吐く女

 まだ頭がぼうっとする。

 お風呂から上がったらお昼ご飯を作るつもりをしていたけれど、まだ少し目眩がする。

「葵、大丈夫?」

 美佳は心配そうにトマトジュースをコップに注いで出してくれた。

「貧血にはトマトジュースが良いんだって」

「そうなの?」

 そんなこと初めて聞いたけれど。

「血は赤いでしょ?これはね、血の中の酸素を運ぶヘモグロビンの色なんだよ。だから赤いトマトジュースを飲めばヘモグロビンが増えるんだよ!」

 美佳はトンチンカンな事を自信満々に言う。

 ちなみにトマトが赤いのはリコピンのせいであって、ヘム分子のせいで赤くなってるヘモグロビンとは関係がない。

 そして美佳が出してくれたトマトジュースを飲むのにも理屈なんて関係ない。

「葵、元気出た?私お腹減ったんだけど、もうそろそろご飯作れそう?」

 私が代わりにご飯作ってあげるから葵は休んでて、とか嘘でも言ってくれないんだろうか。いや、美佳にそんな事を期待するだけ無駄なのは分かっている。

 それに、悪いのは私なんだ。美佳と裸で抱き合って興奮しすぎて鼻血が出ちゃったのに、それでも抱き続けたせいで勝手に貧血になった、汚れた私が悪いんだから。

「はいはい、作るわよ」

 立ち上がると少し立ちくらみがしたけれど、それだけ。大丈夫そう。

「今日は何作るの?」

 美佳は私にスマートフォンのカメラを向けて早速配信を始めている。

「今日はゴーヤチャンプルとサーモンのカルパッチョとサラダとデザートにアイスクリームかな」

「ごーや……」

 美佳の表情が曇った。

「美佳はゴーヤが嫌いだもんね。でもちゃんと食べようね」

「酷い!ほら、みんなもコメントで酷いって言ってるよ。もっとやれって……なに?なんでみんなそんな酷いこと言うの!?」

 そりゃみんなも美佳が嫌いなもの食べて苦しんでる顔を見たいに違いない。

 突然無言になった美佳がそろりそろりと近づいてくる。それでも、野菜を洗っている私に気づかれないようにしているつもりなんだろう。わかりやすい子。騒々しいのが急に静かになった時は、何かを企んでいる時だ。

「美佳、ゴーヤを隠しちゃダメだよ」

 ピタリと美佳の動きが止まる。

「そんなことしないよぉ」

 わかりやすく私から目を逸らす。

「美佳はどうしてゴーヤが嫌いなんだっけ。みんなに教えてあげて」

「だって苦いもん。それになんか幼虫みたいな芋虫みたいな気持ち悪い形してるから嫌い。こんなの食べなくったって、他ので栄養取れば良いんだから食べなくて良いでしょ」

 一応料理配信のつもりだったのに、美佳は私の手元を映さずに、カメラを自分に向けている。

「えぇ!なんでみんなそんな酷いこと言うの!?なんで葵の味方ばっかりするの!」

 おおかた『好き嫌いするな』とか言われたんだろう。

 私は食材を刻み始める。

「ほら見て、これ。芋虫みたいで気持ち悪い……なんか動き出しそう」

 美佳はようやく私の手元のゴーヤを映した。

「葵、そんないっぱい切らなくて良いよ。チャンプルがゴーヤまみれになっちゃうよ!」

 こんな何気ない日常でも見てくれる人がいる。

 プライベートの切り売りだと言ってしまえばその通りかもしれない。それでも良い。売れるものは出し惜しみせずに売れるうちに売ってしまいたい。きっと私たちのプライベートが売れるのなんて、あと何年も続かないだろうから。

 稼げるうちに稼ぐんだ。

「ほらほら、もう諦めよ?ゴーヤなんてダメなんだよ」

 まだ言ってる。呆れて美佳に目をやると、美佳は私を上目遣いで見つめあげながら、とびっきり可愛い顔を作っている。

 それを狙ってやってるのか、それともいつも私がその表情にやられてしまうせいで、いつの間にか習得したのか。

「その可愛い顔をみんなにも見せてあげて。みんなが食べなくても良いって言ったら許してあげようかな」

「えぇ〜……」

 美佳は渋々といったふうに、カメラを自分に向けて、もう一度可愛い顔を作る。

 私には、美佳が一人で生きていける気がしない。だから、稼げるうちに稼がせてあげたい。今のうちに、一生働かなくて良いくらいのお金を稼がせてあげたい。

「葵〜、みんな酷いんだよ。泣きながら食べろって言うんだよ!」

「食べたらちゃんとご褒美ちょうだいって言っておかなきゃ」

 容姿に恵まれた美佳の泣き喚く姿はお金になる。

「みんななんでそんなこと言うの?私の方が可愛いのに」

 ぷうっと頬を膨らませた表情をしたかと思うと、そのままカメラを私の方に向ける。

「みんな葵が見たいんだってさ」

「ねぇ、美佳。今私のことブスだって言わなかった?」

「言ってないよ。私の方が可愛いって言っただけ。でも、葵だって可愛いから大丈夫だよ!」

 美佳はそれで励ましているつもりなんだろう。

 私は油を引いて熱々に熱したフライパンにまだ水気の残ったゴーヤを放り込んだ。

「ぴゃあぁぁっ!」

 美佳は悲鳴をあげて飛び退いた。

 熱々になった油が美佳に襲いかかったんだろう。

「危ないよ」

 私は優しく美佳に注意を促す。

「わざとでしょ!わざとやったでしょ!」

「そんなわけないじゃない。私は美佳のためにご飯を作ってあげてるんだよ」

「見て、あの女笑ってるよ!悪い女だよ!」

 美佳は離れたところから私にカメラを向けて喚き立てる。

「これだからゴーヤは嫌いなの!」

「ほら、そんなに離れてたらお料理配信にならないでしょ。こっちおいで」

「やだ!絶対行かない!」

 美佳は怯えた小動物のような顔で私を睨んでいた。

「仕方ないなぁ」

 言いながらも料理を進めていく。

 きっとみんなが本当に楽しみにしているのは、美佳が涙を浮かべながらゴーヤを食べるところだと思うから。


 料理が出来上がると、お皿に盛り付けて、写真に撮る。もちろん、配信にもちゃんと映す。

「葵、みんなが葵のことお嫁さんに欲しいだって。葵って所帯染みてるもんね」

 美佳は嫌味のつもりもなくさらりと言う。きっと自分を差し置いて私が褒められるのが気に入らないんだろう。

「私って、子どもの面倒とか見ると好きかなって思うの」

「そうなの?知らなかった。葵は子どもの面倒とか見る機会あるの?」

「あるよ。いつも見てるよ〜」

「ホント?!いつ、いつ?誰の面倒見てるの?」

 興味深々な美佳からスマートフォンを受け取って、レンズを彼女に向ける。

「ほら、可愛い、可愛い〜」

 アップで映してあげると、美佳はご機嫌にとびきり可愛い笑顔を見せてくれる。

「やっぱり美佳が一番可愛いね」

 美佳は満足そうにレンズに向かってポーズをとる。

 もう子どもの話題なんて忘れているだろう。


 やっぱり美佳はゴーヤをお皿の隅に避けている。ゴーヤだけ退けて食べている。

『お残ししてる』

『葵さん、お仕置きですよ』

『美佳が悪いことしてるよ』

 そんなコメントが流れる。

「しーっ、黙って!」

美佳は私の横で、小声でカメラに向かって文句を言っている。

「どうしたの?」

 私は気づかないふりをする。

「何でもないよ」

 笑って誤魔化す美佳。

 美佳がゴーヤ以外を全部食べ終わるのを待つ。

 嫌でも白いお皿の上に盛り上がったゴーヤの山が目立つ。

「ねぇ、美佳。それどうするつもり?」

 美佳はチラリと隠しきれないそれに目をやると、「えへへ……」と笑ってみせる。

「ねぇ、美佳。それどうするつもり?」

 私がもう一度聞くと、美佳の笑顔が少し引きつる。

「葵にプレゼント〜……」

 美佳は私の顔色を窺いながら、ゆっくりとお皿を私の方に押してくる。

 バン、と音を立ててテーブルを叩いた。

 瞬間、びくりと美佳の体が震える。美佳は慌ててお皿を自分の方へと引き戻した。

 それでも食べる決心がつかないのか、ゴーヤの山をじっと見つめている。

「美佳、私が食べさせてあげる」

「でも……」

 でも、じゃない。いくら美佳の顔が良くても、ゴーヤと睨めっこしている姿をずっと映し続けても仕方がない。

「目を閉じて。口を開けて」

 美佳は素直に従った。ぎゅっと強く目を閉じて、薄く口を開いた。

「もっと大きく開いて」

 そうして開いた美佳の口。輝くように白くて小さい歯が綺麗に並んでいる。ピンク色の舌が怯えたように震えている。

 可愛い美佳の内側は私だけの楽しみ。みんなには見せてあげない。

「歯を立てちゃダメだよ」

 美佳は何のことだかわかっていない様子だけれど、こくりと頷いた。

 私はゴーヤをお箸で摘むと、その苦味がしっかりと味わえるように、舌の真ん中に乗せてあげる。

「あぁぁぁぁ……」

 美佳の悲鳴が開いたままの口から漏れる。

「まだだよ。まだ我慢してね。まだいっぱいあるから」

『葵さんの悪い顔最高』

 そう言われて、思わず自分がニヤけていることに気づいた。

 一つ、また一つと美佳の口の中にゴーヤを入れていく。しっかりと味わえるように舌の周りに並べてあげる。

「可愛いよ、美佳」

 私は思わず呟いていた。

 呟きながらゴーヤを美佳の口に詰め込んでいく。

「まだだよ。もう少し頑張るんだよぉ」

 美佳のぎゅっと閉じた目の端から涙が滲んでくる。

 無様な姿をしているはずなのに、それでもなお可愛さを失わない、綺麗な顔。

「全部入ったよ」

 美佳は口を閉じると同時に、今まで瞑っていた目を開いた。ポロリと涙が頬を伝い落ちた。

 美佳は口を閉じたまま動かない。

「さ、噛んで」

 美佳はゆっくり、ゆっくりと咀嚼する。

「うぅっ……」

 可愛い顔に似つかわしくない、低くくぐもった声を漏らした。私は咄嗟に手を伸ばして口の中のものを吐き出そうとする美佳の口を塞いだ。

「ダメだよ。ちゃんと食べなきゃ」

 美佳の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

「ほら、頑張って」

 私の押さえつけた手の下で美佳が口を動かす。

「うっ……」

 苦しそうな声を漏らしてまた吐き出そうとする。

 この可愛い泣き顔を配信を見ているみんなにも見せてあげる。

 美佳は涙を流しながら、首を横に振る。

「ほら、飲み込まないと終わらないよ」

 手のひらに、美佳の口からはみ出したものが当たっているけれど、吐き出すなんて許さない。

「頑張って」

 手のひらを強く押し付けて、口から漏れそうになっていたものを押し込む。

「うぅぅぅっ……」

 美佳は声を漏らしながら、口を塞いでいた私の腕を両手で握った。

「だぁめ、飲み込まないと許してあげないよ」

 美佳は何度もえづきながら、少しずつ飲み込んでいく。

「えらいねぇ、もうちょっとだよ。頑張ろうね」

 言いながらもう一方の手で頭を撫でてあげる。

 ゴックンと美佳は口の中に残っていたものをまとめて飲み込んだ。

「えらい、えらい」

 口を押さえていた手を離し、頭を撫でてあげる。

 やっと飲み込んだと言うのに、美佳の顔色はまだ悪い。

「葵……ごめん……もう無理……」

 そう言うや否や、美佳はゴーヤを吐き出した。

「うぷっ……」

 一度胃の中に収めたはずのゴーヤを、私のエプロン目掛けて吐き出した。きっと無理して飲み込んだのか、ほとんど形を保ったままのゴーヤが、粉々になった液状のものと一緒に、美佳の口から逆流した。

 これはもう配信事故だった。

 美佳は美少女にあるまじき醜態を晒した。

「ごめんなさい。もう無理、もう許して!」

 美佳は泣き叫んだ。もしかして、美佳の口から出てきたゴーヤを摘み上げた私を見て、またそれを口に押し込まれるとでも思ったんだろうか。

『もうやめてあげて!』

『それはあまりに鬼畜の所業だよ!』

『もはや虐待』

 そんなコメントが溢れていた。

 もしかして、私は一度吐き出したものでももう一度食べさせるような鬼だと、みんな本気で思っているんだろうか。

「ごめんなさい、ごめんなさい、もう無理だから!」

 美佳に目をやると、必死で泣いている。

「ごめん、ちょっとやりすぎちゃったね」

 そう言って美佳の頭を撫でる。

「ほんと?もう食べなくていい?」

「良いよ。美佳はよく頑張ったね、偉いよ」

 頭を撫でてあげると美佳は涙を拭った。

「ごめんね、葵」

「大丈夫だよ」

 優しく声をかけてあげると美佳は私に抱きつこうとする。

「待って!」

 慌てて止める。

 だって私のエプロンも美佳の服も吐き出したものでドロドロなんだから。

「あおい〜」

 抱きしめてあげられない分、甘えた声を出す美佳の頭をいっぱい撫でてあげる。

「あおい〜」

「頑張って食べて偉かったね」

「あおい〜。アイス食べたい」

 私は一瞬耳を疑った。

「あいす?」

「アイス。さっきあるって言ってた!」

 今嘔吐したばかりなのによくアイスが食べたくなるものだと感心した。美佳の唇の端にはまだ細かい緑色の吐瀉物がこびりついているというのに。

「アイスの前に着替えておいで、準備しておくから」

 その間に私はエプロンを外して、冷蔵庫からアイスを取り出す。

 抹茶味のアイスだ。

「ゴーヤ味?」

 緑色のアイスに気づいた美佳は、怯えたような目を私に向ける。

「そんなわけないでしょ!」

 椅子に座った美佳に、エプロンを渡す。

「汚しちゃうといけないからこれつけてね」

「これって……」

 美佳は小さなエプロンを摘み上げて訝しそうに眺める。

「赤ちゃんがつけるやつじゃないの?」

 普通は涎掛けとして使われるのかもしれないけれど、また服を汚されちゃ困る。今日はこれで2着目なんだ。誰が美佳の服を洗濯していると思っているのか。

「大丈夫、可愛いよ。スーパーモデルみたいに可愛いよ」

 言いながら美佳の首に結びつける。

「そんなわけないじゃない!こんな子どもみたいなのヤダ!」

「こんな子どもっぽいのでも着こなせるなんてさすが美佳、可愛いよ」

「可愛いわけないじゃない!バカにしてるの!?」

 流石に美佳も気づいたか。

 私はアイスをスプーンで掬って美佳の口元に運ぶ。

「ほら、あーんして」

「自分で食べられる!子ども扱いしないで!!」

 そう言って美佳は両手でテーブルを叩いた。

「お口開けて〜」

「ヤダ!」

「あ〜ん……」

 美佳が頑なに口を開けないから、そのままスプーンを私の口に運ぶ。

「ああぁぁっ!」

 美佳は声をあげて私を睨みつける。

「要らないんじゃないの?」

「そんなこと言ってない!」

 私はもう一度アイスをスプーンですくう。

「ほら、あーん……」

 今度は素直に口を開いた。本当に扱いやすい子。

「美味しい?」

「美味しいよ!」

 不機嫌そうな声で答える美佳。

「はい、あーん」

 また素直に口を開く美佳。本当に素直で可愛い。

「じゃあ、お昼の配信はここまでにしましょうね〜。ほら、美佳、みんなにばいばいして」

「何なの!?何でそんなに私のこと子ども扱いするの?何でなの?!」

『ばいばい』ってみんな答えてくれている。

「ほら、ばいばいして〜」

「何なの!?みんなも私のことバカにしてるの?」

 怒っている美佳の顔をアップに映す。

「ほら、ばいばいだよ〜」

 美佳が手を振ってくれないから、代わりにスマートフォンを左右に振って、そして配信を終える。

 美佳は不機嫌そうに顔を背けていたけれど、アイスを乗せたスプーンを差し出せば、口を開いて食いつく。

 美佳は今日も可愛い。


 投資をするのにニュースのチェックは欠かせない。経済情勢はもちろんのこと、海の向こうの大統領の選挙から、政治家の発言まで、なにが株価に影響するか分からない。

 だから美佳は毎日欠かさずニュースをチェックしている。

 そんなことしても無駄なのに、とは口が裂けても言えない。美佳はいつの日か勝てると信じて諦めていないのだから。

 今日も美佳の父親がニュースに映っている。最近ますます偉くなったみたいで、ニュースで取り上げられる頻度が増えている。そのうち総理大臣とかになるのかもしれない。

 じゃあ、美佳は良いところのお嬢様かというと、そうじゃない。あの父親と愛人の間に生まれたのが美佳だ。あの父親には正妻がいて、正妻との間に子どもまでいる。正妻はたまに父親と一緒に報道されているし、子どもだって父親の後を継いで政治家になるらしく、ときどき報道されている。

 けれど愛人に光は当たらない。

 こんな男が偉い政治家だっていうんだから、政治というのは良く分からない。

 亭主元気で留守が良いとは言うらしいけれど、美佳の母親もそう思っているんだろうか。一応養育費に生活費は支払ってくれているらしい。

 学生の身分には余るほどの広いこのマンションの一室だって、美佳の父親の所有物なのだから。

「葵、もう行こうか」

 父親が映っているニュースには興味なさそうに言う。

「行くってどこに?」

「車の修理って言ってたじゃない」

「修理じゃなくてリコールね」

「うん、それで良いから行こう」

 そう言って美佳はモニターの電源を切ってしまった。

「じゃあ着替えないと」

 美佳は熊の着ぐるみの様な部屋着を着ている。被ったフードには耳まで付いている。子ども用なのに、美佳の身長なら問題なく着れてしまう。

「面倒くさいなぁ」

 ぼやきながら、美佳は自室へと引きこもった。そして出てこない。

「美佳、どうしたの?」

 ドアをノックして声をかける。

「葵〜、手伝ってよぉ」

 一体何をしているんだろう?

「美佳、開けるよ」

 中を覗いてみると、美佳は真っ黒なドレスを着ようとしていた。

 ちょっと自動車ディーラーに行くだけなのに、随分と大袈裟な装いだとは思うけれど、きっと今の美佳の気分的にはこれが着たかったんだろう。

「言ってくれれば良かったのに」

「言わなくても来てくれると思ったから待ってたの!」

 美佳は鏡の前でヘアアイロンを手に、髪を巻いている。

 私も美佳のことは理解してあげたいと思っているけれど、ちょっと美佳の求めるレベルは高すぎる。

「葵は着替えないの?」

「うん、私は運転しなきゃいけないから」

 美佳と釣り合う服装をしてあげたいけれど、それだと運転しにくい。

 美佳が袖を通している、これからパーティーにでもいけそうな、黒いベルベット生地のドレスは、レースとフリルがふんだんにあしらわれている。

 開きっぱなしになっていた背中のファスナーを引き上げる。

 ただでさえ細いウェストを、ドレスと一体になったコルセットを締め上げてさらに絞る。

「きつくない?」

 お昼ご飯を食べたばかりだし、締めすぎると苦しいに違いない。しかもさっきみたいに嘔吐してドレスを汚したら大変だ。

「うん、平気」

 それから、腰のリボンを結んで整える。

 こんなの一人で着るのは大変だ。もっとも、美佳は私が手伝うのが当然だと思っているようだけれど。

「こっち向いて」

 お気に入りのドレスが着れてご機嫌になった美佳は、くるりと回った。細く絞られたウェストから足首まで隠すほどの、何層にもフリルが重ねられたスカートがフワリと膨らむ。

 ピタリと止まれば、リボンとフリルと、ウェーブのかかったツインテールが揺れる。

 美佳の頭に黒のレースがあしらわれたヘッドドレスを乗せて、ツインテールの結び目に黒くて大きなリボンをつけてあげる。

「可愛い?」

 美佳が嬉しそうに聞く。

「可愛いよ」

 そう言ってあげると、にんまりと満足そうに笑う。

 この装いなら結婚式でもダンスパーティーにでも行けそうだ。行ったことないけれど。

「早く行こう!」

 美佳はすっかりご機嫌で、私の準備が待ち切れないくらいにウキウキとしていた。


 美佳はいつもの様に運転席の後ろの席に座る。そこには、身長145cmの美佳でも安全に座れるチャイルドシートが備えられているからだ。チャイルドシートと言っても、身長の足りない美佳のために座面が少し高くなっているだけなのだけれど。

 そもそも、美佳は運転免許を持っていないから運転席に座ることはまずない。だからいつも私が運転席に座る。

 美佳はいつもの様にメロンジュースを車に備え付けられた冷蔵庫から取り出して開け、ストローを差し込む。

「冷えてないね」

「申し訳ありません、お嬢様」

 と冗談めかして言う。

「今度から冷やしておいてちょうだい」

 と真面目なトーンで返されると、ムッと腹が立つ。これじゃあ、本当に私が運転手みたいじゃない。

 美佳が乗り込んだ後席のドアを勢いよくバンと閉めてやりたいのをグッとがまんして乗り込む。真っ白い革張りのシートに座ると、ふわりと体を包み込む様に沈む。目の前に革張りの真っ白いステアリングホイールがあって、左手を伸ばせばクリスタルのシフトノブが輝いている。

 とんでもなく高い車だと言うことが身体中から伝わってくる。こんな車に若葉マークをつけて走るなんて緊張する。

 これも美佳の父親が美佳に与えたものだ。政治家ってさぞかし儲かるんだろう。しかし、肝心の娘が免許を持っていないというところが抜けている。まるで税金の無駄遣いの典型例の様な抜け具合、さすが政治家だ。

「早く出してちょうだい」

 妾の娘のくせにお嬢様気取りなんてしちゃって。

「やめてよ!」

 強く言うと、美佳はむすっと黙り込んで、ストローにぶくぶくと息を吹き込む。まだ開けたばかりのメロンジュースの炭酸が弾けて溢れる。

「あぁっ!また汚してる!」

 やっぱり美佳には前掛けをつけさせておかないと。

「もぉ、葵うるさい」

「誰が車のシート拭くと思ってるの!?ベタベタになっちゃうでしょ!それに服のクリーニング代だって高いんだよ!」

「小姑みたい」

 ぼそっとつぶやいた声が、静粛な車内でははっきり聞こえた。

 その生意気なほっぺを思いっきり引っ叩いてやりたい衝動に駆られたけれど、今は運転中だからなにもできない。

 覚えていなさい。


 ディーラーに入ると店員さんがお出迎えしてくれる。

「お待ちしておりました、山村様」

 運転していた私のことを美佳だと勘違いしたんだろう、無理もない。

 ちなみに美佳の苗字は山村ではない。それは美佳の父親の苗字であって、妾の娘でしかない美佳の苗字は母親のものだ。

「私は一介の運転手に過ぎません。こちらが山村のお嬢様です」

 そう言うと店員さんは美佳に向き直る。

「お父様にはいつもお世話になっています」

 なんて、私よりも小さい小娘におじさんが頭を下げていた。

 そんなおじさんから逃げる様に美佳は私の背中に回り込んだ。

 あんなに生意気なくせに、私以外の人の前に出ると怯えた小動物のようになる。

「お父様はお元気にされていますか」

 なんて聞かれていたけれど、美佳も父親と会っていないはずだから知らないだろう。

「元気そうだったよ」

 そう、出る前に見ていた報道の映像では元気そうだった。

 私の背中にぎゅっとしがみついて、ちらりと顔だけ覗かせて、聞こえるかどうか分からない様な声でつぶやいた。

 席に案内されると、「私、こちらの店長をしております」なんて名刺を差し出された。

 こんな生意気な小娘に胡麻擦ったって、所詮妾の娘なんだから。

「申し訳ありません。お嬢様は人見知りですので、僭越ながら私が代わりに頂戴します」

 そう言って代わりに受け取っておく。

「葵、まだ怒ってるの?」

 美佳が不安そうな顔をする。

「別にぃ」

 プイッと顔を背けて見せる。

「私のケーキ一口食べて良いから」

 自動車ディーラーでケーキが出てくるなんて知らなかったけれど、そんなことより一口しかくれないのか。いや、別にケーキが食べたいわけじゃないのだけれど、でも一口って。

「一口……一口だけだよ……」

 美佳が不安そうな声で繰り返す。

「良いよ。怒ってないから美佳が食べて」

「本当!?」

 急に明るく輝く顔。単純な美佳を見ていると、腹が立っていたのが消えていく。

「私のも食べる?」

 そう言ってケーキの乗ったお皿を美佳の前に差し出す。

「良いの?」

 目を大きく見開いた美佳が驚いた様に興奮しながら聞き返す。

「良いよ」

「葵大好き!」

 随分安い大好きだこと。それなのに、たった一言で、私の心はドクンと脈打つ。つい、本気にしてしまいそうになる。

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