白い春~君に贈る歌~

シロハル(Mitsuru・Hikari)

第1章 ホスピス 第1話(三浦蓮)


 青春ドラマが苦手である。テレビで目にしてしまったなら、すぐにリモコンの電源ボタンを押すほど拒絶してしまう。

 でもそれは、羨ましいからだと最近ようやく認められるようになった。僕には青春と呼べるほど、美しい時代がなかったのだ。


 愛する人と別れ、病を得て、夢に破れ……いつも憂鬱を抱えていた。振り返ると、後悔ばかりの人生を生きてきた。


 春が青くなかったら、何色になるのか。

 ぱっと思いつくのは、黒だ。

 暗黒時代。黒い世界。黒い春。

 何も見えない暗闇の中、呼吸することも苦しかった日々を形容するのに、黒はぴったりである。

 

 でも、そんな僕の黒が、本当は白いのではないかと思えるような出会いがあった。

 秋の白さにも似た、爽やかで、どこか哀愁のある白。


 これは僕の、白い春にまつわる物語である。


♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢


 三浦蓮さま


 外では桜が散っていると看護師さんから聞きました。

 この手紙を読む頃、きっと私は、もうこの世にいないでしょう。

 今となっては夢のような、温かい時間の記憶に包まれて、これを書いています。

 今頃一人で泣いているんじゃないかな。

 とても心配だよ。

 でも、泣かなくていいからね。

 人は必ずこの世を去るものだから。

 覚悟はしていたし、仲良くなってしまった分少し辛いけど、心はずっとそばにいるよ。

 だから、私のことを近くに感じながら、この手紙を読んでほしいな。


♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢


「先生」


「……あっ、はい」


 その声で、全身の細胞が一気に活性化した。患者が林檎のデッサンをしている。その隣で僕も絵を描いていたのに、いつの間にか鉛筆を握ったまま、眠ってしまっていた。手元のスケッチブックには斜めに線が入っている。


 ホスピス病棟。末期がんなど、死を間近にした患者が、穏やかに人生の終末を迎えられるように援助する場である。

 僕はここで、作業療法というリハビリを行っている。


「先生、大丈夫? 疲れてるんじゃない?」


 肺がんの山本さんは、画家だった。彼女は、油絵が描けないことに対する喪失感を抱えていた。

 そのため作業療法では、生活の質の向上や喪失感軽減を目的に、デッサンや水彩画を行っている。

 病棟で彼女の作品展を開催するために、看護師たちと準備を進めている状況である。


「いや、大丈夫ですよ。すみません」


「最近、顔色よくない気がするけど、本当に大丈夫なの?」


「ええ……まあ……」


 山本さんの貴重な時間とお金をいただいている。こんなんでよいわけがない。

 だが、調子が悪いことは事実だ。

 頸と肩が痛い。それに、精神科の通院を勝手に辞めてしまい、抗不安薬を切らしていた。手が僅かに震えている。夜は眠れずに、日中はいつも眠い。

 

「先生ちょっと休みとった方がいいんじゃない?」


「いや……本当に大丈夫です。すみませんでした。それより、山本さんも描きすぎで肩や手首を痛めないように気をつけてくださいね。さ、続きを描きましょう。あっ、ここ。ここはもう少しぼかしたほうが……」


 絵を描いた後は、床ずれができないように、身体にクッションを当てて姿勢を整えるのがいつもの流れである。

 自分で姿勢を変えることが難しい彼女を、少し右向きに調整していると、山本さんが天井を見上げながら、呟くように口を開いた。


「今の私にとって、先生と絵を描く時間が、一番楽しい時間。先生、いつもありがとうね」


 ああ、何をやっているんだろう。

 こんな自分でごめんなさい。

 涙が込み上げてきたため、すぐに別のことを考えた。


 病室を出て、廊下を歩く。正面から来た看護師に挨拶をするも、返事のないまま、足早に通り過ぎていった。

 窓の外は、枯れ枝が空を突き刺すように幾重も伸びている。

 十二月も後半に差し掛かっていた。


 作業療法士になって八年、この病院に来てから四年が経つ。

 ホスピス病棟のある前島病院を選んだのは、一人部署で人間関係の煩わしさから逃れたかったから。そして何より、死を前にした人に寄り添う仕事がしたかったからだ。

 僕自身、何度も自分の死を考えてきたし、大切な人の死をたくさん経験してきた。苦しむ人のそばにいることは、人生のモットーだと思っていた。

 だが、リハビリ業務は想像以上に書類仕事が多く、患者との信頼関係を築くことも、僕には難しかった。

 一番の問題は、過剰に感情移入してしまうことである。

 僕は他人と適切な距離をとることが苦手だ。過去にカウンセラーの先生とも、このことについて幾度も話し合ったことがある。共感しすぎて、他人の苦しみまで背負ってしまうのだ。

 患者の死への恐怖や人生の意味への問いといった、スピリチュアルペイン。すぐに訪れる、別れの日。いくら覚悟していても、毎回、立ち直れないほどの悲しみに襲われる。

 彼らの生や死を目の当たりにして、僕も人生の意味を問い続ける。


 本当に、このままでいいのだろうか。

 

 僕が僕でないような、日々が心と生活を引き離していくような、そんな感覚が付きまとう。自分らしく居られる場所を、いつも探し続けている。


 リハビリが一段落すると、ナースステーションでリハビリカルテを書く。この時間は、誰にも話しかけられたくない。間違いがないよう、何度も繰り返し確認するからだ。そんな僕の状況など、もちろん誰も知らない。いつものように、看護師の坂本さんが話しかけてきた。


「三浦くーん。最近、一〇三号室の河合さんがふらふらしててトイレまでの移動が心配なんだけど、見てもらっていい?」


「はい。わかりました。後で見てみます」


「河合さんって、リハではどんな感じなの?」


「本人の希望で平行棒内を歩いてますけど、以前に比べて脚の力が弱ってきましたね。歩き方もだいぶ不安定です。部屋も伝い歩きですもんね。確かに、かなり心配です」


「そういうのさ、なんでカンファレンスで言わないんだよ」


「すいません……」


 坂本さんは中学校の先輩であり、現在はホスピス病棟で唯一の男性看護師である。医療従事者として彼の方がだいぶ経験年数は長いが、僕によく話しかけてくれる。プライベートの話ができるのも彼一人である。

 独身で身軽なのか、頻繁に飲み会を催している。僕も誘われて参加したことがあるが、酒に弱いため、ついつい話しすぎて後悔したことがある。


「あ、そうだそうだ。昨日の患者さん、OTのオーダー出たから。これ、頼むな」


 OTとは、Occupational Therapy、つまり作業療法のことである。

 カルテから少しはみ出た紙を取り出して、僕に手渡す。リハビリの指示箋である。


「ああ……はい。ありがとうございます」


「嫌そうな顔じゃん。ありがとうなんて思ってねーだろ」


「いや、そんなことないですよ」


 図星だ。どうしてこうも表情に出てしまうのか。また一人、担当が増えるなんて気が重い。

 すると、坂本さんがにやにやしながら、こちらを見ている。


「むしろ、ラッキーでしょ。昨日、挨拶に行ったんだけどさ、結構きれいな人だったよ。やさしそうだし。俺も看護師として担当になりたかったなあ。今日も話しに行っちゃおうかなあ」


「患者ですよ? 何言ってるんですか……」


 彼のノリの軽さには呆れる一方、少し羨ましくもある。社交性が高く、みんなから愛される術を知っている。僕はあんな人にはなれない。

 ナースコールが鳴り、坂本さんは笑いながら去っていった。

 受け取った指示箋を見る。患者の名前は「上野紗良」というらしい。誕生日を見て、少し驚いた。僕よりも五歳若い、三十三歳の女性のようだ。どんな人だろう。すぐにカルテを捲った。


 上野紗良。三十三歳。甲状腺がん。

 脊椎に転位し、両脚は麻痺して動かない。腕は動くため、食事や書字は自力で可能だが、生活の多くに介助を必要とする。

 趣味はダンスと料理。現在は、どちらもできないため、リハビリでは気分転換になるような活動を依頼する、とのこと。


 初回のリハビリは、内容を説明して同意を得るだけでなく、心身機能を評価しなければならない。この時間が一番苦手である。

 河合さんの様子を見に行こうとしたが、彼は昼寝をしているところだった。上野さんも明日にしようか。嫌なことをできるだけ後回しにしようとする僕の悪い癖だ。

 深呼吸して、上野さんの病室に入った。




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