妾の娘

「これだから身の程を弁えない成り上がり者は輪を乱すのよね」

 はじめ、その言葉が私に向けられているなんて思わなかった。

 たった一言で騒がしかった教室が静まり返る。そしてみんなの視線が私に集まっている気がした。

「どうしたの?」

 異様な雰囲気には気づいたけれど、まさか私に向けられているなんて思わない程度には鈍感だった。

 人間は生まれながらにみんな平等だって授業で習った、この国の憲法の精神を信じて疑っていなかった。

 それまで楽しく話していた歩とゆかりは、居心地が悪そうに俯いて黙り込んでいた。

 それは中学生になって最初の試験が終わった後の事だった。私は小学生の頃と同じ様に勉強を頑張っていた。私にとってテストで100点を取るのは難しい事ではなかった。中学生になって変わったことは、成績上位者の順位が発表されるようになったことだ。

 勉強をすればテストで一番を取ることはできる。でも誰でも一番をとって良いわけじゃない。

「恥知らずな成り上がり者のすることだから」

「常識を知らないんじゃない」

 私の耳に入るようにあからさまな声で話しているのが聞こえてくるうちに、それが私に向けられているものだと気づいた。

 その悪意の大きさに私は気づかなかった。「成り上がり者」なんて侮蔑されるのは気分のいいものではないけれど、それだけのことだと勘違いしていた。

 私よりも勉強して、私よりも良い成績をとれば良いだけなのに、私の足を引っ張ってまともな努力をしようともしない、つまらない人達だと思った。

 でもそれが間違いだった。私は勉強はできても、世の中のルールに従うことの出来ない社会不適合者だった。

「成り上がり者ってなんなの?」

 私がつぶやいた疑問を聞き逃さなかったのは光だった。

「みんなの家は百年以上も昔からあるんだよ。歴史を遡れば、その中に名前の登場する由緒ある家柄という後ろ盾があるでしょ。みんなの家が今もこの国を支えていて、みんなもこれからその一員になっていくんだよ。努力とかお勉強ができるとか、そんな小さいことで世の中がどうにかなるなんて勘違いをした輩が、戦後の勢いでポッと出た程度で勘違いして大きい顔しているんだから、身の程を教えてくれているんでしょう」

 光の言葉に私は何も言えなかった。今まで友達だと思っていたけれど、きっとそれが私に向けられた悪意であり、光が今まで胸に秘めていた思いだったんだろう。

「ほら、昔、調子に乗りすぎた実業家が逮捕されて刑務所でお灸を据えられたでしょ。知らなくて良いことを嗅ぎ回った記者が海に浮いていたでしょ。世の中のルールを守れないと生きていけないんだよ」

 光の言葉は脅しにさえ聞こえた。

 どうやら家柄によって序列が決まり、その序列に見合った成績でなければ許されないということなんだろう。

 私はそんな家柄なんて気にもしたことなかった。親の職業とか、先祖が何をしたとか、そんなこと気にしたこともなかった。親しくなった友達の家に遊びに行った時に、大きい家だと知り、両親と話した時に職業を知ることがあるだけだった。わざわざ自分から知ろうとは思わなかった。

 そんな私が非常識だったらしい。

「役人風情の娘がのさばっているなんていやね」

 私のお母さんは裁判官だった。頭の良い自慢のお母さんだった。そんな私の個人情報は学年中で周知の事実となっていた。こんなことを話題にして楽しいのだろうか。


「ごめん……もう話しかけないで」

 それだけ言うと逃げる様に歩が去っていった。

「学校じゃ人目につくから」

 そう言ってゆかりも私を避ける様になった。

 幼稚園から一緒だった私の親友は簡単にいなくなった。いや、私が親友だと思い込んでいただけなんだろう。

 他の友達だった子達もみんなしめし合わせた様に私と目を合わせなくなった。

 私と違って彼女たちは社会に適合しただけなのだろう。


 教科書が捨てられた。私が教室に戻ってくると、机の上に置いていた教科書を、歩が掴み上げるところだった。

「歩、どうしたの?」

 と声をかけようとしたら、歩はチラリと私に目を向けたかと思うと、直ぐに逸らした。

 そのままツカツカと教室の隅に向かって歩いて行った。ゴミ箱の前に立つと、大きく振りかぶって、叩き入れた。

「どうしてそんなことするの?」

 私の声が聞こえたのかどうかは分からない。歩は私の方には目もくれず、そのまま走って逃げた。

「歩さんはちゃんとゴミのお掃除ができて偉いわね」

 誰が言ったのか分からないけれど、そんなあからさまな声が聞こえた。クスクスと笑い声があちこちから聞こえる。

「いい気味」

 そんな風に言われている様だった。

 きっと歩は誰かにやらされたんだろう。そう思っていても、知らない誰かに捨てられるより心が痛んだ。

 私はしばらく呆然とゴミ箱の前で立ち尽くしていた。

「退いてくださる」

 そう言われたかと思うと、誰かがゴミ箱にゴミを投げ入れた。まだ中身の残っていたジュースらしい。私の教科書がオレンジ色に染まった。

「あら可愛いそう」

「葵さんは勉強のしすぎだもの。これで少しは休めるんじゃない」

 みんなの愉快そうな声が聞こえてくる。

 私が屈んでゴミ箱の中に手を入れて、教科書を拾い上げようとした時だった。頭の上に何かが降ってきた。埃かと思ったら、塵取りで集めたゴミだった。

「ダメよ、葵さんがまだゴミ箱に入ってないんだから、順番を守って差し上げないと」

 急に目の前が霞んだ。こんなところで泣いてしまったら、ますますみんなを喜ばせるだけだと思ったけれど、目を閉じた瞬間、ポロリと雫が溢れて頬を伝った。

 私は顔を伏せたまま、教室を飛び出していた。

 授業の始まりを告げるチャイムが耳に入った気がしたけれど、そんなことを気に止める余裕はなかった。俯いたまま走っていたけれど、廊下からは誰もいなくなったおかげで、何も邪魔するものはいないはずだった。

「きゃぁっ!」

 何かにぶつかった衝撃と共に、静まり返っていた廊下に悲鳴が響いた。誰かとぶつかったにしては痛くなかった。

 足元に目を向けると、女の子が尻餅をついていた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 その子は怯えた様子で私を見上げ、呪文を唱える様に謝り続けていた。

 目を疑うほどの美少女だった。

「ごめんなさい……大丈夫?」

 その子は発育が遅いのか中学生には見えないくらい小柄だった。どうりで私がぶつかっても痛くなかったわけだ。代わりにその子が被害を一身に受けていた。華奢な体が壊れてしまったんじゃないかと心配になるくらいだった。

 その子は私と目を合わせようとせず、こくりと頷いた。

 彼女はゆっくりと立ち上がると、小さな体の腰まで届くほどの長い髪を整えて、尻餅をついたスカートのお尻を払って身だしなみを整えた。

 話したことのない子だったけれど、知っていた。『妾の子』と揶揄される有名人だった。

 私は今まで泣いていたのを忘れるくらいに、その子に見入っていた。まるで人形に魂が宿って動き出したかの様に可憐な容姿をしていた。彼女が見目麗しいのは知っていたけれど、こうして間近で言葉を交わすのは初めてのことだった。

「怪我してない?」

 彼女は怯えた様にコクコクと頷いた。そして小動物の様に、駆け足で逃げて行った。

 私はそのまま授業をサボってしまった。教室に戻るのが怖かった。みんなと顔を合わせたくなかった。

 放課後、教室に戻るとジュースでシワクチャになった挙句、ビリビリに破られた教科書だった紙の山が机の上に積み上げられていた。

 誰もいない教室で、私はへたり込んで泣いていた。

 私が何をしたって言うんだろう。ちょっと得意な勉強を頑張っただけだっていうのに、どうしてこんな仕打ちをされなければいけないんだろう。

 ゴミの山以外の私の荷物がカバンごと全部なくなっていることに気づいた。

 どうしようもなく私はそのまま何も持たずに帰った。靴を履き替えるのも忘れて、呆然と歩いていた。

「もうやだ……」

 私の心は既に挫けかけていた。


 いつまでこんなことが続くんだろうか。そんな不安を抱えたまま、気力を振り絞って翌日も学校に向かった。

 私はすっかりと油断していた。私がトイレに行っている間にまたカバンがなくなっていた。でも今度は犯人が分かった。

 光が私のカバンを持っていた。

「返して」

 そう言った私の目の前で、光は窓から私のカバンを外に出すと、ひっくり返して中身をぶちまけた。

 カバンを揺すり、中身を広く散らす。

「ごめんね。こうしないと私も虐められるから」

 そう言い訳をしながら、嬉しそうな顔で、私のカバンを遠くに投げ捨てた。

「光さん、これをお忘れよ」

 どう言って、私が机の中にしまっていたペンケースを光に渡す。

「やめて!」

 思わず叫んでいた。

 私にチラリと目を向けると、光はペンケースを開けて、中身を窓から撒き散らした。

「葵も窓から飛んでみたら」

 光は吐き捨てる様に言って教室に入って行った。

 私はとぼとぼと階段を降りて外に向かった。もしかして、昨日なくなった荷物も窓から投げ捨てられたんだろうか。

 廊下ですれ違うみんなが私の顔を覗き込んで笑っている。すべての生徒を敵に回したに違いない。幼稚園から一貫した学校なのに、中学校に入った途端、まるで違う学校に編入したかのように感じる。小学校までは楽しかったのに、もうやっていける気がしない。

 荷物を投げ捨てられた辺りに来てみると、妾の子がいた。しゃがみこんで、私の荷物を拾い集めているところだった。

「それ……私の……」

 妾の子は私に気づいて顔をあげた。

「あの……落ちてたから」

 言い訳するようにそういうと、拾い集めてくれた荷物を私に差し出した。

「ありがとう」

 妾の子は俯いたまま、コクリと頷いた。それから、まだ散らばっている私の荷物を一緒に拾い集めてくれる。

 たったそれだけの優しさなのに、つい涙が溢れてしまった。拭っても、拭っても、次々に涙がこぼれてきて、ついには前が見えなくなってしまった。

 蹲って泣いている私の上に何かが降ってきた。布のようなものが、私の肩に覆いかぶさる。それは私の体操服だった。さっきまでいた窓の方を見上げると、誰かがそれを投げ捨てたらしいことが分かった。こんなところで蹲って泣いている私の姿は、さぞかしいい気味なんだろう。笑っているような気がした。

 私はもう意地を張る気力もなくて、抱きかかえた体操服に顔を埋めて泣いてしまった。

 不意に頭を撫でられた。

 驚いて顔をあげてみると、ぼんやりとした視界に妾の子の姿がにじんで見えた。

「ご、ごめんなさい」

 妾の子は慌てて手をひっこめた。

「えと……えっと……」

 妾の子は後ずさりをしながら、私から離れていった。それでもまた荷物を拾い集めてくれる。なんだか、この世で私の見方はこの子だけのような気がした。

 えっと、あの子の名前は何だったかな。私もみんなが呼ぶように、あの子のことを妾の子だと認識していた。あの子もみんなに仲間外れにされていた。あの子の場合は、そのとびきりの容姿を妬まれてのことだった。入学式とか、卒業式とか保護者参観とか、そういう機会にみんなの親を見ることはあるけれど、遠目にもあの子の母親は姉妹に思えるほど若くて、異彩を放つほどに奇麗な人だった。ただ、名家の子女が集まる学校の雰囲気の中では浮いた存在でもあった。そんな悪目立ちをしたこともあって、いつの間にか妾の子と揶揄されていた。私もそう呼んでいた一人だった。

「これで、全部?」

 鞄に拾い集めた荷物を詰め込んで、蹲って動かない私に差し出してくれた。

「ありがとう、美佳さん」

「ど、どうして私の名前を知ってるの?」

 美佳は不思議そうに小首を傾げた。自分が有名人だという認識が全くないのだろう。いや『妾の子』なんて蔑称は知らない方が幸せだろう。

「だって幼稚園からずっと一緒でしょ。美佳さんはすごく可愛いから有名なんだよ」

「そっか……」

 そう言って美佳は納得していた。こういう時は謙遜の一つでもするものかと思っていたけれど。

「私は西野葵っていうの」

「あおいさんあおいさんあおいさん」

 美佳は何度も私の名前を呟いていた。

「これで友達だね」

 美佳は目を輝かせて私を見つめた。

 随分と性急だと思ったけれど、どうせ私の友達もみんないなくなったことだしちょうど良い。

きっと美佳もこんな調子だから今まで友達がいなかったんだろう。

「友達だね」

 笑顔を作って見せると、美佳は慌てて目を逸らした。

「う、うん……」

 美佳は何かを言いたそうに、俯いてもじもじとしている。

「どうしたの?」

 促すと、美佳は消え入りそうな声でおずおずと言葉をつづけた。

「き、昨日も……落ちてたんだけど……もしかして、葵さんの?」

「昨日も拾ってくれたの?」

 美佳はコクリと頷いた。

「来て」

 そういう美佳に続いて歩く。

 美佳のその小さな身長のせいなのか、圧倒的な容姿のせいなのか、サラサラの長い髪をなびかせて校舎を歩けば、すれ違う生徒がちらりと視線を向ける。生徒であふれた廊下も、美佳が歩けばみんな気まずそうに目を逸らして、静かに道を開ける。

 妾の子と成り上がり者の組み合わせが珍しいのか、ひそひそと話しているようだった。

 美佳の教室のロッカーに私のカバンと荷物を預かってくれていた。

「ありがとう」

 美佳は照れくさそうに俯いて、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。

 私と美佳の付き合いはその時からだった。


「返して!」

 ゆかりは私のお弁当箱を引っ掴むと、駆け出した。また窓から捨てられるんじゃないかと思って、私は慌てて追いかけた。

「待って!やめて!」

 ゆかりはそのままトイレに駆け込んだ。

 私が追いついた時、ゆかりはお弁当箱を振りかぶっていた。

「お願い、やめて!」

 私の声に振り向いたゆかりは顔を涙で濡らしていた。

 ぎゅっと目を閉じたゆかりは、お弁当を便器に向かって投げつけた。軽い音とともに、お弁当があたりに散らばった。

「美味しそうなお弁当ね」

 そう言ったゆかりは肩を振るわせ、ぼろぼろと涙を溢れさせながら泣いていた。

 私の友達だった子たちに直接手を下させて、黒幕は前に出てこない。

 ゆかりは逃げる様にトイレから駆け出して行った。

 私は呆然と立ち尽くしていた。

「あら、美味しそうじゃない。食べないの?」

 トイレにいた光をはじめとした女の子たちがクスクスと笑っていた。

「あ、葵さん……」

 そっと開いたトイレの隙間から顔を覗かせて、消え入りそうな声で遠慮がちに私を呼ぶ声がした。

 美佳だった。

 美佳の姿を認めると、くすくす笑っていた子たちが気まずそうに一瞬で静まり返った。まるで都合の悪いところを先生に見咎められたかのようだった。

「あの、あの……どうかしたの?」

 美佳は小さな体でみんなの間をすり抜ける様にして私に近づいてくる。

 怯えた小動物みたいに、ぎゅっと私の腕にしがみついた。

 美佳は私の視線の先に目を向ける。

「ど、どうしちゃったの?」

 美佳はしゃがみ込んでお弁当箱を拾う。そして、床に散らばった中身を手で拾い集め始めた。

「今取り込み中なの」

 そう言って光は美佳の肩を足で蹴る様にして押し退けた。

 ただでさえ小さな美佳の体は、不意を突かれたのも手伝って、容易くよろめいた。

 ゴチンと鈍い音と共に、美佳は硬いコンクリートの壁に強かに頭をぶつけて倒れ込んだ。そのまま美佳は意識を失った。

「美佳さん!」

 駆け寄ったのは私だけではなかった。さっきまでクスクス笑っていた子たちも、顔面を青くして駆け寄っていた。

「救急車!先生も呼んで!」

 私は他の子達に押し除けられて私は美佳に何もしてあげられなかった。いや、何かを考えられる精神状態じゃなかった。

 美佳はそうして病院へ運ばれて行った。


 私は病院にお見舞いに行った。随分と遠くの病院に入院したらしい。電車で向かった。遠くの病院に行かないといけない様な重症だったんだろうかと心配になった。

 私たちは友達だと言っていたのに、まだ連絡先も知らなかった。

 病室に向かってビックリした。

 病室の前には目を奪われるほどの綺麗な女性と、その隣に若い男性が並んで座っていた。男性が女性の手を取り、励ます様な形に見えた。美佳の両親だろうか、いやそれにしては若すぎる。じゃあ美佳の姉夫婦とかだろうか。いずれにしても、この雰囲気だと美佳の容態は芳しくない様に感じられた。

 病室のドアを開け、一歩足を踏み入れると、その豪華さに思わず息を呑んだ。病室というより、まるで高級ホテルのスイートルームのようだった。ベッドはふかふかの白いシーツで包まれ、柔らかなカーテンが光を和らげながら窓際にかかっている。部屋の中央には小さなリビングスペースまで備わっており、革張りのソファとテーブルが置かれていた。

 壁には美しい絵画が飾られ、さりげなく置かれた花のアレンジメントが空間に華やかさを添えている。病室内にさりげなく配された家具や装飾品が、その全てが洗練されていて、一般的な病院の個室とは全く異なる雰囲気だ。

 これが病室なのかと目を疑った。

「葵さん!」

 美佳の声が、異世界に迷い込んだかの様な病室で、呆気に取られていた私を現実に引き戻した。その声は病室に入る前に感じた不安を吹き飛ばすほどに元気そうだった。

「こんにちは、美佳さん。体調はいかがですか?」

 ベッドに腰掛けていた美佳は溢れるほどの笑顔で私を出迎えてくれた。

「平気だよ。検査しているだけだから」

 言いながら美佳は小走りで駆け寄ってくる。

「気に入ってもらえると良いのだけど」

 私は持ってきた花束を差し出すと、美佳は抱き抱える様にして受け取った。

「ありがとう」

 そう言うと、美佳はその花を看護婦さんに渡した。

 看護婦さんは早速花瓶に移し替えてくれていた。

 もしかして専属の看護婦さんなんだろうか。

「これも食べて」

 フルーツ盛りも差し出す。

 美佳は中身を確かめるように覗き込む。

「いっぱいあるね。何食べる?」

 美佳は両手でフルーツ盛りのカゴを受け取ると、嬉しそうに私を見上げた。

「剥きますよ」

 そう言って看護婦さんがカゴを持っていく。

 しばらくすると、皮を剥かれたフルーツが盛り付けられたお皿を持ってきてくれた。

 もしかしてこの看護婦さんは実は白衣を着たメイドさんなんだろうか。

「一緒に食べよ」

 窓際に置かれたテーブルに美佳と向かい合って座り、フルーツを頬張る。

 メイドさんは紅茶まで淹れてくれた。ティーパックで入れたお手軽な紅茶じゃない。ちゃんと茶葉を使って、ティーポットに入れて出してくれる。しかもお茶菓子まで添えられていた。ここは本当に病院なんだろうか。

「もしかして、美佳さんのお家ってお金持ちなの?」

 病院の個室さえ別料金がかかるというのに、この豪華な部屋はきっと特別料金がかかっているに違いない。世間では看護師さんが不足しているというのに、専属の看護婦さんだかメイドさんまでついている。こんなの私の知っている入院じゃない。入院したことないけれど。

「そんなことないよ。だってうちは母子家庭だもん」

「ごめんなさい。変なこと聞いてしまって」

「別に良いよ。気にしてないから」

 美佳は首を横に振る。

 一般的に母子家庭が裕福だという話は聞かない。一人でバリバリ稼ぐようなお母さんもいるかもしれないけれど、美佳のお母さんはその口なんだろうか。

「そう言えば、病室の前におられたのはお姉さん?」

 気になっていたことを聞いてみたら。

「ママだよ」

 美佳はお母さんのことをママと呼ぶ子だったかと、少し驚いた。いや、それ以上にさっき病室の前で見た二人を思い出してもう一度驚く。

「お姉さんじゃなくて?」

「そう、ママ。私に兄弟はいないよ」

 美佳は何をおかしな事を言っているんだろうとでも言いたげな表情だった。

「お母さんもお父さんも若いんだね」

「お父さん?」

 美佳は不思議そうに小首を傾げた。

「お母さんと一緒にいた人だけれど」

 美佳は少し考え込む素振りを見せた。

「ママの彼女かな」

 なんだか分からないけれど、複雑な家庭事情が垣間見えて、それ以上踏み込むのを躊躇ってしまう。

 ママの彼女ってなんだろう?彼氏の間違いじゃないんだろうか。それとも、美佳は外にいるのが男の人だって知らないんだろうか。だったらそんな事を美佳に知らせない方がいい気がする。いや、もしかしたら男の人に見えただけで実は女の人だったんだろうか。だとするなら恋人のような雰囲気に見えたけれど、ただの友達なんだろうか。でも美佳は彼女って言った。じゃあ、不倫?いや、母子家庭ってさっき言っていたな。そもそもお父さんはどうしているんだろうか。そう言えば美佳は妾の子って言われているけれど、あれは根の葉もある噂なんだろうか。次々と疑問が湧いてくるけれど、どれも本人に聞けそうにない。

「お母さんはすごく綺麗な人だね」

「うん。私のママだもん」

 そんなの当たり前だという様な口ぶりだった。

 それで、ママとその彼女は病室の前で何をしていたんだろうか。外の様子が気になったけれど、見に行く口実が見つけられない。

「すごい病室だね」

「そうかな?」

 美佳は不思議そうに周りを見渡す。

「私入院するの初めてだからわからない」

 私だって入院したことはないけれど。普通の庶民は大部屋で知らない人とカーテンで区切られただけの相部屋になるんだと思っていた。まぁ、うちの学校は良家の子女が集まるから、普通じゃないだろうけれど。それにしたって、美佳の置かれている状況は想像を絶していた。

 そんな私を他所に、美佳はあくびをした。

「眠くなっちゃった」

「じゃあ私はこれで……」

 そう言って立ちあがろうとした私の服の袖を、美佳は遠慮がちにつまんだ。

「寝るまで一緒にいて……」

 美佳は俯き、呟くように言った。

「良いよ」

 そう言うと、美佳は顔を上げて、一瞬驚いたような表情を見せた。

「本当?」

 嬉しそうに表情が崩れる。

「うん」

 たったそれだけのことなのに、心底嬉しそうだった。けれど、そういうことは病室の外にいるお母さんに甘えれば良いのに。そんな疑問が浮かんだけれど、美佳が私を望んでくれるなら拒む理由がなかった。


 美佳はいそいそとベッドに潜り込む。私はベッドの隣の椅子に腰掛けた。

 美佳はすっかり安心しきったように私の方をじっと見つめて、まるで何かを言いたげに布団から手を覗かせた。それからじっと私を見つめる。「ダメ?」と言っているような表情だった。

 私は美佳の手を握る。

 美佳は照れたように顔を綻ばせた。

「心細いの?」

 慣れない入院生活で不安になっていたんだろうか。

 でも手を握るのは私じゃなくてお母さんの方が良かったんじゃないだろうか。

「葵さんは優しいから好き」

 美佳はそんな無邪気なことを呟いたかと思うと、静かに寝息を立て始めた。

 なんだか小さい子が甘えているみたい。甘えてくれる美佳を可愛く思う反面、すぐ外にいるお母さんに甘えられないのが可哀想でもあった。

 握っていた美佳の手から力が抜ける。そっと手を布団の中に入れて、手を離そうとすると、キュッと握り返してくる。

 起きているのかと、顔を見てみると、穏やかな表情で静かに寝息を立てていた。

 可愛い子。手を握ったまま寝息を立てる奇麗な顔を見下ろしていると、こんなに安心した様子の美佳を残していくなんて、どうにも忍びなく感じられる。

 そうしていると、静かにドアがノックされた。

 美佳を起こさないように、小さな声で返事をする。

 開いたドアから現れたのは、スーツを着たおじさんだった。私のお父さんと変わらないくらいの年齢に見えた。

 そのおじさんの後ろに、もう一人スーツを着たおじさんの姿が見えた。

 部屋に入ってきたのは最初のおじさんだけだった。

 誰だろう?美佳の知り合いに違いないのだろう。

 挨拶をするべきかと思ったけれど、すぐ隣で眠ったばかりの美佳を起こしたくない。立ちあがろうにも、美佳が手を離してくれない。

 そうしているうちに、おじさんが親しげな笑顔を浮かべて話しかけてくれる。

「こんにちは、君は美佳の友達?わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」

 にこやかに話しかけてくれるおじさんは親しみやすそうな印象を受けた。

 おじさんは、さっきからずっと繋いでいる私たちの手に気づいた。

「美佳と仲良くしてくれてありがとう」

 そう言ったおじさんは本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。

「この子に友達ができるなんて無理だと諦めてたんだよ」

 言いながら、おじさんは美佳の寝顔を覗き込んだ。

「あの……さっき寝たばかりで……」

 せっかく来たのにタイミングの悪いことだと思った。

「いや、それで良いんだ。起きている時には会えないからね」

 おじさんはそう言って、美佳の寝顔を目に焼き付けるかのように、じっと見つめていた。

 どういう意味だろう?気になったけれど、立ち入ったことを聞いて良いものか分からず、何も言えなかった。

「もしかして、美佳さんのお父さんですか?」

「そうだよ」

 その答えを聞いて、ハッと思い出す。そう言えば病室の前には美佳のお母さんと、その彼女だか彼氏だかわからないハンサムが仲睦まじくしていたはずだ。

 他人の家庭のことながら、肝が冷える。もしかして、この後修羅場になるんじゃないだろうか。美佳の家庭崩壊の危機だろうか。そんな不安が瞬時に頭をよぎった。

「君が葵さんかな?」

 私は頷いた。

「そうか、良かった。話は聞いているよ。これからも美佳と仲良くしてあげて欲しい」

 そんなの、頼まれるようなことじゃないけれど。

「はい」

 と返事をしておいた。実際はまだまだ美佳との付き合いは浅いし、お互いのことはまだほとんど知らないのだけれど。

「苦労をかけて本当に図々しいことだけれど……」

 そう言って、おじさんは申し訳なさそうな顔を私に向ける。

「山本君、例の封筒を持ってきて」

 おじさんが病室の外に控えていた、もう一人のおじさんに声をかけると、例の封筒とやらを持ってきてくれた。

 おじさんはその封筒に名刺を添えて私に差し出した。

「これは気持ちだよ。困ったことがあったらなんでも言って欲しい」

 受け取ろうと思ったけれど、美佳と手は繋いだままだし、もう一方の手を差し出そうと体を捻る私の姿を見て、おじさんは封筒をテーブルの上に置いた。

「ここに置いておくから、帰る時に忘れずに持って帰って」

 と言った。

 一体なんなんだろう?気になったけれど、手が離せない。

「先生、そろそろ次の予定が」

 と秘書と思しき山本さんが声をかける。

「もうそんな時間か」

 おじさんはため息をつくと病室を後にした。

 先生とか言われていたけれど、あのおじさんは何者なんだろうか?

 気になって、テーブルに手を伸ばして封筒の上の名刺を取る。

 山村 一という名前が記されていた。美佳の苗字とは違うはず。肩書は、政権与党の国会議員だった。他にも色々役職がこれでもかと書き連ねてあった。

 この立派な病室を手配できたのも、その費用の出所も、きっとこのおじさんの力なんだろう。

 もしかして、美佳が妾の子というのは本当なんだろうか。そう思ったけれど、おじさんはどこにでもいる普通のお父さんの様に感じられた。

「遊ぶなとは言わないが、娘が入院している病院で何をしているんだ」

 おじさんの声が外から聞こえてきた。怒っているというより、呆れているようだった。

「うるさいなぁ……」

 そんな声が聞こえてきた。喧嘩でも始まるのかとヒヤヒヤしたけれど、それだけで済んだ様子だった。

 美佳の両親の関係もどうなっているのか、想像がつかない。とりあえず美佳の家庭事情は想像を絶するほどに複雑らしい。


 美佳が手を離してくれないせいで、私はウトウトして、美佳のベッドに突っ伏して、眠ってしまっていた。

 気がつけば美佳が私の頭を撫でていた。

「ずっといてくれたの?」

 美佳は嬉しそうに言った。

「美佳さんが手を離してくれなかったから」

「そうだった?ごめんね」

 そう言うけれど、美佳は少しも悪びれないどころか、やっぱり嬉しそう。

「やっぱり葵さんは優しいね」

「そう言えば、美佳さんが眠っている間にお父さんがお見舞いに来てたよ」

「パパが?」

 美佳は一瞬驚いた様な顔を見せたかと思うと、すぐに俯いた。

「なんで起こしてくれなかったの……」

「あの……ごめんなさい……」

 突然美佳の声が怒ったように変わり、戸惑ってしまった。

「違うの。葵さんに言ったんじゃないの」

 美佳は俯いたまま続ける。

「どうしてパパは私のこと起こしてくれなかったのかなって」

 美佳の声は落ち込んでいるように聞こえた。

 やっぱりお父さんに会いたかったんだろうか。

「美佳さんがよく眠っていたから、気を使ったんだよ」

「そんなのいいのに……」

 美佳は悔しそうにいう。

 眠ってしまった事を後悔しているんだろうか。余計な気を使ったお父さんを恨んでいるんだろうか。

「電話してみたら?すごく心配していたみたいだったよ」

「電話してもでてくれないもん」

 美佳の横顔は明らかに不満そうで、怒っていた。

 きっと今までこんなすれ違いばかりで、ずっと我慢してきたんだろう。忙しそうな中心配して駆けつけたお父さんの姿を見ていただけに、美佳に少しも伝わらないのが悲しい。

「こんなにいい病院を手配してくれるんだから、お父さんは美佳さんのこと大切に思っているよ」

「こんなの普通だよ」

 吐き捨てるように言った美佳の言葉は寂しいと言っているように聞こえた。

 普通なんだろうか。我が家の経済状況からは信じられないけれど、美佳のところじゃ普通なんだろうか。私の普通が通用しない家庭の事情は全く想像もできない。

「美佳さん、私は美佳さんの友達だよ」

 はっと顔をあげ、こちらを振り向いた美佳の顔から、涙が滲み出そうになっていた。

「葵さん好き」

 美佳は今にも泣き出しそうな声で言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る