昨日
陽が真南に到達した頃。風越さんが指定していたバス停へと到着した。
雨風をかろうじて凌げる小屋のような感じで、屋根の下には年季の入ったベンチがあった。壁には、色褪せた広告用のポスターが掲示してある。周りにはこれと言って何があるわけでもなく、林と、畦道のような道路があるだけだった。後ろを振り向けば、田園の風景が広がる。その奥に、ぼくの通うキャンパスが見えた。そんな場所にぼくを呼び出した張本人は、微笑みながら、ベンチに座り、ぼくの方を見ていた。
「来てくれたのね」風越さんは、自分の隣のスペースを指して、「どうぞ座って」
「……ありがとうございます……」ぼくは腰を下ろしつつ、そう言った。
怖い。はっきり言って、これから何をされるのかがわからず、怖かった。今すぐにでも逃げ出せるものならば、そうしたかった。しかし、風越さんは、そんなぼくの気持ちを感じ取ることもなく、その身体をぼくの方へと向けてきた。いや、ぼくの気持ちを理解した上で、かもしれない。ぼくは、彼女のペースに巻き込まれてしまっている。
「そ、それで」ぼくは口を開いた。耐えられなかった。何か行動を起こさなければ、死んでしまう様な気がした。「なにか、あるんでしょう? な、何某かの用事が。ぼくに対して」
「ええ」と、風越さんは答える。「少し、手伝って欲しいの。簡単な仕事だから、頼まれてくれるわよね?」
「……」二つ返事で受け入れるわけにはいかない。ぼくは、風越さんに訊いてみることにした。「それって、どんな仕事なんです?」
「さっきも言ったけど、とても簡単な仕事。ここから、何キロか離れた辺鄙な駅にコインロッカーがあるから、そこから、リュックサックを持ってくればいい」
「それだけ?」
風越さんは、うん、と答えた。「それだけ。けれど、歩きで行くとなると、少しきついかな。車とかバイクとか乗れる? かなり遅い時間帯になっちゃうかもしれないから」
「い、一応は」
「なら決まり」
え、と思わず漏らしてしまった。風越さんが、どうかした、と声をかけてくる。いきなり、自分の意思を顧みることなく、強引に話が進められれば、こうもなる。ぼくは、言った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。ぼくは、やる、って言ってませんよ。それに、何が入っているのかも知れないリュックを持って来い、とか……やりたくもありません」ぼくは立ちあがろうとした。しかし、ぼくの右腕が風越さんに捕まれ、引き止められる。
「待って」
ぼくは、振り返った。風越さんが、真剣な表情でぼくを見ていた。
「少しだけでも、話を聞いて」
は? と、ぼくは漏らす。それを気にすることなく、彼女は続ける。
「私に、妹がいる、っていう話はしたっけ」
ぼくは首を横に振る。「いいや」
「その妹が、誘拐されたの」
「え」混乱する。話が急すぎる。訳のわからないお使いの話の次は、誘拐された妹の話ときたのであるから。突拍子がなさすぎて、話の筋を掴みかねる。それ故か、ぼくは、当たり障りのない様な質問しかできなかった。逃げる、という選択肢を忘れてしまっていたのだ。「その、妹さんはご無事なんですか」
「ええ……今のところは、けれど、いつ──」風越さんの声は震えていた。先ほどまでのあっけらあかんとしていた姿が嘘の様であった。それほどまでに、衝撃的であったのであろう。それとも……、とぼくは思う。ぼくには、風越さんに、一旦落ち着いてください、と声をかけることしかできなかった。
「それで」と、ぼくは訊く。「警察とかに、相談したんですか?」
「ううん」と、彼女は、首を横に振った。「犯人が、お前の行動は常に監視している、って」
「それじゃ、今のこの状況ってかなりまずいのでは」
彼女がこくりと頷く。
「だから、手短に話を済ませたいの」風越さんの視線と、ぼくの視線が重なる。ぼくは、はい、と言ってしまった。内心で、自分のことを罵る声が響く。なんていうヘマをしでかしてくれたのだ、と。
「それで」ぼくは、彼女に尋ねる。「一体、どういうことなんです」
風越さんは、深呼吸をしていた。大きく息を吐き、吸って、再び吐く。しばらくして、彼女は口を開いた、
「……犯人から、連絡があったの。つい昨日のこと。妹を取り戻したいのなら、リュックサックをとって来いって」
ぼくは、頷きながら話を聞く。内心では、今すぐにでもこの場を離れたい、と思いながらも。
「それで、もちろん私はそれを引き受けた。けれど、自分一人じゃ、どうにもできない、って、ふと思って、その時に、君が声をかけてくれた。その時に思ったんだ。君なら、私のことを助けてくれるって」
ぼくは、とんでもない地雷を踏み当ててしまった、と後悔した──いや、ここにきた時からずっとそう思っていた。
「だから」と、彼女が身を寄せてくる。息遣いが聞こえるほどに近い。怖い。帰りたい。助けて、と心の中で叫ぶ。「私のお願い、引き受けてくれるよね」
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