第3話 幽霊論2 見えることと見えないことについて

 外でオカルト話をしていると乱入して来る人が必ずいる。

 そのとき使われるお決まりの言葉がある。こういうものだ。

「幽霊なんか居るものか。その証拠に俺は見たことがない」

 こういう人物には、お前は世界中津々浦々を知っているほど見識が広いのかと問い返したい。

 そしてこういう人物は必ずこう続ける。

「見えないものは存在しない」

 言い切ってから、してやったりとドヤ顔をする。

 オカルト話をするような輩より俺の方が遥かに頭が良いのだと、言葉にしないが表情に出ている。

 そういうときの返答はいつもこれにしている。

「あなたは電波が見えるのですか?

 電波は見えないですよね?

 だとしたら電波は存在しないということになりますが?」

 その後にさらにこう続けるつもりだ。

「電波がないのにテレビが映るのはテレビの中に小人さんたちが棲んでいて絵を描いてくれていると主張するということですか?」

 でもここまで言う前に相手は自分の耳を塞いでしまう。

「やだい、やだい。幽霊なんかいないんだ。それは科学的じゃない」

 ふん、と鼻息荒く噴き出す。

「かがくてきじゃない」


 まったく呆れかえったものだ。こういう人たちが科学について何を知っているのか?

 普段周囲からあいつは馬鹿だ馬鹿だと言われた鬱憤を、オカルト話をしている人たちをそんな話をするのは低知能の所以だと責めることで自分の自尊心を満たしている。

 要はそういうことである。



 さて、ここでは幽霊がなぜ見えないのかということを論じよう。そのためには幽霊が見えるケースを考えるのが手っ取り早い。


 幽霊が見えるプロセスは三種類に大別される。


 一番目は幽霊が実体化している場合。

 この場合は誰にも見えるし、写真にも写る。

 競艇のレース中に出現した幽霊艇が優勝してしまい大騒ぎになったなどの話がある。

 残念ながらどこの話だったか記録を取っていないので詳細は書けない。私は名前など細かいことは覚えない。どんな事件があったかだけを記憶する。

 このケースではお客だけではなくレースの評価員も見ているし、勝敗判定用のカメラにまで写ってしまうのだから、幽霊にしても力が入っている。

 この種の実体化には周囲に水が存在することが必須のようである。


 二番目は幽霊は見えない色をしている場合。

 我々の先祖は紫色を処理する脳の部分が存在していなかったことが判明している。つまり紫色の物体があった場合は、それは視えなかったのである。

 人間の脳は便利なもので、見えない部分があると周囲の光景を繋げて知らんぷりをする。見えない部分があることに自分では気づけないのだ。例えば片目を閉じた場合、盲点(視神経が体の中に潜り込む部分でここだけは視力がない)が欠損視野として存在する。だが注意しないとそこに盲点があることには気づかない。連続した模様を盲点の背後においてはじめて違和感に気づくのだ。

 人間の目は三種類の色素を使用している。これが遺伝子の突然変異で四色素になった人がわずかながら存在する。彼らの目を通すと、ヒマワリの花には縞模様がついているという。彼らは別の色彩世界に生きているのだ。

 見える人、特に見える家系の人は遺伝子的に普通の人が見えない色を見ることができるのかもしれない。

 

 さらには色だけではなく「見えない質感」や「見えない形」というものも考えられる。

 幽霊論1で述べたが、人間の目は見た物を七つの特徴に分解する。この特徴は人間の脳の中に遺伝的に組み込まれているゲシュタルト鋳型から作られるので、その鋳型にない形は認識できないことになる。

 山岳修験者は修行が進むと、周囲に潜んでいる見えない動物が見えるようになるという。

 それはイタチに似た動物で生きている間は普通の人間の目には見えない。だが死ぬと誰にでも見えるようになるという。

 死んで毛皮の質感か色が変わって透明偽装ができなくなってしまったのではないかと思う。


 三番目はイメージだけが送り込まれる場合。

 我が家に出たタヌキなどが使う技だ。

 ちなみにオカルティストが言う「タヌキ」とは動物のタヌキではなく、人間の認識に何らかの手段で影響を与えることのできる存在のことを示す。

 往々にしてケモノに化けるのでバケモノという呼び名になったという説がある。

 タヌキの技の特徴は、見せられる映像が対象者が一度は見たことがあるものに限られるということだ。

 つまり外部から送り込まれたイメージに合わせて脳が自分の記憶から映像を再現しているのだ。これは幻視と呼ばれる心理現象の応用とも言える。

 幻視は目から入った対象の情報が別の名称にすり替わってしまう現象だ。

 例えば「木の葉」が「人の手」にすり替わる。するとその人は人間の手が鈴なりになった木を見ることになる。

 

 昭和の大奇人にして生物の研究者南方熊楠老は霊視も幻視も持っている人であった。

 彼は幽霊と幻視の見分け方というものを著書に残している。

 まず幽霊の前に座り、その目を覗き込む。続いて後ろに倒れて仰向けになる。

 このとき、元の位置にいたままになるのが幻視。上から覗き返して来るのが幽霊。

 どえら凄まじい根性である。

 

 心霊スポットに行った四人組が恐ろしいものを見たという話を読んだことがある。

 一人が見たのは巨大な手が手招きする姿。もう一人が見たのは無数の手が壁から生えている姿。結局四人ともそれぞれ別のものを見ている。

 共通しているのは「恐ろしい白い手を見た」ということだけ。

 つまりその心霊スポットは直接人間の「行」作用を行う脳の部位に言葉を送り込んできているということになる。

 幽霊目撃例のかなりの部分がこの方式で行われているとすれば、証言がしばしば矛盾するのも不思議はないと言える。

 実は人間の脳に直接言葉や映像を送り込む実験は最近よく行われている研究である。つまりかなりの確率で可能なのである。人間の脳には元より視聴覚以外の外部からの信号を受ける機能があるということだ。


 これらすべてを同じものとして扱ったりするから、様ざまに矛盾が生じてしまう。現象というものは正しく見て正しく考え正しく結論を出さないといけない。


 興味深いのはウチに出たタヌキが行った自分の姿を隠す幻術である。

 隠形術。

 自分がいる位置に、「何も存在しない」という幻影を重ねる技である。

 いつの日にかこういった術を私も習ってみたいものである。

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