信仰編
続異世界の塩事情◆前編
「
「続」の読み方は「続日本紀」や「続古今和歌集」と同じ「しょく」で、一つよろしくお願いします。
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異世界での塩事情、塩信仰について考える前に、まずはこの世界のそれらについておさらいしておきたいと思います。
世界中のありとあらゆる国と地域で信仰されている塩ですが、さながら世界が一神教と多神教とに分かれているがごとく、あるいは一つの宗教であっても幾つかの宗派に大別されるがごとく、塩に対する信仰もまた二つの宗派に大別することができるように思います。
一つは「海洋信仰から派生した宗派」。
もう一つは「混じり気なしに塩そのものを信仰する宗派」です。
これらのふたつの宗派を軸に、世界の塩信仰について考えて生きたいと思います。ちなみにこの文章内での塩に主眼を置いた「宗派」という呼称は、今回便宜上つけた仮称であって、実際にそう呼ばれているわけではありませんのでご注意ください。
では、塩信仰における二大宗派(仮)について、もう少し掘り下げてみることにします。
前者の場合は大抵、海水や湖水に代表される塩分を含んだ液体以外から塩を得ることが難しい環境にあり、塩の位置付けもあくまでも「海のシンボル」であって、塩の神聖性とやらを担保するのは海の存在である。海神が塩神も兼ねている場合が多い。塩そのものへの信仰心の芽生えは、海藻や海産物といった
後者の場合は岩塩や湖塩のような目に見える塩の塊を入手することが可能な環境にあり、海は直接的には関係がない。塩の位置付けもあくまでも「塩そのものの性質から類推可能な性質のシンボル」であって、塩の神聖性とやらを担保するのは塩の性質そのものである。塩に神は宿らない。塩そのものへの信仰心の芽生えは、有機物ではない塩の「不腐性」や「不変性」といった性質に目をつけたことに端を発するものと思われる。塩そのものが「神からの贈り物」として崇め奉られるというパターンである。ミネラルの塊である塩そのものは、腐ることがなければ燃えることもない。いわゆる「にがり」の主成分である塩化マグネシウムの含有量によっては「多湿の場所では自発的に溶けてしまう(=潮解性)」という状態変化の可能性があるくらいのものである。この点が同じような「白い粉状の保存食作りに使える調味料」でありながらも有機物の塊である砂糖とは決定的に違う点である。
……かなり駆け足でまとめましたが、二大宗派(仮)の違いをご理解いただけたでしょうか。
つまり。
身近に海があるかないか。
究極的には「身近な塩の由来は何か」。
それによって塩への文化的なスタンスが決まってしまう訳です。この時点で「ああ、じゃああの神話はこっち派だな」「だったらあの宗教はあっち派だな」とピンと来た方も多いのではないでしょうか。
こういう大きくて分かりやすいスタンスは、異世界物に塩信仰を登場させる時の説得力としても大きな力を発揮するのではないかと思います。
では、日本の場合はどうでしょう?
「岩塩層を持たない島国であり、塩のほぼ百パーセントを海塩に頼っている」日本はどちらの宗派に属していると言えるでしょうか?
日本人と海への信仰、日本人と塩への信仰について考えようとするならば、記録に残っているものとしては最古であろう『日本書紀(第五段一書)』や『古事記』に見られる
閑話休題。
海に入れば身を清められる、潮を浴びれば身を清められるという認識は、海への信仰心がなければ生まれてくるはずがありませんから、「潮垢離」という行動は完全に「海への信仰から潮への信仰へ」というベクトルを証明するものだと言えるかと思います。
しかも平安時代の法令集である『
それがやがて海のシンボル・塩への信仰へとたどり着くわけです。何たって海本体より手軽で、しかも賞味期限の設定が要らないほど不変の存在ですからね、塩は。潮への信仰が形になったものと言えば、いわゆる「見せ塩」「盛り塩」「撒き塩」辺りがその際たるものかと思います。
要は「塩=潮=海」という三段論法。これに尽きます。
つまり日本の塩信仰は前者、「海洋信仰から派生した宗派」に属していると言える訳です。
そもそも塩に対して「海からの贈り物」というキャッチ・コピーがつく時点で、塩は海の眷属、海に属するものであるという意識がないはずがないですよね。
海のシンボルとしての塩は、大地(と農作物)のシンボルである米と、人と神の仲立ちをする酒と共に、神饌としての地位もまた確立していきます。
では、日本人と塩との信仰的な関わり合いについてどうか、という問題ですが。
これは各地域ごとにどういう風にかかわっているか、具体的に何をやっているのかということをアレコレ列記するよりも、まずはその根底にあるであろうエッセンスをおさらいしておきたいと思います。全体の傾向を大掴みに整理することで、和風な異世界物を表現する時にもお役に立てるのではないかなあと思うしだいです。
トップバッターは塩が持つという呪力について。
塩の持つというその不思議パワーを発揮するため、人々はある時は塩を見、またある時は盛り、さらにある時は撒く訳です。
少なくとも「現代」でも、清めたいものや場所に直接塩を撒いて撒いて撒きまくる「撒き塩」と、清めたい場所に工事用のカラーコーンのように塩をこんもりと盛って盛って盛りまくる「盛り塩」とは、調理以外の塩の使い道として最もポピュラーなものではないかと思います。残念ながら病人に塩を見せて魂に活力を与え、病を祓おうとする「見せ塩」の方は「現代」ではあまり見かけませんが。
貴重品でありながら生活必需品でもあり、「不腐性」や「不変性」を持った存在であるという塩への意識が、自然と塩を特別視していったのかなという気がします。しかもそこにマイナスの意味が生じることはないのです。暴走して「塩が祟る」とか「塩で呪う」なんて話は聞いたことがありません。
そういう特別な存在として、塩が颯爽と登場する異世界物、なんてどうでしょう。
魔法を否定するつもりはありませんが、塩で魔を祓う、塩で戦う異世界物とか、ちょっと見てみたくないですか?
そして実はとても大きな意味を内包する塩の捨て方。あるいは塩をこぼした時の対処法。
あの地域はこういう呪文を唱える、この地域ではこうだ、というバリエーションは実に豊かにあるのですが。
それらの行動すべての根底にあるものは、「塩は海へ還るもの」という意識だと言えるかと思います。
塩は海に還るものだから不用意にこぼしても別に気にしないという地域があり、役目を果たせず泣き泣き還っていくのだからこぼれた塩に丁寧に謝るという地域がある。
手のひらについた塩を掃うにしても、「海へ帰れ」と言いさえすればどこで掃ってもいいという地域があり、(迷わず海に帰れるように)必ず流れの中へ捨ててやれという地域がある。
一見矛盾して見える各地域の行動も、すべての根底には「塩の海への回帰性」があると思えば、ぐっと理解しやすくなるのではないかと思います。
そしてこの「塩の海への回帰性」こそが、塩の呪力を担保する上でも実はとても重要な意味を持つ考え方である訳です。
「
つまり塩は、たとえ自分はどんな扱いを受けようとも「その身に
塩と日本人の係わり合いについては、書けば書くほど泥沼にはまるというか、終わりが見えなくなるというか、ますます収拾がつかなくなっていく気がします。素晴らしい本も何冊も出ていますから、きちんとした詳細を知りたい方や少しでも興味が出た方は是非ともそちらをお読みくださいということで(宣伝)。
今回は「日本における塩とはいつかは海に還っていく、特別な力を持った存在である」という点を理解していただければ万々歳ということで終わりたいと思います。ぐだぐだです。
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