第捌撃:悪魔の誘い
天井には一点のシミもない。見渡す限り、壁一面真っ白な部屋。息を吸うとふんわりとお花のような、柔軟剤の香りがあたしを包む。
「あたしは死んだのか。ここは天国に違いない。」
天国なら思い残すことはもうない。あたしは思考を放棄して、再び眠りにつこうと布団を被った時、気配を感じて素早くベッドの下に潜り込んだ。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ、ウユニさん。」
聴き慣れた声ですぐに誰が部屋に入ってきたのかわかった。
「シラタキ…ちゃん?」
ゆっくりとベッドの下から顔を出すと、部屋の入り口に女の子がお盆を持って立っていた。艶のある黒髪に、黒いパーカー、黒いひらひらのスカート、黒いニーソックスで目元が赤い如何にもメンヘラっぽいメイクの女の子は、あたしのベッドの上に食事を置いた。
「だからシラタキじゃないですって。リアルでは初対面なので、改めてPunipon_13です。仲間内にはぷに子って呼ばれています。」
「へぇ、中身は非モテのおっさんかと思っていたけれど、本当に女の子だったのね。」
「ひどい…確かに私は喪女ですけど、おっさん女子と言われないように気をつけているんですよっ!」
なるほど、リアルシラタキちゃんが首から下げている身分証の写真は、確かに黒縁メガネのボサボサ頭で、寝起きのおっさんのような顔で写っている。その下にはローマ字と漢字で‘’MARIN OKITSUNE 麻凜沖常‘’と書かれている。
「それで、どうしてあたしはオフ会に強制参加させられているのかしら?」
「2日前の戦闘終了後に、倒れていたところを保護されたと聞いています。身元が日本人と判明したので、臨時で私が世話役に任命されました。」
「捕獲の間違いじゃないの…結局ここはどこで、未だにあたしを生かしている理由は…」
「色々聴きたいことはあると思いますが、それらの説明は後ほど担当の人が全てしてくれるみたいなので、私はエイム練習に戻ります。」
あたしの話を遮り、リアルシラタキちゃんは部屋を出ようとする。
「あら、あたしのお世話をしてくれるんじゃなかったの?」
「好きで世話役をやっているんじゃないんです。担当者を呼んで来ますから、おとなしくしていてくださいね。」
リアルシラタキちゃんが部屋を後にした時、あたしは全身の倦怠感が空腹によるものだと自覚した。ベッドの上に置かれたお盆には、ベーコン、レタス、トマトが挟まれたサンドイッチに色とりどりの野菜が使われたスープが鎮座していた。
スープを口に含んだ瞬間、忘れ去られていた味覚の記憶が呼び覚まされた。今までのサバイバル生活での基本的な味付けは、自分で精製した海の塩だけだった。非常用の缶詰もあったけれど、野菜本来の甘味や旨味を堪能できるのは本当に久しぶりだ。嚥下すると、欠落していた栄養分があたしの身体全体にゆっくりと染み渡るのを感じた。
「美味しい…」
あたしがサンドイッチを平らげる少し前に、背の高い金髪の外国人女性が部屋に入ってきた。自動ドアが急に空いたので驚いた。ノックぐらいして欲しいものだ。
「あなたがウユウナスノね。私はシャルロッテ、ようこそヴァナヘイム島へ。」
完全に身元がバレている。天涯孤独のあたしの身元が知れたところで何も問題はないのだが、あたしの情報をどこまで入手しているのかは気になるところだ。
よもや隠れた性癖までは知るまいが、少し不安になった。そしてこの女性、英語を話していはいるけれど、訛りからして恐らく…
「ドイツ人ね。」
「驚いた、あなたドイツ語も話せるの?」
「嗜む程度にはね。それよりもまだ生かされているということは、あたしに利用価値があってあなた達はそれをボロ雑巾の如く絞り出そうと企んでいるんじゃない?」
「察しがいいのね。あなたが現れた当初、上層部はそれはもうお怒りになって、なんとしてもあなたを抹殺するつもりだったのよ。でも、どうやっても採算が合わない損失を出してしまったから、今度はあなたを利用して利益を捻出しようとしているのよ。あなたが戦闘不能にした、計120の戦闘機体。そして64機のドローンの修理費だけでも凄いけれど、あなたの登場による経済効果は、国の存続すら揺るがす大事件なのよ。」
納得ね、でもあたしは自由を求めてここまできた。今更誰かのために働くなんて、死んでもお断りだ。
「あたしが大人しくあなた達に従うと思っているのかしら?」
「当然、あなたならたとえ拷問に掛けようとも従わないでしょうね。強制的に従わせようものなら、あなたは今ここで自ら命を絶つことも厭わないでしょう。でもそれは性格分析で把握していること。ここはお互いにWin-Win、対等な提案をさせて欲しいの。」
この期に及んで対等な申し出とは、俄かに信じがたい。シャルロッテの言う通り、命を投げ打つことなど雑作もない。普通なら今頃とっくに死んでいてもおかしくないような状況はいくらでもあった。対等であれ従属関係であれ、誰かの影響で自分の意思を曲げるのは絶対に避けたい。
ゆえに此度の申し出は丁重にお断りさせていただきたいところだが、シャルロッテとの腹の探り合いは、久々に好奇心をくすぐられる。
「お話だけ聞かせてもらおうかしら。」
「聞き分けのある娘でよかったわ。あたしを人質にとって逃げ出す可能性も考慮していたから。」
「それで?あたしにどうして欲しいの?」
「特に何も。これまでどおり、好きに戦って欲しいだけよ。ただ、そのバックアップを私たちに任せて欲しいの。」
「スポンサー契約ということかしら?」
「そうね、それに近い形になるわね。こちらからはあなたが必要な物資はすべて提供させてもらうわ。あなたが快適に暮らせるように、食事から武器の研究費用、エステや娯楽なんかも提供するわよ。」
シラタキちゃん達のように、正規に雇われている人材は相当な好待遇とみえる。なるほどこの戦場は所謂宣伝の場であり、世界各国の企業や組織はその技術力を見せることで、取引につなげて国家予算レベルの莫大な利益を得ているということか。となるとつまりシャルロッテ達の狙いは…
「あたしのジェットドレスはどこへやったの?」
「あら、本当に勘のいい娘ね。大切に保管しているわよ。私たちの研究室でね。」
「なるほど、欲しいのはあたしの技術というわけね。」
「それにあなたの戦術展開にもとても興味があるの。あなたが以前出ていた大会の動画を全てチェックさせてもらったけれど、それらを遥かに凌ぐ立ち回りには、私も開いた口がふさがらなかったわ。そしてなにより、あの廃拠点の物資だけで小型の電磁フィールドを再現してしまうなんて、本当に驚いたわ。」
そうか、64機もドローンを壊したなんて言いがかりだと思っていたが、あたしがお家に飛び込んだ時に、正常に防犯システムが作動していたということか。
「弊社での研究と、戦闘員への指導に協力してくれるなら、さらなる好待遇を保証するわよ?専属の使用人もつけて、あなたのしたいこと全てを支援するわ。」
「お姫様気分ってことね…だが断わ…」
「みかん。好きよね…?」
「なん…だと…?!」
後ろ髪を引かれる思いが過ぎて、毛根から出血していないか心配になった。この島に来て唯一後悔したこと?それはみかんを食すことができない事に他ならない。代替品としてここに来る前の島から、オレンジの種子を密輸して植えたのだが、一体いつになったら果実を食べられるのか途方に暮れていたのだ。
粗末な食事も、唐突に訪れる異常な性欲も些細なものだ。あたしのみかんへの渇望は、砂漠で遭難し差し出された一杯の水ですら比較にならない。
「あなたは食べたことがないでしょう?甘味や酸味だけではない、旨味すら宿す新種のみかんを…。我々は軍事技術だけでなく、バイオテクノロジーにも精通しているの。無人島での食糧難解決のための研究過程で誕生したこの果実…''陶酔泉''に興味はないのかしら?」
「そ…それは…っ!」
なんたる神々しい輝きを放つ果実だ。シャルロッテがその手に翳す果実はまるで、オレンジサファイアのように妖艶かつ深みのある色合いに輝き、ほのかに甘美な芳香を放っている。溢れ出る唾液に溺れてしまいそうだ。今、あたしの全細胞が痙攣という形で、''あの果汁を欲している''とモールス信号を送っている。
「その味たるや…」
次の瞬間、無意識にシャルロッテから果実をもぎ取り、太陽のように輝く果肉をむさぼっていた。陶酔の名を冠するにふさわしい恍惚が舞い降り、至福の泉があたしの理性を押し流していく。
「契約、成立ね。」
「か…勘違いしないでよねっ!別にあんた達の為じゃないんだからねっ!」
「ふふ…ようこそ、我らがフューチャーテクノ社へ。」
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