オルヴェリン

 ───湖を渡ること、しばらくしてようやく陸地に辿り着く。そこは見覚えのある景色だった。オルヴェリン郊外にある森。懐かしき香り。奥には草原が見える。元の世界へと戻れたのだ。二人は急ぎ街へと戻ることにした。


 「しかしその……昨晩のことはもう大丈夫なのか?」


 ヨミソラツカへの渡し船……あの時出会ったのは宗十郎にとって大切な人物。今生の別れとも言える経験をしたのだ。その心中をずっとカーチェは気にかけていた。


 「父と殿は、未熟な俺に喝を入れてくれた。真なるブシドーとしての生き方を伝えてくれた。俺がこの世界に来た理由は唯一つ。正しき道を歩み、その深奥を掴み取るものである。故にカーチェ、俺は平気だ。主君ありきがブシドーに非ず。これは試練、禊ぎなのだ」


 その目には迷いなく、一筋の光が走っていた。ただ盲目的に主君に付き従う童はそこにはいない。己が信念、矜持、誉れに生きるブシドーそのものである。


 「羨ましいものだな、お前には導いてくれるものたちが多くいる。道を誤っても正してくれる。恵まれているのだな」


 それがカーチェにとっては羨ましかった。今も宗十郎には幽斎がいる。きっと彼女?はこれからも宗十郎を支えてくれるだろう。そして昨夜の父と殿の言葉を支えに、彼は恥じることなき道を歩み続ける筈だ。

 自分には振り返るとなにもない。今まで積み上げてきたものは全て砂上の楼閣であった。登っていた山は蜃気楼の如く偽りで、皆がそれに騙されているのを、ただただ童女のように横で見ることしかできない。


 「確かにそれは否定しない。俺は人に恵まれている。この世界で初めて出会えたのが、お主で本当に良かったと、今は心より思うよ」


 思いもよらぬ言葉だった。自分など眼中にないと思っていたが、迷いなくはっきり答えたのだ。自分との出会いは恵まれたものであると。


 「どうした?今更、人を担ぐことでも覚えたか。しかしだ、露骨な持ち上げは人を不愉快にさせるものだ。騎士でありながら民の苦しみに気が付きもしなかった哀れな女だよ」


 理想だけを求め続け上を見続けていた。足元で苦しむ人々のことなどまるで見えていなかった自分が、カーチェはひたすら愚かだと自嘲する。


 「いいやカーチェ、お主はそもそも我らとは違う。この世界に生まれ、歩み続けている。俺にはもうこれ以上の出会いはないだろうが、お主はこれから多くの人々と出会い別れ繰り返すのだ。ならば嘆くのはまだ早い。お主自身が変わり、新たな見識の扉を開けば、また別の世界が見えるというもの。事実、俺とも出会えた。それは不服か?」


 その目は決して嘘偽り無く、決して人をおだてるような意図は籠もっていない。宗十郎はただ本心から伝えているのだ。嘆くことはないと。


 「は、昨夜父と主君に叱責を受けていたお前が言うのか宗十郎。その言葉は何よりもお前がかけてほしかった言葉だろう」

 「む……むぅ……そこを突かれると弱いな……」


 冗談めいた口調でカーチェはそう答えると、宗十郎は困ったような表情を浮かべる。そんな様子が、今までの彼とは違う印象を受けて、思わず頬が緩む。境遇こそは違えど同じなのだ。彼もまた、この世界で今までにない事態に直面し、思い悩んでいる。それでも目の前で気の沈んでいる自分を見て、たまらず慰めの言葉を……いやそれは考えすぎだろう。


 「悪い、少し意地が悪かったよ。ありがとう宗十郎。気が楽になった」


 宗十郎は軽く返事をし、その後、二人は会話なく無言で街に向かう。だが決して気まずいものではなかった。 


 「幽斎さんやリンデは見えないが……宗十郎、まずはその怪我を治療しよう」


 森を抜け、草原を歩き、宗十郎たちは元の世界……見慣れた都市に戻っていた。病院に連れて行くと宗十郎の傷は想像以上に深刻で大げさに医者は包帯を巻いている。


 「感謝するカーチェ。俺はもう大丈夫だ。お主は……することがあるのだろう」


 宗十郎は湖での話をまるで理解していないわけではない。オルヴェリンが行っている凶行……カーチェの意思は既に決まっていた。


 「……あぁ。私は一度、五代表に此度のことを報告するつもりだ」


 此度の出来事。民草への差別だけに留まらず非道なる人体実験。目的さえも分からぬ悪逆な振る舞い。これを五代表は知っているのか。カーチェはその胸に志した正義の心と共に、中央庁へと帰参するのだった。


 ───オルヴェリン議事院。城塞都市オルヴェリンは複数の国家が併合し出来上がった都市国家である。かつての国家主席を五代表と呼び、多数決制度により国の方針を決めているのだ。そんな彼らが集う場所こそが議事院と呼ばれる施設である。


 「おや、カーチェ様、お帰りになられたのですか。大変でしょう異郷者たちの世話は」


 カーチェはそんな議事院を自由に出入りできる神聖五星騎士の一人である。そんな彼女に一人の女騎士が声をかける。


 「いいや、それほど悪いものではないぞリノン。それよりも五代表秘書官はいないか?面談の約束を取りたいのだが」

 「異郷者を庇うような発言をするなど相当疲れているようですね。火急の用件ですか?すぐに取り持ちましょう」


 リノンはこの議事院に勤める騎士である。その役割は事務的な用務が殆ど。五代表のスケジュール管理や面談希望者との取り持ち、市民の要望の取りまとめなど多種多様に渡る。

 しばらくするとリノンが戻ってきた。


 「申し訳ありません、カーチェ様。五代表が揃うには少し時間がかかるようです。火急の話であればまずは秘書官に話を致しますか?」


 此度、カーチェはオルヴェリンの行う悪逆を問うつもりだった。それは五代表でなくとも秘書官であれば十分であると判断した。


 「それで、火急の用件とはどういった話なんですかカーチェさん」


 応接室で待っていたのは秘書官のオズワルドだった。カーチェはオズワルドに対し今回のことを報告した。黙ってカーチェの報告を聞いていたオズワルドであったが、所々眉間が動き、何か事情を知っているかのような振る舞いであった。


 「話はわかりました。しかしカーチェさんともあろうものがおかしなことを。ヨミヒラツカ?ははっ子供に読み聞かせるおとぎ話ではないですか」

 「同じなんだ。気配が。こちらの世界に戻ってから確信に変わった。感じるんだ!あの時、感じた纏わりつくような悪寒を!オズワルド、何かを隠しているんじゃないのか?」


 オズワルドは立ち上がり、戸棚を開いた。応接用のティーセットが収められてる。手慣れた手付きでコーヒーカップを二つとり、ポットからお湯を注ぐとコーヒーの香りが部屋中に広がった。


 「話が長くなりそうだ。まぁ一杯飲んで落ち着いてください。ミルクはいりますか?」

 「いや……私はブラックで良い」

 「そうですか、私は胃が弱くてね、ミルクを入れないとお腹を壊してしまうんです」


 オズワルドの持つスプーンが勢いよくコーヒーカップの縁に当たる。カーン……という金属と陶器のぶつかる音が響いた。


 「失礼」


 コーヒーにミルクを注ぐ。そしてゆっくりとコーヒーをスプーンでかき混ぜた。ミルクの白色が、まるで渦巻きのように真っ黒なコーヒーの中をぐるぐると回っている。カーチェはそれを黙って見つめていた。


 「カーチェさん、貴方はオルヴェリンの騎士です。ならばオルヴェリンのすることに疑問など抱いてはいけない」

 「いや……私は……疑念を抱いているわけでは……」


 虚ろな目でカーチェは答える。まるで意識は別にあるような振る舞いであった。


 「分かっていますとも。彼らはオルヴェリンの未来の為に必要だった。弱き民を守るために必要なものなのですよ」

 「維持……必要……守るため……」


 気づけばカーチェはコーヒーに浮かぶ白い渦から目が離せなかった。意識は混濁し、定かでない。


 「さぁそのコーヒーを飲んでください」


 カーチェは目の前に差し出されたコーヒーを言われるがままに飲み干した。

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