第1章 ホスピス 第3話(上野紗良)
〈12月17日〉
今日からホスピスに入院することになった。
私の最後の時間を過ごす場所。
せっかくだから、思ったこと、感じたことを、心の赴くままに日記に記しておこう。
誰が読むというわけでもないけれど、もしかしたら私の小さな気づきが、何かの役に立つ日もあるかもしれない。
そんなささやかな期待も込めて、書き始めます。
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最初に甲状腺がんだと聞いた時は、意外にも冷静に受け止めている自分がいた。
母が同じく甲状腺がんで亡くなっていたし、いつかは自分も同じような病気にかかるかもしれないと覚悟していたのだ。
それに、思い返せば、仕事で無理を重ね、自分の体を酷使しすぎていた自覚はあった。
医師によると、私のがんは、詳しくは甲状腺濾胞がんといって、甲状腺がんのなかでも比較的少ないものらしい。
がんが胸椎へ転移した影響で、足が動かなくなってしまったそうだ。
まさかこんなに突然、余命宣告をされるとは思っていなかったが、こればっかりは仕方がない。
人間誰しも、いつかは死ぬものだ。
その時期が、どうやら私は少しだけ早いというだけ。
30代でこの世を去る人だっているだろうし、私のように余命を数えることもなく、一瞬で事故死してしまう人だっているだろう。
そう考えると、別に目新しいことでもなんでもない。
私もまた、数ある人類の中の一人。
生々流転を繰り返す、宇宙の生命の一つなのだ。
と、高尚なことを言って自分を励ましてみる。
そうは言っても、麻痺している足の感覚にはまいったものだ。
感覚自体はなくなっているのに、鋭利な刃物で命を削られているような痛み。
実際の痛みではなく、心が痛むのだ。
もちろん、現実世界の紛争地域では、本当に手足を切断する痛みに苦しんでいる人だっている。
さだまさし原作の映画『風に立つライオン』を観たことがある。
アフリカの紛争地域で、毎日のように少年兵たちが病院に担ぎ込まれていく。
銃弾をくらった腕や脚を切断されていくのには、身悶えするようなおぞましさを感じた。
人間って、どこまで残酷になれるのだろう。
残酷なのは手足を切断することではなく、少年たちの家族を殺し、彼らに麻薬を打ち、無理矢理、戦闘地域の兵士に仕立てることだ。
純朴な少年の心を奪い、殺人兵器のように使うことは、大人のもっとも重い罪ではないのか。
主人公の医師と共に、憤りに駆られたものだ。
状況が違いすぎるから、片足のないアフリカの少年兵と、麻痺している自分の両足を比べるべきではないのかもしれない。
それでも、彼らのように灼熱の大地で脂汗を流すこともなく、私はこの冬も、暖かい病室で何不自由なく過ごしている。
日本の病院に入院できるだけで、十分すぎるくらいの幸せのはずだ。
与えられていることに感謝していこう。
今、自分にできる精一杯のことをしていこう。
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私は、強がりだ。
いつも気を張って生きていたから、ちょっとやそっとのことではへこたれないし、周りからも強い子だと思われてきた。
でも、本当は、ふとした瞬間に崩れ落ちそうな脆さを持っていることも、自覚している。
今回の件だってそうだ。
ホスピスに入院するということは、せいぜい余命半年以内ということ。
強がってはみるものの、やはり心は不安定だ。
時々、宇宙のブラックホールに吸い込まれてしまいそうな、大きな喪失感を感じる。
闇に取り込まれたい訳じゃないのに。
いつだって、太陽のような笑顔でいたいのに。
追いかけてくる死の恐怖から、逃げきろうとしても逃げきれない未来。
捉え方によっては、死神に首根っこを押さえられているように感じる。
ありがたいことに、七転八倒するような苦しみはまだ経験していない。
きっと、もっともっと苦しんでいる人はいるはずだ。
だが、背中には、ずきずきとした傷みが常に付きまとっている。
おそらく、がん転移の影響だろう。
身体が痛むと、自然と気分も暗く落ち込みがちになる。
この痛みを気にしなくてよいぐらいに、熱中できるものはないだろうか。
自分が寸暇を惜しんで没頭できる何かを、気づけばいつも探している。
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車いす生活になってからというものの、自分の生活スタイルは、以前とはガラッと変わってしまった。
今まで当たり前のように出来ていたことができない。
大好きなダンスを踊ることもできなくなってしまった。
3歳からバレエを始めて、モダン、ヒップホップ、ロック、ハウス、ジャズなど様々なジャンルのダンスに挑戦してきた。
社会人になってからも、バレエの基礎レッスンだけは欠かさない、筋金入りのダンス好きだった。
音楽に身を委ねて踊っている時だけは、日常の嫌なこともすべて忘れ去って、ただただ曲の世界観に没入できる。
自分の身体は、芸術を表現するためだけに存在するのだと思える。
あのこの上なく幸せな時の流れを感じることもできなくなった。
心配されるたびに、「大丈夫だよ」と周りには言っているのだけど、本当は大丈夫ではない。
思うように動かない体にガッカリする。
排泄も一人ではままならない自分の現状に、ただただ惨めだな、と思う。
麻痺していて感覚がないため、おむつを看護師の皆さんに替えていただくしかない。
ありがたいことだけど、とても恥ずかしい。
排泄の自立だって、人間の尊厳に関わる問題なのだけど。
このことを訴える人は少なくないだろう。
看護師さんに昔からの知り合いがいなくて良かった。
それでも、舞台の上で輝いている人に嫉妬するような自分にはなりたくない。
嫉妬は自分を汚す毒牙だと分かっているから。
人を妬んだところで、状況は何も変わらないし、むしろ、自分の心が醜くなるだけだ。
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幸いにして耳の機能はまだ生きているので、美しいメロディに癒されることはできる。
音楽もまた、私の人生の一部だと思えるほど愛している。
とりわけビートルズのジョン・レノンの歌が好きだ。
ジョンの声には、世界中の誰よりも優しく、そして強いパワーが込められている気がする。
ビートルズの全盛期を知らないのにジョン好きなのは、教育者だった父がジョンのファンだったことも大きいだろう。
我が家の車の中ではいつも、ビートルズの曲が流れていたけれど、特に印象的だったのは、「アクロス・ザ・ユニバース」。
「Nothing's gonna change my world(何ものも僕の世界は変えられない)」
3回繰り返されるこのフレーズは、自分を励ます時によく口ずさむ。
なんでもこの曲は、ジョンの最初の妻・シンシアへのイライラに起因しているらしい。
延々と喋り続けてくる妻の言葉に腹が立って寝室を出たジョンが、階下に降りた瞬間。
イライラの歌が宇宙の歌へと変わったのだそう。
まさしく発想の転換。ジョンは天才だ!
曲の誕生秘話はもちろんのこと、どこかインド風なイントロながら、宇宙の中心にまで届きそうな曲が、たまらなくエキゾチックで好きだった。
この曲構成には、ジョンがインドに滞在し、内省的な生活を送ったことも影響しているだろう。
インドのマハリシ師に学んだジョンらしく、感謝を捧げるマントラも入っている。
この辺りから、ジョンが東洋思想に心惹かれて、我らが日本女性、オノ・ヨーコとの結婚に繋がっていったのは間違いない。
……この孤独な入院生活にも、誰かと共有したくなることがある。
でも、きっとこの孤独感は最期まで変わらないだろう。
仕方なく一人でジョンの世界を愉しむ。
目を閉じて「イマジン」を聴いていると、自分が病棟にいることを忘れられる。
まるで、別の世界線に飛んでいくかのように、想いの世界において、私は自由だ。
いつまでもこの世界に浸っていたい。
すべてのしがらみから、自由になった世界に。
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ホスピスに入院して、一日目の夜を迎えている。
自分はさながら「死を待つ人の家」にいる病人なのだ、という事実が重くのしかかってくる。
「諸行無常」とはいうけれど、実際に余命宣告を受けた身だと、お釈迦さまの言葉がズッシリと胸に響く。
全てのものに四季があり、移ろいゆくというのならば、今の私は、限りなく寒い冬に差し掛かった秋だろう。
最後の葉っぱのひとひらが、辛うじて風に吹かれているような。
もしくは、若木なのに伝染病にかかり、じわじわと内部から朽ち果てていく桜の木のようだ。
人知れず病に侵され、満開を待たずに散っていく桜。
そもそも、一度も満開の春を迎えた事がなかったのではないか。
既に両親とは死別しており、身寄りはないが、死んだ後に悲しんでくれる人は果たしているのだろうか。
私一人がこの世から消えたところで、一体何になるというのか。
尽きることのない不安に、ふとした瞬間、押し潰されそうになる。
それでも、このまま自分の身体が死期を迎えていくのを、大人しく「はいそうですか」、と受け入れる自分でもない。
死ぬまでに何か一つは、自分の生きてきた証を残していきたい。
死ぬまでに誰か一人ぐらいは、幸せにしてから死んでいきたい。
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〈12月18日〉
とても印象的な夢を見た。
あったかくて、ふんわりした黄色い世界。
亡くなった父がそばにいて、一緒に珈琲を飲んでいる。
その眼差しは温かく、慈愛に満ちていて、とても懐かしい。
背中の痛みはなく、両足も動く。
死の恐怖から解放され、やりたいことは何でもやれる。
自由だ。
これが死後の世界なら、こんな世界も悪くないな。
辺りからは、この世のものとは思えない、色鮮やかな音楽が聞こえてくる。
何だろう?この美しい音色は?
現実世界では聞いたことのない、麗しい旋律。
それぞれの音色に色がついている。
そして、その音の手触りまで、確かに感じる。
ああ、この柔らかな音色にいつまでも包まれていたい――。
そう感じていた矢先、ハッと目が覚めた。
ずっしりと、身体の不自由さが戻ってくる。
ああ、現実世界に帰って来たな、と否応なく実感する瞬間だ。
時計を見ると、午前四時。まだ夜明け前のようだ。
慌てて音を覚えておこうと口ずさみ、スマホのボイスレコーダーに吹き込んでみる。
でも、もっと表現できない、何かだったはずだ。
あのポール・マッカートニーも、夢の中で「イエスタデイ」のメロディが聞こえてきたという。
いや、世界のポールと比べる気はないが、音が夢から聞こえてくる、という現象があるのだろうか。
今の私には分からない。
そういえば、父は一体、夢で何を伝えたかったのだろうか。
もう一度目を閉じて、思いを巡らせてみる。
……おわりのはじまり。
そんな言葉がフッと湧き上がってくる。
私の人生の扉は閉まりかけているはずだ。
終わりが見えたからこそ、何か新しく始まるものがあるのだろうか。
私にはまだ、この世でやるべきことがあるのだろうか。
今まで感じたことのないような、この胸の高鳴りは一体何だろう。
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朝、不思議な夢から目が覚めた後は、随分と気分が良い。
昨日はつい、悲観的になりすぎたみたいだ。
いつもの私らしくない。
きっとはじめての入院生活で、少しナーバスになっていたのだろう。
でも、今日はなんだか朝ごはんも美味しく感じられる。
看護師さんに淹れてもらった珈琲を飲む。
ついさっき、夢の中で父と珈琲を飲んでいたっけ。
ふんわりした幸せの世界を思い出してみる。
珈琲のお供に、昔よく食べていた近所のカフェのクロワッサンをイメージしてみた。
気分だけは、おしゃれなカフェの朝食だ。
食べ物が美味しいって大事だ。
そして、美味しいと感じられる私がいることも奇跡だ。
そもそも、まだ生きていることが奇跡だ。
窓の外を眺めると、悲しいほどに澄み切った青空が広がっている。
おはよう、世界。
私はまだ、ここにいるよ。
今日はいい天気になりそうだね。
……私には辛うじて、残された時間がある。
入院二日目にして、根拠のない気合が込み上げてくるのを感じる。
やってやろうじゃないか!ここからが人生の勝負だ!
こんなシリアスな状況なのに、開き直って前向きに捉えられるのは、天性の性格かもしれない。
それに、自分の不安な様子は、できるだけ他の人には知られたくない。
むしろ、いつも明るく、屈託のない笑顔で振舞っていたい。
だって、ここに入院している人たちは皆、同じ運命に向かっているのだから。
アウシュビッツで亡くなったアンネ・フランクだって、最後まで周りの人を励ましながら死んでいったはずだ。
できれば私も、そんな死に方でありたい。
最後の最後まで、誰かにとっての光でありたい。
今日からこの場所で、誰よりも明るく生きていこう。
そう心に決め、大好きな「アクロス・ザ・ユニバース」の音楽をかけ始めた。
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