬふりをした」「商機とみてこれ幸いと高く売りつけた」などの説があるようです。義の心を持ち合わせているとは到底思えない信玄を相手に、「義将」謙信が本当にわざわざ今川氏や北条氏を敵に回してまで手を尽くしたのかどうか、はなはだ疑問が残るところではありますが、ご自分の謙信像に合わせてそこは楽しんでいただいたら良いのではないかと思います。


 さて、肝心の荷留ですが、今この瞬間にも経済制裁を受けている国があるという事実からも分かるように、「現代人」の感覚のままで考えても「海(及び塩泉)を持たない相手に対しては有効な手段である」ということに間違いはありません。それが戦国時代当時に行なわれたということは、当時の武将達にもまた、それが有効な手段であるという認識があった、もしくはそういう認識を持つ人物が駿河今川氏(今川氏真)ないしは後北条氏(北条氏康)の上層部辺りに存在した、ということになるかと思います。

 ただ残念なことに、製塩地が膨大にある日本では、そのうちの1つ2つが荷留ならぬ塩留を宣言したからといって、いくら内陸国が相手だとしても、そこまで簡単には塩不足にならなかったようです。まあ、腐れ知らず、備蓄し放題の塩が相手ですから。それこそいわゆる「信長包囲網」並みに、その国と境を接する周囲の国々が(しかも塩師や塩問屋までをも巻き込む勢いで)塩留に参加した挙句、密売対策として全ての国境を二十四時間体制で監視し続ける、くらいの徹底ぶりでも見せない限り、一国の塩を完全に断つことはできない、ということなのでしょう。



 さらりと駆け足で流すつもりが、意外に文字数を食ってしまった今回。塩を物語に引き入れる一助となりましたら幸いです。

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