友達の家
光が死んだ。
朝学校に行くと、学校中の噂になっていた。その噂を私に教えてくれる友達はもはや誰もいないけれど、それでも耳に入ってくるくらい、あちこちで噂していた。
その噂と、朝のニュースの報道が結びついた。昨夜、近くで強盗放火事件があったと報道していたけれど、どうやらその被害に遭ったのが光の家らしい。
少女と思われる遺体には目立った外傷はないものの、一番酷く焼けていることから、少女は生きたまま焼かれ、そこから火が家中に広がったと推測されていた。なお、両親は同じく付近で縛られたまま焼死体として発見されたらしい。
もはや光のことを友達だとは思っていないものの、流石に気の毒だと同情を禁じ得なかった。
そのニュースのインパクトが強すぎて、きっとみんな私を虐めることをすっかり忘れていたんだろう。ただ、空気のように扱われるだけの、何もない穏やかな日々だった。
そんな衝撃的な噂も報道も、1週間もすれば落ち着いてきた。
美佳が退院して学校に復帰してきたのは、そんな頃だった。
「葵さん、おはよう」
朝の教室に美佳がやってきた。
相変わらず遠慮がちで、弱々しい声だったのに、どうしてだか教室中が静まり返った。
どうやらみんな美佳に注目をしている様だった。そんなに別のクラスの生徒が珍しいだろうか。それとも、あまりに可憐な容姿に視線を釘付けにされているんだろうか。
「おはよう、美佳さん」
私が挨拶を返すと、なんだか周囲でヒソヒソと声が聞こえる。
もしかして、成り上がり者の私と親しく挨拶をする美佳の存在がそんなにもおかしいんだろうか。あるいは妾の子と成り上がり者、疎まれているハズレもの同士がくっついていてお似合いだとでも思われているんだろうか。
「外に出よう」
教室は居心地が悪い。
「どこに行くの?」
「どこが良いかな?」
行くあてなんてなかった。
「保健室行く?」
美佳が意外なところを提案してくれた。
「保健室?」
どうして保健室?保健室と言えば体調が悪い時に行くところだと思っていた。
「保健室で何するの?」
「葵さんとお話ししたい」
それならもっと適当な場所があるんじゃないだろうかと思ったけれど、美佳がそう言うならとりあえず行くだけ行ってみようと思った。先生に追い返されるかもしれないけれど。
不意に美佳が私の手をとって握ってきた。
「だ、ダメ……?」
不安そうに見つめる美佳だけれど、手は繋いだままだった。
「ダメじゃないよ」
手を握り返すと、美佳は安心したように顔を綻ばせる。
手を繋いで廊下を歩く私たちの姿がそんなに珍しいのか、好奇の視線が注がれる。
でも気にしているのは私だけなんだろう。美佳はご機嫌な笑顔で歩いていた。
「美佳さんは楽しそうだね」
「うん。だってこんな友達みたいなことしてみたかったから」
そう言ってから、美佳はハッと気づいたように慌てた表情をする。
「ち、違った!葵さんはもう友達だから」
なんだか言い訳でもしているみたい。
「友達だね」
そう言うと美佳は嬉しそうに笑う。美佳のお父さんが言っていた通り、今まで友達がいたことがないんだろうか。
「先生、来たよ!」
美佳は明るくドアを開けて声をかける。
「いらっしゃい」
そう言って出迎える先生の様子から、美佳がここの常連だとすぐにわかった。
「あら、今日は一人じゃないんだ」
先生は私に目を向ける。
「うん。葵さん。友達だよ!」
美佳は嬉しそうに、大切なものを見せびらかすかのように、私を紹介してくれる。
「そっか……。友達ができてよかったね」
先生は笑顔を作ってそう言うけれど、一瞬ちらりと可哀想な子を見るような表情が見えた。
それにしても……。
違和感を感じる。それは先生の距離だ。どうにも私たちと距離をとっている気がする。まるで病気を移されないように警戒しているかのような距離感だ。
「美佳さんはよく保健室に来るの?」
「うん。毎日来てる」
「毎日?」
驚いた。毎日保健室に来るようなことって何だろう?もしかして何か持病とかがあるんだろうか。
「いつでも来て良いんだよ」
先生はそう言った。でも毎日ってどう言うこと?
「教室に居たくないなって思ったら、ここに来て良いんだよ」
先生は私の方を見てそう言った。
もしかして先生は私の事情を知っているんだろうか。
「葵さん、こっち」
先生との挨拶もそこそこに、美佳が急かすように手を引く。
美佳がカーテンで仕切られた一角を開くと、教室にあるような机と椅子が一人分置かれていた。
「ここだよ」
そう言って美佳は椅子に腰掛ける。
「葵さんも座って」
美佳は半分だけ横にずれて座り、私にスペースを空けてくれている。
いくら美佳が小柄だと言っても、一つの椅子に二人で並んで座るのは無理がある。
そう思いながらも、美佳の隣にぴたりと体をくっつけて座る。
「狭いね」
そう言って笑っていた。
それにしても、このスペースはなんだろう?保健室に机と椅子が置いてあるなんて思わなかった。しかもわざわざカーテンで仕切りまでされている。
「葵さんもここで授業を受けていく?」
先生の意外な言葉に驚いた。
「ここで、ですか?」
授業は須く教室で受けるものと思っていた。そうでないと出席したことにならないと。
それに、葵さんもってなんだ?美佳はここで授業を受けているんだろうか。そんなこと許されるんだろうか?
「私は何も教えてあげられないから、自習するだけだけどね」
状況が分からず、美佳に目を向ける。
美佳は口にはしないけれど、一緒にここに居ようって目で私を見つめていた。
この机と椅子は美佳の指定席ということか。だとすると、美佳は結構な頻度で教室ではなく、ここで授業中を過ごしているんだろう。
私も教室にいるよりかは、こうして美佳と並んで座っていたい。
「でも、教科書……」
そう言いかけて思い出した。私の教科書は破り捨てられてないんだった。
「私の一緒に見よう」
美佳は私を引き留めるかのように言う。
「そうだね」
私は美佳の誘いに頷いていた。
「じゃあ葵さんの机も必要だね」
先生はあっさりとそう言ってくれたけれど、本当にこのまま教室に戻らなくて良いんだろうかと心配になる。
「担任の先生には私から言っておくね」
先生はそう言うと、どこからか私の分の机と椅子を保健室に運び込んでくれた。
「ここに置いておくから」
先生は机を入り口近くに置く。どうせ保健室まで持ってきてくれたのなら、美佳の机の隣に並べてくれたって良いのに。やっぱり私たちに近づかないでおこうとしているようだった。
「これで美佳さんも安心だね」
と先生が言う。
「どうして?」
不思議そうに聞き返す美佳。
「だって葵さんは学年で断トツだから、分からないところ教えてもらえるよ」
「そうなの?」
美佳は驚いた様な目で私を見る。
「一応、成績は廊下に張り出されてたんだけどな」
張り出されるのは成績上位者だけだけれど。美佳は見てないのか。
「だって、どうせ私の名前書いてないし」
そう諦めきっているだけあって、美佳はあまり勉強のできる子ではないんだろう。
「美佳さんはいつもここで勉強してるの?」
「そうだよ」
「毎日?」
「うん」
「教室は行かないの?」
「うん」
美佳は私の質問に頷くだけで、それ以上を語ろうとはしなかった。
妾の子なんて言われている事を気にしていない様に見えていたけれど、やっぱり居心地の悪さを感じていたんだろうか。
「じゃあ私もそうしようかな」
無理して教室に行かなくても良いんだと思うと、心がすっと軽くなる気がした。
「じゃあ、葵さんの下駄箱も保健室の近くに移す?」
先生がそんな提案をしてくれる。
「そんなことできるんですか?」
「できるよ。そうすればすぐに保健室に来れるでしょう」
みんなと顔を合わせなくて済むなら、何の気兼ねもなく学校に来れる。
「一緒だね」
美佳が嬉しそうに言う。
何も煩わしい事を考えずに、ずっとこの子と一緒に保険室にいるだけなら、また学校も楽しくなりそう。
美佳は保健室登校に慣れているせいか、自習用に先生が課題を用意してくれているらしい。
ただ、どうにもそれが中学生用には見えない。
もしかして、美佳が教室に馴染めない理由の一つは授業についていけていなかったからなんだろうか。それとも、保健室登校しているからついていけていないんだろうか。
美佳はただじっと教科書を見つめている。
勉強なんて、自分に合った参考書を見つけて読み解けば十分に理解できるし、授業のペースなんてあまりにも冗長で遅いと不満を感じていた私には、保健室での自習はそういう意味でも良い環境だと思ったのだけれど。
「分からないところがあったの?」
教科書を見つめたまま微動だにしない美佳を放っておけなかった。
「こんなの分かるわけないよぉ」
美佳は泣きそうな声で言う。
「先生だってちっとも教えてくれないし〜」
その声が聞こえたのか、保健の先生は気まずそうに顔を背けた。
うちの学校は偏差値が高い学校ではない。そもそも外部から受験して中学や高校から入ってくる子の枠が少ないから、必然的に希望者の方が多くて、結果的に偏差値は上がっているようだけれど。幼稚園で入り込んだら、大学までエスカレーターで上がっていけるから、わざわざ勉強を頑張ろうなんて子はほとんどいない。そのせいか、授業のレベルが高いなんて感じたことは一度もないんだけれど。
「葵さんこんなのわかるの?」
美佳は奇跡を目の当たりにしたかの様に目を丸くして驚く。
「勉強なんて、どうしてこうなるのかをちゃんと理解すれば難しくないよ」
「えぇ?」
美佳はこの上ないほどに不信感で満ちた目を私に向ける。「何言ってるの?そんな事あるわけないじゃない」って言っている顔だ。
「ちゃんと教えてあげるから」
「別にこんなのできなくても困らないよ」
美佳は不満げにいう。確かにできなくても大学卒業までは困らないと思う。
「頭のいい女は結婚できないってママが言ってたよ」
ダン!という音が響く。音の方に目を向けると先生が膝を机にぶつけたようだった。
「ごめんなさい」
と先生は謝る。
「ほら、美和先生だって結婚してないよ」
そう言って美佳は先生の方を指差す。
「ダメ!指ささないの!」
私は慌てて小声で美佳を注意して、手を押さえつける。
恐る恐る先生の方に目を向けると、先生は聞かなかった振りをしてくれていた。
「美和先生は28歳でしょ?20過ぎて子ども産んでないのは行き遅れだってママが言ってたよ」
思わず美佳の口を手で覆っていた。
無邪気さは罪深い。本人も目を背けたがっているであろう残酷な事実をわざわざ突きつけるのだから。
「私、まだ27歳だから!」
穏やかだった先生が少し語気を強めて訂正する。
「あの……なんかすみません」
能天気な事を口走った美佳に代わって謝る。
「なんで謝るの!」
それが帰って先生の神経を逆撫でてしまったみたい。
「美和先生は可愛いのになんでか」
言いかけた美佳の口を強く塞ぐ。
「美佳さんのお母さんはすごくすごくすっごく結婚が早かったんだね」
そう言って話を逸らす。
美和先生が行き遅れているかどうかはさておき、20歳で結婚どころか子どもを産むのは早い。
「何歳の時に結婚したの?」
「結婚はしてないよ」
また美佳の複雑な家庭事情が垣間見えた。
私のところとは随分と状況が違う。
美佳がまた美和先生の話題を持ち出さないように、今度は私の話をする。
「私のお母さんは34歳の時に結婚して、35歳で私を産んでくれたんだよ」
すると美佳は不思議そうに聞く。
「それって普通なの?」
私が答えるよりも先に先生が口を開いた。
「今の日本では高学歴の女性ほど結婚が遅くなる傾向があるのよ。大学や大学院を出た女性の平均初婚年齢は29.4歳だったっていうデータが出てるの。だから、27歳で独身なのは普通で、別に結婚が遅いってわけじゃないの!」
捲し立てるような早口で説明してくれた。
「じゃあ、私のお母さんは普通より遅いんだ」
「別に平均より遅いことは何も問題じゃないのよ!だって葵さんのお母さんは葵さんのような素敵な女の子を産んで育ててくれたんでしょう?」
先生の言葉にはとても力がこもっていた。
「そうだね」
美佳は納得したように私を見て微笑む。
「分かればいいのよ!」
そう言って先生は息を一つ吐き出して、興奮を鎮める。
「おしゃべりばかりしてないで勉強もしなさい。いい、結婚な話なんてしちゃダメよ!学生の分際で20年早いのよ!色気づいちゃって!」
先生に怒られた。
「なんか今日の美和先生怖いね」
怖いねって私に言われても、普段の先生の様子を知らないのだけれど、きっと美佳が余計なことを言ったせいだと思う。
「ママが言ってた。いきおく」
言いかけた美佳の口を慌てて塞ぐ。きっと美佳のお母さんはろくなことを言っていないはずだ。
「美佳さん、ちゃんと勉強しようね」
にらみつけるような視線をよこす先生とは目を合わせないようにして、美佳の開いていた教科書を覗き込む。
「美佳さんはどこが分からないのかなぁ?」
「全部」
「そっかぁ、全部かぁ……」
どこが分からないのか分からなくなるくらい、ずいぶん前に振り落とされてしまったんだろう。もしかして、小学生時代の教科書が必要じゃないだろうかとさえ思えてきた。
どんな子でも一応大学まで卒業できるから美佳をこの学校にねじ込んだ両親の判断は正解だったのかもしれない。
「一緒に頑張ろう」
そういうと美佳は「うん」と素直に頷いた。
美佳と二人だけの時間は楽しい。もう教室に戻れなくても構わない。
一日が過ぎるのはとても早かった。こんなに早いと思ったことはなかった。
「もう授業も終わったんだから、そろそろ帰ったら」
先生がそう言ってくれるまで気づかなかったくらい。
通常のクラスの授業は全て終わって、みんな下校や部活を始めている時間になっていた。
「まだ帰りたくないな」
美佳は私を引き留めるように、遠慮がちに言う。
「また明日もあるじゃない」
私だってまた明日も朝から保健室に来ようと思っていた。
美佳は納得できないのか、黙って俯いてしまった。
「じゃあ一緒に帰る?」
そう言うと、美佳は嬉しそうに顔を上げる。
「いいの?」
「いいよ。友達だもんね」
「うん」
帰るのを渋っていたのに、一転して美佳はいそいそと帰る支度を始める。
「私の家来るの?」
一緒に帰るっていうのは途中までというつもりだったのだけれど、美佳は家まで一緒に帰るつもりだったんだろうか。
別に拒む理由もなかった。むしろ、美佳の家庭環境に興味があるくらいだ。行けば何かわかるかもしれない。
「じゃあ、おじゃましちゃおうかな」
美佳は喜んで私の手を取る。
「早く行こう」
待ちきれない子どもみたいに私の手を引いて歩き出す。
そんなに喜んでくれると、私まで嬉しくなる。
美佳の家のマンション前に立つと、思わず上を見上げて驚嘆の息を漏らした。白とグレーの石造りの外壁が落ち着いた高級感を漂わせていて、その広々とした敷地と、玄関前の手入れの行き届いた花壇には季節の花が咲き誇っている。駅の目の前に佇むこの建物には静けさと気品があり、圧倒されるような感覚を覚えた。
ガラス張りの自動ドアをくぐると、そこには天井が高く広々としたエントランスホールが広がっていた。大理石の床が輝き、控えめに配置された観葉植物が、落ち着いた空気感を作り出している。ふと足元に視線を落とすと、自分の姿が磨かれた床に映っているのを見て、思わず姿勢を正してしまう。
エントランスホールにはコンシェルジュが常駐していて、制服姿のお姉さんが静かに挨拶をしてくれる。思わず緊張してしまう。軽く会釈を返しながら、美佳の後に続く。廊下の照明は柔らかい光を放ち、足音が吸収されるようなカーペットが敷かれていた。
エレベーターホールを通り過ぎて、隅にある階段へと向かった。てっきりエレベーターで上がるものだとばかり思っていたけれど、美佳は当然のように階段を登る。美佳が「ここだよ」と指差したのは、2階の角部屋だった。
てっきり最上階とかに住んでいるのかと思っていたのに、そこは堅実だった。
美佳はドアの鍵を開けて中に入る。
「おじゃまします」
と声をかけながら美佳に続いて中に入ると、ふわりと花の香りが迎えてくれた。次に視界に飛び込んできた玄関の広さに驚かされた。きっと私の部屋くらい広い。黒いタイルの床と白い壁、そして整然と並べられた靴棚が、全体的にモダンでシンプルなデザインを醸し出している。まるでホテルのように、隅々まで清掃が行き届いていて、生活感が感じられない。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
聞き慣れない言葉にはっと顔を上げると、私のお母さんくらいの年齢の、エプロンをした女性が笑顔で出迎えてくれた。
「ただいま」
美佳は当たり前のように声をかける。
「お…お邪魔します……」
誰だろう?そんな疑問を抱いたまま挨拶をする。美佳のお母さんじゃないはずだけれど……。
「私、こちらで家政婦をしております松島と申します」
そう言って丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれた。
「あ、あの、西野葵です。美佳さんと仲良くさせて頂いています。突然お邪魔してすみません」
慌てて頭を下げる。てっきり美佳のお母さんはお仕事中で、家には誰もいないと思っていたのに、想定外のお出迎えをされた。
松島さんは私の足元にスリッパを出してくれる。
「お嬢様がお客様をお連れになるなんて珍しいことですね」
言いながら松島さんは微笑む。
「うん。葵さんは友達だよ」
美佳も嬉しそうにそう言ってくれる。
「こっちだよ」
美佳は私の手を引いて、自分の部屋へと案内してくれる。
ドアを開けた瞬間、息を呑んだ。まるで絵本を開いた様な、典型的なお姫様の部屋が広がっていた。
目に飛び込んでくるのは、優美な天蓋付きのベッドだった。薄いレースのカーテンが天蓋から四方に垂れ、光を柔らかく拡散している。カーテンは淡いピンクとアイボリーの二重仕立てになっていて、室内にほんのりとした温かみを添えていた。ベッドカバーや枕も同系色で統一され、リボンやレースがあしらわれていて、少女らしい愛らしさが際立っている。枕元には、繊細な刺繍が施されたクッションが並べられ、かつて憧れたお姫様の部屋のようだ。
ベッドの向かいには、小さな丸いテーブルが置かれている。アンティーク調のデザインで、木目が柔らかく、脚には細かな装飾が施されていた。テーブルの上には、小さな花瓶が置かれている。小さなカスミソウがひと束、控えめに部屋の雰囲気を彩っている。
部屋の奥にある窓からは、敷地内の緑が一望でき、カーテンはレースと厚手の二重になっている。窓辺には小さな椅子があり、クッションが添えられていて、そこに座ると外の景色を眺めながら読書や日記を書くのにぴったりの雰囲気だ。
壁紙は淡いクリーム色で、目立たない程度の花模様が施されているが、どこかヴィンテージ調で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
美佳の机もまた、アンティーク風のデザインで、脚に施された彫刻が目を引く。机の上は、綺麗に片付いている。というよりも、もしかしたら使っていないのかもしれない。
「素敵な部屋だね」
いや、素敵の一言じゃとても足りないのだけれど。どうしたらこんな夢みたいな部屋に住めるんだろう。
「ありがとう」
そもそもベッドが大きい。きっとこのベッドだけで私の部屋を埋め尽くしそうな大きさだ。
「私もここに住みたい」
思わず呟いていた。
「本当?葵さんも一緒に住む?」
どうやら美佳は私の言葉を真に受けたらしい。こんな部屋に住みたいと思ったのは事実だけれど、美佳と一緒に住むというのは非現実的な話だ。
「大人になったらね」
そう言って、やんわりはぐらかしたつもりだったけれど。
「本当?本当に?約束してくれる?」
美佳は嬉しそうに何度も聞き返してくれる。目を輝かせて、必ずその日が来ると信じて疑わない美佳の希望を裏切るのは、私の心がつらい。
「うん。約束だよ」
大人になるのなんて何年も先で、遠い遠い未来の事のように感じられて、大人になった自分は少しも想像できないけれど。そんな、いつやってくるかわからない遠い未来の約束。それを口から出任せと言うのかもしれない。
ドアがノックされ、松島さんがお茶を運んできてくれた。初めて見る三段プレートにケーキとスコーンと大福とサンドイッチがたくさん並んでいる。ティーポットに紅茶と、急須に日本茶を入れてくれているみたい。
「申し訳ありません。急なものだったから、準備ができていなくて」
松島さんはそういうけれど、我が家では考えられない十分すぎるおもてなしだ。準備されていたらいったい何が起こるんだろう。
「ありがとうございます。私こそ急にお邪魔して申し訳ありません」
松島さんはテーブルの上の花瓶を除けると、テーブルを拭き、ティーセットを並べてくれる。
まるで優雅なカフェに間違って入ってしまったかの様な錯覚を覚える。
「こちらへどうぞ」
松島さんは椅子を引いて座らせてくれる。
松島さんは終始、優しい笑顔を浮かべている。少し控えめな物腰だが、その目元には長年の経験からくる落ち着きと優しさがにじみ出ていた。
「み、美佳さん……。これってどこから食べて良いの?」
私は慣れない待遇で緊張しきっていた。噂によるとこの三段プレートには食べる順番があるらしいけれど、そんなものとは縁がないと思って気にしたことがなかった。
「どこからってどういうこと?」
美佳は私の質問の意味を理解していないらしい。不思議な顔をしながら、一番下のプレートのサンドイッチに手を伸ばしていた。
私も真似をしてサンドイッチに手を伸ばす。
「下の段のサンドイッチやスコーンなど、少し塩味のある軽食から召し上がって頂いて、次に中段のお菓子を、そして最後に、一番上の段に並んでいるケーキやタルトで、甘いものをゆっくり楽しんで締めくると、塩味から甘味へと味のバランスが整って、美味しくいただけるんですよ」
と松島さんがお茶を注ぎながら説明してくれる。
優雅にティータイムに馴染む美佳を見ていると、育ちの違いというものを嫌でも感じさせられる。成り上がり者って馬鹿にされたのが少しだけ分かるような気がした。みんなはこれが普通なんだろうか。
「スコーンはお代わりも用意していますから」
そう言ってくれるけれど、二人でこれだけ食べたらお夕飯が入らなくなりそう。
手に取ったスコーンは焼きたてのような暖かさだった。
松島さんは、早速美佳が空にしたティーカップにお茶を注ぐ。
うちの家も裕福な方だと勘違いしていたけれど、どれほどの収入があれば松島さんみたいな家政婦さんを雇えるんだろうか。
「ごゆっくりなさってくださいね」
そう言って松島さんは静かに部屋を出た。
「美佳さんのお家ってすごいね!」
「何が?」
美佳はキョトンとした顔で首を傾げる。この子にとってはこれが普通なんだろう。
「うちに電話するね」
今日は晩御飯が食べられそうにない。だから、お母さんにそう連絡するだけのつもりだった。
「うちに泊まっていくの?」
美佳は目を輝かせ、身を乗り出して聞いてくる。
「そういうつもりじゃなかったんだけど……」
言い終わらないうちに、みるみる美佳の表情が暗くなっていく。
「急にお泊まりしたらお家の人に迷惑だし」
と当たり障りのないことを言って美佳を納得させようとする。
「どうせママは帰ってこないから平気だよ」
そう言った美佳の表情はちっとも平気そうじゃなかった。寂しいっていう叫びが今にも聞こえてきそうに感じられた。
そんな顔をされると、もう少しだけ一緒にいてあげたい気持ちが沸き起こってくる。
「じゃあ、電話して聞いてみるね」
お母さんは少し渋った様子だったけれど、許してくれた。
「お泊まりしても良いって」
そう言ったら美佳はとても喜んでくれた。喜びのあまり、思わず抱きついてきた。
「ご、ごめんなさい」
ふと我に返ったように、美佳はパッと離れる。
「松島さん、松島さん!今日葵がお泊まりしていくんだって!」
美佳はそう叫びながら、嬉しそうに部屋を駆け出していった。
そうだった。松島さんにもご挨拶しておかないと。
「良かったですね」
松島さんは目を細めて、本当に嬉しそうな顔で、抱きついている美佳の頭を撫でていた。
なんだか美佳の本当のお母さんのように思えた。
「あの、急にすみません。お世話になります」
「良いんですよ。お嬢様がお喜びになりますから、いつでもお越しくださいね」
そう言って微笑んでくれる。
「じゃあ、葵さんのお着替えを用意しませんとね」
そう言って、松島さんは何から何まで用意してくれる。まるで旅館の女将さんみたい。
「美佳さんのお母さんはいつも帰りが遅いの?」
「分からない。いつも私が寝ている時に帰ってくるから」
「そっか。お仕事忙しいんだね」
私のお母さんもお仕事が忙しくて帰ってくるのが遅くなることもあるけれど、そこまで遅くなることは滅多にない。
「別にお仕事してるわけじゃないよ」
「えっ?お仕事で遅くなってるんじゃないの?」
「彼女のところに行ってるんだよ」
私は言葉を失った。美佳がこんなに寂しい思いをしているのに、どうして側にいてあげないんだろう。そんなに彼女のことが大事なんだろうか。彼女も彼氏もできたことがない私には、少しも理解できない。
「それって、病院に居た人?」
「知らない」
美佳は興味なさそうに、そっけない声で答えた。
美佳にとってはこんなことも当たり前の日常の一部になっているんだろうか。
美佳に寂しそうな顔をさせる、まだ話したことのない美佳のお母さん腹立たしさを覚える。いや、何もお母さんだけの責任じゃない。
「美佳さんのお父さんは?」
思わず口にして、ハッと気づいた。そういえば入院していた時、お父さんとあまり会えないようなことを言っていた。
「パパは奥さんと一緒に住んでるよ」
美佳は当然のようにそう言った。奥さんって美佳のお母さんとは別の人なんだろうか?きっとそうなんだろう。お母さんに彼女がいて、一緒に病院に来ている時点で普通の夫婦の関係じゃないことは気づいていた。だから、お父さんには別に結婚している人がいて、その人と家庭を築いているんだろう。
「ごめんなさい」
うっかりとまずいことを聞いてしまった。
「どうして葵さんが謝るの?」
美佳は不思議そうにしていた。美佳は自分の環境が普通と違うことをどれだけ理解しているんだろうか。いや、もしかしたら、普通から外れているのは私の方かもしれない。だから私は学校で虐められているのだろうか。
そんな話をしていた時だった。
「ただいま」
玄関の方から声が聞こえた。
「お帰りなさいませ、奥様」
そうして出迎える松島さんの声も聞こえてきた。
奥様って、もしかして美佳のお母さんだろうか。
美佳の顔を見ると、嬉しそうに目を輝かせていた。
「ママおかえり!」
部屋から顔を覗かせて声を弾ませる美佳。
「今日は早いんだね」
私もご挨拶をしようと美佳の隣に立つ。
玄関から姿を見せた女性の第一印象は背が低いことだった。松島さんと並ぶと親子のようにさえ見える。ひょっとすると私よりも小柄かもしれない。そしてお母さんというよりもお姉さんの様に思えるほど若く見える。服装からも、繁華街ですれ違うお姉さんのような雰囲気を感じる。
「ただいま、美佳」
そう言って美佳に微笑みかける。
「美佳が女を連れ込んだって松島さんから聞いたから、顔を見に来たんだよ」
まるで私を値踏みするようにじっと視線を向けられる。あぁ、もしかして娘の彼氏に向ける父の厳しい視線ってこんな感じなんだろうか。
「奥様!こちらは美佳お嬢様のお友達です!」
嗜めるような松島さんの声。
「あぁ、友達、友達ね」
その間もジッと私を見つめていた。
「西野葵です。お邪魔しています」
そう挨拶したけれど、どうにも距離が遠い気がする。もう少し近づいて挨拶しても良さそうなのだけれど。
「可愛い子だねぇ」
美佳のお母さんはどこか嬉しそうだった。
「美佳が友達連れてくるなんて絶対ないと思ってたから安心したよ」
本当に心配していたらしく、ほっとした様子が窺える。
「美佳と一緒にいると大変だと思うけど、仲良くしてあげてね」
大変ってなんだろう?勉強ができないことだろうか?迂闊なことを口にして人の神経を逆撫ですることだろうか?
「大変なんてことないですよ。美佳さんはとても優しいですよ」
「そっか、そっかぁ」
美佳のお母さんは嬉しそうだった。
「今日はお赤飯だねぇ」
きっと美佳は今まで家に連れてくる友達もいなかったんだろう。
美佳のお母さんが嬉しそうにしているのを見て、私の隣にいる美佳も嬉しそうだった。
不意に美佳が私の手を握る。
どうしたのだろうと思いながらも私も握り返した。
「奥様、今日はお赤飯のご用意はありませんが、ケーキを手配して御座いますよ」
「さすが松島さんだねぇ」
美佳のお母さんの上機嫌な様子が伝わってくる。
「あぁっ!あんたたち家の中で手なんか繋いじゃって何見せつけてくれてるのよ!」
冷やかされているのに、美佳は嬉しそうにいっそうぎゅっと手を握る。
「いちゃつきやがって!」
でも美佳のお母さんも嬉しそう。
「ママは今日はデートじゃなかったの?」
「デートなんて今日でなくてもいいから」
不思議な会話をしている。うちじゃ絶対に聞かない会話だ。それとも、母子家庭だとこれが普通なんだろうか?
「じゃあママも一緒にご飯食べる?」
美佳が嬉しそうに聞く。もしかして、美佳はお母さんと一緒にご飯を食べることはあまりないのだろうか。だとすると、親子水入らずの場に私は邪魔じゃないだろうか。
「そのつもりだよ」
「やったぁ!」
美佳は無邪気に飛び跳ねた。
「葵さんも遠慮なさらないでくださいね」
私の心のうちを察したように松島さんが声をかけてくれる。
そうして食卓を囲むと、さっきから感じていた違和感がはっきりと目に見えた。
横長のテーブルの、長手側で美佳とお母さんは向かい合うように座った。二人にとってはそれが当たり前なんだろうけれど、違和感しかない。どうしてわざわざこんなに距離を取るんだろう。
美和先生の時にも感じたけれど、美佳のお母さんもそうだ。もしかして、美佳を避けているんだろうか。
「こちらへどうぞ」
訝しく思っている私に松島さんが椅子を勧めてくれる。
「葵ちゃんは彼氏とかいるの?」
美佳のお母さんから突然そんな質問をぶつけられて驚いた。
そして美佳も興味深そうに私に顔を向けている。
「彼氏なんてまだ早いですよ。まだ中学生ですし」
早い子は小学生の頃に初彼氏ができたなんて話も噂では聞くけれど、私には全く縁のない話だった。
「えぇ……そうかなぁ……」
美佳のお母さんは納得がいかない様子。だとすると、美佳のお母さんは中学生くらいの頃には当たり前のように彼氏がいたんだろうか。今の美佳のお母さんの服装や言動から想像すると、そうであったとしても不思議ではない感じがする。
「じゃあ彼女は?」
「彼女、ですか?」
これまた突飛な質問だった。
「ほら、女子校って女の子同士で付き合う子もいるんでしょ?」
確かにそんな噂も聞こえてくるけれど。
「私にはいませんよ」
「そっか、そっかぁ。じゃあ今フリーなんだね」
今も何も、生まれてからずっとフリーだけれど、美佳のお母さんのその発想は新鮮だった。
「じゃあ美佳はどう?」
どうってなんだろう?友達じゃなくて、彼女として付き合えってこと?
「美佳は私に似て可愛いじゃない?お勧めだよぉ」
あぁ、自分のことを可愛いって言ってしまう辺り、本当に似ている。
「美佳さんはお友達です」
付き合うとか、彼女とか、そういうのはよくわからない。
「そっか。友達か」
聞いていた美佳は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
でも美佳のお母さんはなんだか少しつまらなさそう。友達じゃダメなんだろうか。
「あまり恋愛とかよく分からなくて」
「もったいないなぁ。人生損してるよ」
そう言う美佳のお母さんは今も彼女がいて、確かに人生楽しんでいそう。美佳に寂しい思いをさせちゃってるくせに。そんな自覚がないんだろうか。もう少し美佳と一緒にいてあげればいいのに。
「私は恋人なんていりません。美佳さんと一緒にいられれば幸せです」
当てつけのように、ムキになって言ってしまった。
美佳のお母さんは目を丸くして驚いていた。
「そっか、そっかぁ」
美佳のお母さんは、なんだか満足そうな反応だった。美佳のお母さんを喜ばせるようなことを言ったつもりはないのだけれど。
「美佳。葵ちゃんのことは一生大事にするんだよ。離しちゃダメだよ」
「うん」って美佳は嬉しそうに頷く。
「中学生は純粋で眩しいなぁ」
美佳のお母さんも嬉しそうにそう言う。
「葵ちゃんは優しいなぁ」
「葵さんは優しいんだよ」
親子揃ってそんなことを口にする。なんだか本当に似た親子だと思う。もしかして、美佳も将来こんな風になっちゃうんだろうか?いや、それはダメだ。似ないでほしい。そんな姿はちっとも想像できないけれど。
「葵さんは勉強もすごいんだよ!一番なんだよ!」
美佳は自分のことのように誇らしげに言う。
「大したことじゃないですけれど」
「そっかぁ、葵ちゃんは勉強ができちゃうんだ」
親子揃って珍しいものでも見るような目を向けてくる。きっと美佳のお母さんも勉強が苦手な人なんだろう。
「美佳はできないもんね」
美佳のお母さんはそういうけれど、そんな決めつけはよくない。
「頑張ればできるようになりますよ」
私はそうやってきたんだから、美佳だって。
「葵ちゃん、」
美佳のお母さんは急に少しだけ真面目な声になる。
「頑張れば誰でも葵ちゃんと同じようにできるわけじゃないんだよ。やらないよりマシになるだけ。美佳は私に似ちゃったから」
美佳のお母さんは諦めたような言い方をする。
「でも、やってみなきゃ分からないじゃないですか」
私は少しばかりムキになっていた。対して美佳のお母さんは涼しい顔をしている。
「良いよ。気が済むまでやってみて。それでダメだったら、責任とってね」
「責任……ってなんですか?」
「美佳をお嫁さんにしてあげて」
真面目なことを言っていたと思ったら、急に冗談を言う。美佳のお母さんは何を考えているのか少しもわからない、雲をつかむような感じだ。
「私たち女の子同士ですよ?」
女の子同士で結婚なんて、考えたこともなかった。遠い異国の地ではそんなこともあるらしいと知ってはいたけれど。
「あぁ、葵ちゃんもお嫁さんになってみたかった?二人でウェディングドレス着るのも良いと思うよ」
本当に冗談を言っているのか本気で言っているのか分からない人だ。
「女の子は良いよぉ」
そう言えば、美佳のお母さんは彼氏じゃなくて彼女のいる人だったっけ。
「奥様、葵さんがお困りですよ」
松島さんが助け舟を出してくれる。
興奮していた美佳のお母さんがしゅんと静かになる様子を見ていると、松島さんがお母さんにしか見えなくなってくる。
「松島さんはいつからこちらにおられるんですか?」
ふと、聞いてみる。
「そうですねぇ。奥様がお嬢様を身ごもっておられたころからですから……」
14年ぐらいになるんだろうか。
「そうそう。初めての妊娠に出産に子育てと不安なことばっかりだったけど、松島さんがずっといてくれたから何とかやってこれたのよ」
そう言って、松島さんに向ける美佳のお母さんの目は心底信頼しきっている様子だった。
美佳のお父さんはどうしていたんだろう?そんな疑問がわいてきたけれど、口にはできなかった。
「まぁ、私は遊んでばっかりで、ほとんど美佳の世話は松島さんに任せっきりだったけどね」
どうせそんなことじゃないだろうかとうすうす感じていたけれど。それに、その生活スタイルは今も変わっていないようだ。
このお母さんはどうしてそんな言わなくてもいいことを言ってしまうんだろう。あぁ、うかつなことを口にしてしまうのは、美佳に似て仕方のないところなんだろうか。
なんだか、美佳がさみしそうな表情をしている。
「美佳さんは好きな人いないの?」
美佳に話題を向けてみる。
「葵さんが好き」
無邪気にそんな返事をしてくれた。
美佳のお母さんはニマニマとした笑顔で私をみる。
「葵さんは美佳のことどう思ってるの?」
どうしてこのお母さんはそんなに私と美佳をくっつけたがっているんだろう。
「もちろん好きですよ。大切なお友達です」
「葵さんはガードが硬いなぁ」
美佳のお母さんは、今まで会った誰のお母さんよりも、ちっともお母さんらしくない。
「葵ちゃんのママは何してる人?」
「うちの母は公務員です」
「公務員?あの役所にいる人?」
「そうですね。母は裁判所に勤めています」
「裁判所?あの有罪とか無罪とか言う人?」
言いながら、美佳のお母さんは机の上をパンパンと叩く。日本の法廷では、裁判官がバンバンと叩くガベルを用いることはないのだけれど、このお母さんが知っているはずもないか。
「そうです」
「うわ。すご……通りで葵ちゃんは真面目なわけだ」
私が真面目と言うより、美佳のお母さんの方が柔らかすぎるんだと思う。
「カッコいいよね。頭のいい人は尊敬する」
それほどでもないと思う。ただ、司法試験に合格して、その上位の人が裁判官になれるっていう、それだけのこと。単に努力とやる気の差だと思う。
「美佳さんのお母さんは何をされているんですか?」
「私?私は……」
美佳のお母さんは驚いたような顔をして、少し考え込むそぶりを見せた。
「専業主婦?」
美佳のお母さんは不安そうに松島さんに目を向ける。
私も思わず松島さんを見た。
松島さんがすっごく家事をしてくれているように見えたんだけれど、それ以外の主婦業ってなんだろう?美佳に寂しい思いをさせているくせに。
美佳もつられて松島さんを見ていた。
「奥様は山村家の子をなすという大任を果たされたではありませんか」
松島さんがそう言うところから察すると、本当に美佳のお母さんは無職なのかも知れない。それでもこんな生活ができるのは美佳のお父さんのおかげなんだろう。
「そうだよねぇ。私なんて男に股開くくらいしか脳がないからさぁ」
「奥様!」
松島さんが美佳のお母さんの言葉を遮る。
美佳のお母さんは私と美佳の顔を見比べながら、まずいという表情をしていた。
「じゃあ、葵ちゃんも将来はママみたいになるの?その、裁判官に」
「まだそこまでは決めてないですけれど、お母さんみたいにカッコいい人になりたいです」
「そっか、そっかぁ。美佳はママみたいになりたい?」
「ママ……みたいに……?」
美佳は困った顔をして助けを求めるように私を見る。
良かった。まだ美佳はお母さんに毒されていないらしい。たぶん、美佳のお母さんはダメな見本だと思う。けれど、迂闊な美佳でも、さすがにそれを本人の前で言うのはまずいと気づいたんだろう。
「良いなぁ。美佳はお母さんみたいにすっごい美人になれて」
その点は、嘘偽りなくうらやましい。美佳のお母さんは、とても中学生の子どもがいるように見えないばかりか、控えめに言っても超絶美人だ。
「でしょ?」
美佳のお母さんは嬉しそうだった。
「でも、顔がいいだけじゃ食べていけないからさ。葵ちゃん、美佳のことよろしくね」
そうか。美佳のお母さんがさっきから私と美佳をくっつけようとしていたのは、美佳の将来を心配してのことだったのか。
そんな話をしている間も美佳は終始ご機嫌だった。
「ねぇママ、明日も一緒にご飯食べれる?」
その無邪気で嬉しそうな声は、明日もこの時間が続くと信じて疑っていないようだった。
「あぁ〜……明日は無理かな」
そう言って美佳のお母さんは美佳から目を逸らす。
きっと美佳はその理由は聞かなくても分かったんだろう。静かに俯いた。
どうせ、美佳との時間よりも、彼女との時間を優先するつもりなんだろう。
美佳があまりに寂しそうな顔をして黙り込み、俯くものだから、咄嗟に美佳の手を握っていた。
美佳がぎゅっと手を握り返してくる。
「あんたたち、またいちゃついてるの?」
そう言ってへらへら笑うこの人が私は嫌いだ。
美佳と愉快な仲間たち @daidoji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。美佳と愉快な仲間たちの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます