机上を這い回る羽蟻を、殺す意思は無いのだと念じながら、押し潰した。

 虫は、殺気に敏い。

 絶対に仕留めてやる等と息巻くと、かえって疾く逃げ出してしまうものである。

 故に、ああ、虫がおるわと余所事混じりに平穏な感慨を装い、何の気なしに翳した掌の自重をもってして始末してしまうのが一番効率がよい。


 塵紙で指先を拭い、食事の続きを始める。じっくり煮込まれた牛肉が口の中でほろほろ形を失っていく。白米を噛む。命は旨い。快い。

 卓上の定食とて上等ではあるが、これよりもっと美味いものを知っている。この手の話は最早好みか否かに依ってしまうものの、さりとて舌が根まで喜ぶのだから勝手に語りだしてしまうのだ。

 この身は鬼であるからして。御伽草子においても、鬼は人を喰う存在であるからして。

 街角の定食屋で、しぐれ煮を箸で食べる鬼が居て堪るかと人間は思うだろうか。こみ上げた愉悦はぬるくなった水で押し流した。

 勘定台で船を漕いでいる老婆の前に、少し多い代金を置いて店を出る。


 夏も盛り。真昼の日差しは無慈悲に、そして平等に万人へ降り注ぐ。足元の影はいよいよ濃くなり、往来の人々の足は急いているようで実際の速度は緩慢だ。

 早く涼を得たいのに、体が言うことをきかないのだろう。太陽は、先程の自分の掌と何が違うだろうか。あれに殺意を感じない。けれど、この猛暑は確実に生き物の命を削っている。

 なんだか酷く愉快な気分になった。腹が満たされていることもあるが、知らぬ間に死地へ入った虫の気分というのは中々味わえないものだから、童心に帰ってしまうのも致し方あるまい。

 その先で、見知った顔をみつけたとあれば、足取りが弾んでしまうのも【人間社会においては】当然である。

 せんせい。呼びかけると、鮮やかな色彩だけが浮かれているくたびれたアロハシャツが振り返った。

「この暑いのに元気やなあ……はい、こんにちは。せんせ、今ちょーっと夏バテ気味やさかい、今晩のラーメンは勘弁……え、冷やし中華? ……夜食としてはアリなんかな」

 神妙な顔で考え込む教師の返答を笑顔で待つ。とやかく言うより黙って利口に待っていた方が、相手は要求を呑んでくれる。

 かくして思惑通り、押しに弱い青年は承諾を返してきた。それにしても、体力を消耗しているのは事実のようだ。顔色も優れない。

 それとなく手近な喫茶店へ誘導するべく歩みだす。

「こないに暑い日はクリームソーダ、美味いんやろねえ……ええ? 別に張り切ってへんて。グラウンド。整備しとかんと。生徒らにやらせる訳にいかへんし、先生が熱中症になる訳にもいかんやろ。ちゃーんと適切に水分補給してましたし? 適度な休憩も挟んでましたし? ぜーんぜん余裕です。……でも、まあ頑張ったのは事実やし、ちょっと休憩しても罰は当たらへんね」

 そうだとも。罰など誰が当たらせるものか。


 これは、この鬼の獲物なのだから。


 例え天におわす何ものにもくれてやらない。

 適切な表出で笑みを消化し、教師の影を踏みながら喫茶アヴァンティエールへと這入る。

 いらっしゃいませ。

 気だるげな挨拶。心地よい涼風。

 獲物の食べ頃を待つ期待と、先生という存在を独占できる特権とが胸の中でせめぎ合い、呵々と嗤っている。

 こんな鬼にも、教師を装うあなたを可哀想だと思う。それと同時に、なんだか大声で叫んで全てを台無しにしてしまいたくもあった。

 どうか永劫、この堂々巡りに答えが出ませんように。

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鬼の目にも 空空 @karasora99

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