第1章 ホスピス 第2話(三浦蓮)

「失礼します」


「あ。はーい」


 ずいぶん明るい声だ。ホスピス病棟で、こんなに明るい声を聴いたことがあっただろうか。

 カーテンを捲る、ほんの一秒にも満たない時間、上野さんの顔を想像する。なぜかわからないが、昔の恋人がつけていた香水の香りがほんのりと鼻をかすめた。が、もちろん、気のせいだった。

  

 真っ白い肌の女性が、ベッドの頭側を上げて座っている。テーブルで本を読んでいたようだ。ブックカバーをかけているから、何の本かはわからない。しかし、猫と魚のお洒落な柄である。手元には珈琲も置いてあった。

 CDラジカセから、ビートルズの曲が聴こえてくる。「アクロス・ザ・ユニバース」という曲だ。

 壁には、アビーロードを歩きながらピースをする、彼女の元気な姿の写真が飾ってある。

 それにしても、入院二日目とは思えない。あまりにもリラックスした、独自の空間が出来上がっている。彼女は、自分が幸せを感じられる環境を、よく理解しているようだった。

 僕は、どの患者にもそうしているように、ベッドの横にしゃがんで目を合わせた。


「はじめまして。作業療法士の三浦です。あの、今日からリハビリを担当させていただきます。よろしくお願いします」


「ふふっ。何か緊張してます?」


 口に手を当てて笑う。泣いた直後のように目が潤っていた。何もかも見透かされそうで怖くなり、思わず目を伏せた。


「すいません! 冗談です。上野です。こちらこそ、よろしくお願いします。ん? 三浦……蓮さんってお名前なんですね」


「はい、三浦蓮です」


 彼女は、ケーシーと呼ばれる白衣の名札をじっと見た。それから、僕が作業療法について説明すると、彼女は何度も頷きながら、「へえ、楽しそう」と無邪気に呟いた。


「リハビリって、運動だけじゃないんですね。ドラマで観るような歩く練習のイメージが強かったんで。私でもできるんですね」


「はい。それに上野さんの取り組んでみたいこととかも、お手伝いさせていただきます。今の時点で、何か希望はありますか? あとは、困ってることとか……」


「うーん。何かなあ。うーん……。すぐに思いつかないですね。ごめんなさい」


「いえいえ。急に言われても困りますよね。僕もうまく引き出せるような質問ができたらいいのですけど……すみません。今後、何かありましたら、遠慮なくお話してくださいね」


 上野さんの身体を動かし、筋力や関節可動域、感覚などの評価を行う。彼女はとても協力的で、むしろそれを楽しんでいるようでもあった。

 両脚は麻痺の影響で感覚はなく、硬くなっている。自分の意思で思い通りに動かない状況を、概ね受け入れているようだった。


「ビートルズ、好きなんですか?」

 

 上野さんを知るための、何か手がかりになるかもしれない。そう思って訊いてみた。

 すると、彼女はにこやかにCDが大量に入ったバッグを指差して、私に中身を見せてくれた。中には、アヴリル・ラヴィーンやジャスティン・ビーバー、宇多田ヒカルなど、多様なジャンルのアルバムが入っている。上野さんの脳内を覗き見ているようだった。


「ビートルズも好きですけど、特に好きなのはジョン・レノンです」


 ジョン・レノン……。

 その名前を聴いて、自然と緊張が解ける。次の言葉が反射的に出てきた。


「ジョンですか! いいですね。そんなに詳しいわけじゃないですけど、僕もよく聴いてましたよ。あの、人を惹きつける声とメロディ。本当に吸い込まれそうになりますね。ジョンの中で、一番好きな曲は何ですか?」


「急にテンション上がりましたね。先生は音楽、好きなんですね。ちなみに、一番好きな曲は……『イマジン』かな」


「ああ、わかる! 僕も好きです」


「ふふ。本当にわかりやすい方なんですね。『イマジン』って、シンプルなメッセージの中に、他の歌手の追随を許さない深みがあると思うんです。『思想や国家や宗教、所有欲などが存在しない世界を想像しよう』って歌詞は、かなり刺激的だし、ときどき議論されてますよね。でも、ジョンが本当に伝えたかったのは、『この世界の色々なしがらみを一回なくしてみて、ただただ平和をイメージしてみよう』っていうことに尽きるんじゃないかな。

 それから、『イマジン』のアイデアは、ヨーコの『グレープフルーツ』って詩集からインスパイアされたものなんですよね。

 大切なパートナーと共作するって、凄いことですよ。音楽を一緒に作るって、よっぽどお互いの精神性を理解していないとできないと思います。いつかそんな関係の人がいるといいのにな、って憧れちゃいます」


 思わず呆然と立ち尽くしてしまった。彼女の話を聴いていて、焦りや不安にも似た、落ち着かなくなる感覚が生じてきた。


「あ、すいません。一人で熱く語ってしまいました。リハビリの邪魔してすいません!」


「いやいや。全然そんなことないですよ。大丈夫です。むしろ、なんか嬉しかったです」


「嬉しかった?」


「はい。そういう話を久々に聴きました。僕も音楽が少し好きなんですよ」


「……本当ですか? 先生は、どんな曲が好きなんですか?」


 上野さんが少し首を傾げる。患者とは思えないほど、髪の柔らかさが際立っていた。


「えっと……好きな曲はたくさんありますね。そうですね、えっと……全然、ひねりのない回答をしてもいいですか?」


「はい?」


「あの、ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』が好きで。自分を奮い立たせるときによく聴いていました。

 ちなみに……一九六六年の『ロイヤル・アルバート・ホール』のライブ盤が超オススメです。ボロボロで切なくて反抗的で……最高にロックしてますよ。ドキュメンタリー映画に『ノー・ディレクション・ホーム』というものがあって、あの映画を観た後に聴くと、より一層よさがわかると思います。

 あ、さっき『ロイヤル・アルバート・ホール』と言いましたが、これは本当はフリー・トレード・ホールでの演奏でして。

 あと、ディランは、歌い方やアレンジをころころ変えていて……一九七四年のザ・バンドとのライブ盤、『偉大なる復活』の『ライク・ア・ローリング・ストーン』は、ものすごく興奮します。『風に吹かれて』も、もちろん最高ですよ。

 やっぱりライブ盤は、独特の迫力や生々しさがありますし、それに呼応する観客の声もあって曲が成り立っているのだなあと改めて思います。

 あああ、すいません。語りすぎてしまいました……」


 気づいたら、話が長すぎる上に、早口になっていた。話に夢中になって、自分を客観視できていなかった。

 彼女は興味深そうに聴いてくれていたが、どこまで話に付いてこられただろう。呆れていないだろうか。やはり音楽の話は、避けた方が無難な気がする。


「いえいえ、なんか予想通りというか。色々ご存知でとても勉強になります! ディランへの愛情が伝わってきて、私も嬉しいです。それと、先生は、うちの父と話が合いそうです。私のジョン好きも父譲りなんですよ。亡くなってるんですけどね」


 カルテを読んで、身寄りのないことは知っていた。なんて返答したらよいか考えていたとき、ドアをノックする音が聞こえた。


「失礼しまーす。なんか、話めっちゃ盛り上がってるじゃん。ずるいぞ。あ、看護師の坂本です。昨日も挨拶に伺った」


 坂本さんだ。

 彼の登場で明らかに室内の空気は変わった。赤と青の絵の具で混ざっていたものが、黄色も加わったように、鮮やかでなくなった。


「あ、坂本さん。今、三浦先生と音楽の話をしていたんですよ」


「ああ、ああ。音楽ねえ。あの本にも音楽の話が書いてあったもんね」


「あの本って……?」


 上野さんが前のめりになる。嫌な展開だ。どくどくと、脈が速くなるのを感じる。


「三浦くんって、エッセイ本を出版してるんですよ」


「え? 読みたい! 私、買いますから、タイトル教えてもらえませんか? あ、それからペンネームも!」


「よければ、僕の貸しますよ。三浦くん、いいよね?」


 仕事場で僕の本のことを話題にしないよう口止めしていたのに、なんて軽薄な人間なんだ。坂本さんに教えなければよかった。彼の主催する飲み会で、酔った勢いで話してしまったのを深く後悔している。弱みを握られている気分だ。


「いやいや。あの、上野さん。ごめんなさい。あの本は、絶版になりましたし、もう誰にも見せないって決めてるんですよ」


 言葉を発する瞬間、めまいがした。患者さんの期待を裏切る行為はしたくない。こんな話もしたくなかった。


「不快にさせてしまって、ごめんなさい」


「ああ! 上野さん、悪いのは僕なんで……。三浦くんの許可がおりたら僕が貸しますんで。そのときはいつでも言ってください」


 坂本さんは苦笑いして、ばつが悪そうに病室を後にした。部屋は急に静かになった。


「本当にすいません」


「先生は謝らないでくださいよ。でも、いつか読みたいなあ。目の前にあったら、私絶対に読んじゃいますよ」


「まあ、そんなシチュエーションありませんから……。ところで、次回からのリハビリなんですけど」


「あっ、私、取り組んでみたいこと、見つかりました」


「はい?」


「私、詩を書きたいです。実は、ずっと前からやりたかったことなんです。エッセイで思い出しました。よかったら、教えてもらいませんか? あ、もしかして、これはリハビリとは言いませんか?」


 やや照れた調子で、話し始めた途端に、視線が僕から外れた。窓の外を見ているのだろう。車が一台、ゆっくりと通り過ぎる音が聞こえた。


 想像もしていない答えだった。これまで俳句や短歌を詠んだことがある。が、詩は書いたことがない。いや、厳密に言うとあるのだが、それは経験したものとして考えたくない。僕には環境を提供することはできても、教えられることなどできない。

 でも、彼女がやりたいことについて、勇気を出して話してくれた。実現させてあげたい。それが僕の仕事であり、役目なのだ。


「あの、本当に趣味レベルでエッセイを書いたことがあるだけなんで。ましてや詩なんて、僕にはとても教えられないですよ。それでもよければ、一緒にやっていきましょうか」


「やった! もしかして……先生も書くってことですか?」


「いやいや、書きませんけど。隣で俳句でも作ります」


 上野さんは、嬉しそうに目を細めた。光をいっぱいに吸った花のような笑顔で。


 仕事から帰宅すると、玄関には石鹸の香りがした。妻と二人の子どもが風呂に入っている。「ただいま」と言って、いつもすぐに料理を作り始めるのだが、今日は珍しく書斎に入った。

 本が溢れかえっている。本棚に収容できないものは、デスクや床に山積みになっている。積読になっている本は、僕の精神状態を投影しているようである。

 椅子に腰掛け、パソコンの電源を入れる。僕の斜め後ろには、何も置いていないギタースタンドがあり、パソコンの黒い画面に一瞬、それが映った。

 一年前、実家から昔使っていたアコースティックギターを持ってきた。が、演奏しようとすると息苦しさのようなものを感じた。目にするのも苦痛だった。その結果、すぐに実家の一人部屋の片隅に戻ってしまった。

 ギターと一生暮らすと思ったのは、もう昔のことだ。今ここに残っているのは後悔だけである。僕のエッセイは、そんな過去の後悔ばかりを書いたものだった。

 やはり上野さんには読ませられないな。

 本棚から抜き取って、頁を捲った。


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