2 排斥されぬ
水面は、誘発物に触れないように武器の山をかき分けていった。
嘲り笑うようなその声は段々と水面の耳の奥底に響くように大きくなっていき、まるでそれは水面自身に向けられているかのように錯覚していくほどだった。
甘い生クリームの汚泥が耳から水面の脳を侵食していき、それが脳髄に到達した途端に硫酸のように判断力を溶かしていく。
(違う……! これは罠だ。俺はこんなものに求められてなんかない。求められる人間じゃない)
右耳から手を離すと、水面はあえてその声から心理的に遠ざかった。
声が聞こえなくなっていくと同時に、とろけていた水面の脊髄から脳までが冷水を通したようにはっきりと戻っていく。
その感覚のおかげで、水面は自身が英雄でもなんでもないことを再確認していた。
知っている。知っている。水面は脳内で反芻する。
大学の研究の中で、誘発物が発する声は誰に向けてのものでもなく、それでいて聴いた者が自分に向けての声だと勘違いしてしまうものだということを。
誰も、英雄になんてなれないということを。
「カカリチョ! 多分、ラスト一本は特級っス! 防衛魔法かそれに類する手段を持ってないスタッフは距離をとって! 早く!」
キアラのその言葉に、周囲の空気が凍りついた。一人のスタッフは通信機器を使いどこかに電話をかけ、近くに居た職員は皆逃げるようにその場を走り去る。
水面も手段を持たないからと距離を取ろうとしたが、キアラに「あんたは手袋つけてるから大丈夫っス」と言われジャケットの裾を掴まれた。
ムトはそのまま作業を近くで手伝っていたスタッフに引き渡すと、周囲のスタッフたちの流れに逆流するように山をかき分けるようにして水面の元に飛んでくる。
その目は期待するような、それでいてさきほどまでの柔らかなものよりも警戒を増した緊張感があった。
「特級……って?」
「見つかった瞬間に警報バンバン近くの利用者全員検査レベルのやつっス。去年も一本、バカ研究員が触って能力開花。捕まえるだけで百三十人は動員されたってニュース見なかったっスか?」
キアラの言葉に、水面はスマホで見たニュースを思い出す。
富山の方に建設されたターミナル運営企業傘下の研究所が、周囲の山々を巻き込んで爆発事故を起こしたというニュースだ。
「あれって……」
「公にはガス爆発ってことになってるっスけどね。実際は触った瞬間に薬物中毒者もかってくらい狂いだして、周囲をその時手に入れた能力で焼き払ったとか」
その光景を想像してしまい、水面の手には汗がじっとりと滲み出していた。
「最終的にはターミナルに来てポータルから異世界に行こうとしてたって話っスから、ここも最悪めちゃくちゃな被害を被ってたかも……なんてのは公然の秘密っスよ」
は、と水面が気がついたときには、その事実にまた己の右耳を触ってしまっていた。
脳の奥に
「お前は違う。お前は特別だ」
という甘言が響き渡ってくるような、そんな呪詛がゆっくりと笑いかけてきていた。
振りほどくように水面が頭を振っていると、ムトがゆっくりと武器の山を滑り降りてきた。
「水面くん大丈夫かい? 疲れちゃってたら休憩しても……」
「いえ、大丈夫です。それよりもさっきの作業は良いんですか」
「ん、あっちはあっちで専門が居るから大丈夫。それよりも水面くん、特級の場所は?」
「この山の……多分結構下の方です」
ムトはそれを聞くと、元から丸かった瞳を更に丸くした。
それは水面がすでにその一言が信用に値されるほどだという証拠だった。
「よし、じゃあキアラくん、慎重に掘り出してね」
「もちろん。水面、お前の耳にかかってるんだからな、ちゃんと場所を把握しとけよ」
水面はキアラが睨んでいるにも関わらず、少しだけ胸の器の中に温かい何かが流れ込んでくるような気がした。
「仕事中に気色悪い視線向けてくるのやめてもらってもいいっスか。カカリチョ共々セクハラで訴えるっスよ」
「なんで僕も!?」
「すみません。任せてください、もう少し右の下の方です」
水面は一息に吸い込むと、また甘言の海の底に潜っていく。
己が英雄でないと自覚している時のそれは、不意に聞こえてくるものとは違い対策がある程度立つ。
水面はキアラに適宜場所を指示しながら、キアラが一本、また一本と武器の山を堀り進めていった。
「それです」
しばらくキアラが掘り続けた先を水面が指差す。そこには、真っ黒な革の鞘に収まった、これまた真っ黒なナイフがあった。
「水面、カカリチョ、目ェ逸らして」
キアラがゴーグルをつけながらトーンを落として言う。
「見るだけでも危険な可能性もあるっス。封印が終わるまでどっか向いてるか、目を閉じて」
指示されるままに水面は目を閉じると、それと同時に耳からも手を話した。
水面がふぅと一つ息を吐くと、掴みそこねた誘惑と幻覚が口の中から空中に流れ出ていった。
その間に、キアラが特級誘発物に入念に封印用のテープを巻き付ける音だけが、小さく聞こえていた。
「あからさますぎる……。けどこれ、明らかに誘発物っスよねぇ」
「うん、僕にもわかるほどだからねぇ」
キアラはポケットから取り出したビニール袋ごしにそれを掴むと、袋ごとひっくり返してナイフを袋の中に入れた。
最後まで特級のそれが呼びかけているような雰囲気を水面は感じ取っていたが、それ以上水面は声を聞くことはなかった。
「キアラくん、登録よろしく。鑑定課の方に連絡するための書類も準備しといて」
ムトがそう言うと、キアラは目を輝かせて両手を上げた。口に咥えていたキャンディはその瞬間に噛み潰され、足元に棒だけが落ちていく。
「マジっスか!? ここの回収しなくて良いってことっスよね! ッシャ! じゃ、特級出現報告書類書いたりとかもしなきゃなんでお先失礼っス!」
そして、これ以上なにか言われる前にと言わんばかりに、キアラは走り去っていった。
その場に残されたムトは、水面の頭にぽんと手を置く。
肉球の感触が柔らかくて、水面の体から少しだけ力が抜けるような安心感がそこにはあった。
「徒與くん、お手柄だよ」
「いや……俺ができることをしただけなんで……」
側頭部をぽりぽりと掻きながら、ムトは疲れを表に出しながら呟いた。
「にしても、特級かぁ。大変なことになっちゃったなあ」
「何か問題が?」
「誘発物でもなんでも、ポータルから飛び出してきたものは落とし物だからね。もちろんターミナルを利用しているお客様が落とした物も落とし物だけど」
ムトは肩を落とすと、元気に立っていた耳を垂れさせる。
「落とし物とはいえ向こうに返すのを良しとしない……というか、落とし物じゃなくてターミナルの物だって言っちゃう課も居るんだよねぇ」
「どうしてですか?」
「まあ、色々使いたいんだろうね。精神汚染を引き起こして、チート? って今の若い子は言うんだっけ。僕達の世代では強大な力、なんて言ってたけど、そんなものを分け与えるだけのエネルギーが内包されてるわけだから」
わきわきと動かされるムトの手は、しかし説明の深刻さとは裏腹にその見た目も相まってセクハラをするおじさんにしか見えない。
「ははは、変なこと話しちゃったね。そんな部署は少数だから安心して。とりあえずそんなことはさておき、向こうが返してほしいって言ったらちゃんと返す。そこまでが僕達の仕事」
「でも、それこそこのターミナルでの落とし物ならまだしも、異世界の人とはどうやって連絡を?」
「それは僕達の仕事ではないから詳しくはわからないんだけど、なんでも課の交渉係が色々やってくれてるみたいだよ。言語と演説と営業のスペシャリストたちだから、すごく丁寧に交渉してくれるって感じかなぁ。……まあ、時々とんでもないこともしてるみたいだけどね」
想像できないようなこともしてるみたいだよ? というムトの言葉に、水面の顔は青ざめ、ムトは逆に己の言葉に頬を赤らめた。
「でも、返すのは僕達だからね。徒與くんも、交渉係の人たちの顔に泥を塗らないようにがんばろう! 最初は僕ですら、この僕ですら覚えられなかった仕事なんだから、徒與くんも肩肘張らないようにね」
「りょ、了解です」
ムトは指を伸ばすと、それらを折り曲げて指同士が会話をしているように動かしながら説明する。相手が成人済みの男であっても、子どもにするような動作だ。
「徒與くん、まだ体力は残ってるよね? ラストスパート、頑張ろっか」
「はい!」
水面も袖をまくり、作業に取り掛かった。
「そろそろ回収班のスタッフも来る頃……あ、きたきた」
ムトがフードコートの入口を指差すと、その向こうから十数名のスタッフが駆け込んでくる様子が水面にも見て取れた。
「そういえば、ここのスタッフってどれくらい居るんですか?」
「ん、そうだねぇ。僕も把握してないくらいには……って感じかなぁ。部署も多いし、ウチはよそと兼任のスタッフも多いからね」
「そうなんですね。じゃあ落とし物係だけに所属してる人は自分と係長と、あと……」
「あ、いい忘れてたけど、係長じゃなくていいよ。ムトさんって呼んでくれると嬉しいなぁ。あとは五人かな。僕、徒與くん、キアラくん、それとカリアくんにヴィルくん、ラザニエルくんにアスカくんだね」
指折り数えながらムトは名前をそらんじる。だが、それ以上のことを水面が聞くよりも先に、ムトは他のスタッフに引き継ぎと作業の指示を出し始めていた。
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