愛ゆえに
頭の中が真っ白になる。戻れるわけがなかったのだ。帰れるはずがなかったのだ。自分の命燃え尽きたことすら気が付かず、戦い続けていたのだから……。
呆然とする宗十郎とは対照的に、送り人たちは集まり始める。無数の送り人たちは集まり集まり……そして一つの巨大な怪物へと変化した。一体化した送り人たちは一つの生き物のように動き出し始めたのだ。
「危ない!!」
カーチェは咄嗟に宗十郎を抱えて転がる。巨大送り人は、その巨大な腕で宗十郎を叩き潰そうとしたのだ。
「どうやら送り人の中に厄介な者がいたようだ。いるんだ、異郷者にも送り人にもなりきれない半端者。大人しく楽園にも行かず、かといってマトモな精神を持っていないものが……おい宗十郎?どうした?」
カーチェは宗十郎の頬を叩く。そこでようやく気づいたかのように、宗十郎は抱えられたカーチェの腕から離れた。
「……目の前の脅威を排除しなくては……ということか」
巨大送り人はその無数の腕を叩きつける。その隙だらけの一撃は多少武に覚えがあるものなら余裕で避けられるもの。だが───
「ぐっ……!」
あろうことか宗十郎はその一撃をもろに喰らう。苦悶の表情浮かべ地面へと転がる。宗十郎は未だに現実を受け入れ難かった。ここが死後の世界などという現実に。
そんな姿に見ていられないのか、カーチェは剣を抜き、巨大送り人の腕を斬る。その太刀筋は洗練されていて、まるで光の一閃が放たれたようだった。
斬られた腕から青い血液が溢れ、怪物は赤ん坊のような耳をつんざく悲鳴が船に響き渡る。
「どうした宗十郎!?お前らしくないぞ、武器がないとはいえ、あのような相手に苦戦するはずがない!気を持て!お前が戦っている間に私はボートの準備を済ませる!」
カーチェは宗十郎の胸ぐらを掴み必死に訴えるが、まるで別人のように覇気のない姿となった宗十郎にただひたすら困惑する。ブシドーとは、主君あってのこそ。死したこの身で、一体何のために、何がために戦えば良いのか。
巨大な送り人の斬られた腕が再生する。カーチェは宗十郎を庇うようにその無数の手、手、手を切り落とすがきりが無い。何よりもボートの準備、この船から急ぎ脱出をしなくてはならないというのに、当の宗十郎がまるで無力な童のように呆然としていたのだ。
「しまっ……!」
詰めかけてくる送り人たち。甲板は最早、無数の送り人で埋め尽くされようとしていた。対応しきれない。宗十郎に送り人たちの魔の手が来るそのときであった!
「───見てられん。
電光石火。一筋の光が甲板を走る。
一刀両断とはこのことであろうか、しかしながら船は無傷。正確無比に送り人だけを切り裂く一閃が走る。その太刀筋は先ほどのカーチェの一閃とは比較にならないほど荒々しくも、鋭いものであった。
そしてどこか、覚えのあるものであった。
「はは、まだまだガキよの宗十郎」
宗十郎は何者かに襟首を掴まれる。完全に油断していた。一体何者の手によるものか。わからない。わからないのだが、懐かしい匂いがした。懐かしい気配がした。童を、故郷を思い出す、懐かしきもの。
「宗十郎、お主はまだすることがある、こちらに来るにはまだ早い」
そして投げ飛ばされる。宙を浮く宗十郎の落下先はボート。既に何者かがボートの準備を済ませていたのだ。
「い、今のは……」
懐かしい声、だった。
本当に久方ぶりで、ずっとずっと聞いていなかった声。
脳裏に巡るは紅葉舞い散る秋の景色。嗚呼、今のは───。
「ついている!宗十郎乗り込め!この船から脱出するぞ!!」
カーチェは数多の送り人たちを押しのけ宗十郎同様船へと乗り込んだ。そして急いで、船と固定するチェーンを降ろす。
「待ってくれカーチェ!俺は……俺は……!」
降りていくボート。甲板を見る。今しがた自分を投げ飛ばした人物。あれは……あれは!
送り人たちの手がボートへと伸びるがまたもや一閃!かまいたちの如く、鋭い切れ味は、送り人の手を切断する。手助けをするものがいる。宗十郎たちの味方が確かにそこにいる!
大きな音を立ててボートは着水する。最後の固定チェーンを切り離し、ボートは完全に船から離れた。船がボートから少しずつ離れていく。その様子をカーチェは見守っていた。
「ふぅ……大丈夫か宗十郎?かなり無茶をしたが……」
濃い霧。先がほとんど見えぬ中、船は離れていく。宗十郎は見た。甲板に立つ彼らを。言葉を失った。絶句とはこのことだった。ボートから身を乗り出し、湖に飛び込もうとする。
「何をしようとしている宗十郎!気でも触れたか!?」
そうはさせまいとカーチェが宗十郎を羽交い締めにした。だが宗十郎の意識は最早、甲板にのみ。叫んだ。それはブシドーではなく、ただ一人の男として。
「父上!殿!拙者です!千刃宗十郎です!どうして何も言わないのですか!?今、拙者も向かいます!」
気配は完全に絶たれていた。一流のブシドーであれば、己がブシドーを探知されないよう完全にゼロにすることは容易い。だが宗十郎が此度、彼らを探知したのはブシドーではない。それは絆である。血よりも深い絆。決して忘れることのない、親子の絆。まるで童のように叫ぶ。しかし父も殿も応えることはなかった。少しずつ、少しずつ船は離れていく。
「拙者が分からぬのですか!?父上!!殿!!何故ですか!?拙者も共に連れて行ってください!!今度こそは、必ずや殿を……殿を……!」
叫び続ける。そして嫌でも分かってしまう。父だけではない。殿までもがここにいるということに。その事実に。認めたくない事実が積み重なり、思考停止していた。ただブシドーとして、護るべき主君とともにあらんことを、ただそれだけを念頭に、宗十郎は叫ぶ。
だが返事はない。ならばこちらから向かうまでであった。
「離せカーチェ!いるのだ!あそこに俺の愛する者たちが!俺はいかなくてはならんのだ!それが俺の存在理由であり、生まれた意味だ!!」
まるで駄々をこねる子供のようだった。今までの旅で彼のことを知っていたつもりだった。それはただの驕りだった。私は何も知らない。彼が今までどういう人生を送り、どういう価値観で、どういう世界で生きてきたのか。
───だが、それでも一つだけ、確かに言えることがある。
「ふざけるな宗十郎!!それは間違いだ!!そんな生き方誰が決めた!!言ったはずだぞ、初めて出会いともに初めてゴブリンを退治しに行った時!自分の人生を他者に委ねるな!!そんな悲しい生き方……私は許さんぞ!!!」
純粋な怒りであった。今、目の前にいるのは恐るべし力を持った異郷者ではない。ただの何も知らぬ子供なのだ。今まで自分の生き方すらろくに学ぶこともできず、ただ戦うことでしか自分を表現できなかった、ただの子供なのだ。
「違う!愚弄するかカーチェ!ブシドーとは主君に殉じるもの!滅私奉公!生き方とは、人生とは主君が決めるものだ!!」
ブシドーを展開、自身の筋肉にエンチャントし、羽交い締めにするカーチェを振り払わんとする。その時であった!
「…………うぅッ!?」
重くのしかかる圧力。船の方から解き放たれたのだ。それはブシドーであった。船上の父と殿が放ったのだ!困惑しながらも宗十郎はそれを受け止める!
───記憶が突如蘇る。それは古い記憶。かつて未だ戦場に出ることさえ許されなかった、修行ブシドーの時の記憶。
「戯け者が!履き違えるな!!ブシドーの本懐を!!」
膝をつき、崩れ落ちている未熟な自分。父は怪我をしていた。もう自分は一人前であることを見せつけようと、無茶をした結果、命の危機に瀕したところを庇ってくれたのだ。子供ながらの言い訳であった。ブシドーならばいつ死んでも悔いはないと。反抗心故に出た稚拙な言い訳をした結果、父は激怒し、それを眺めていた殿もまた冷たい目で見ていた。
「主君のために命捨てることは本質ではない。良いか、真なるブシドーは誉れを尽くすもの。ただ主君に媚びへつらい、言われるがままに生き、そして死ぬのはブシドーではない。それは奸臣、即ち主君にとっても最も害ある死すべき寄生虫である!ブシドーが主君のために命捨てる時とは、その結果なのだ!誉れある選択の末である!」
ただ武力を持つだけでなく、ただ尽くすだけではなく。ブシドーとは誉れを持たなくてはならない。そこに主君は関係ない。道を踏み外したのであれば、正しき道を歩ませるのが、ブシドー。そしてその本質は、決して主君ありきではないということである。
踏みとどまる。ボートのへりに足を乗せ、今にも飛び出そうとするその肉体を抑える。歯を噛み締め、目からは自然と涙がこぼれていた。
「拙者にまだ、ここに残れというのですか……主君を護れなかったこの恥知らずに」
言い訳であった。そこにブシドーはない。あの時と同じだった。激怒する父と、冷たき目を浮かべる殿。視界には見えずとも、そんな気配を感じたのだ。
故に言葉とは裏腹に、宗十郎はそこから動こうとしなかった。少しずつ小さくなっていく船をただただ見守り続けた。甲板に立つ二人のブシドー。今生の別れの如く、こちらをまた見つめている。ただ恥であった。何もかもが馬鹿らしくて、父と殿に喝を入れられようやく正気を取り戻す自分に。突然身体を翻される。そして思い切り頬を殴られた。カーチェの鉄拳だった。よく見るとカーチェの目は潤んでいた。
「宗十郎!何をしている!あそこにいるのは、お前の愛する人なのだろう!」
カーチェは叫んだ。殴られた男は、唖然とした表情でこちらを見ていた。まるで行き先を見失った子羊のようだった。
「見ろ!彼らはお前を黙って見ている!わからないのか!?彼らがお前に何を求めているのか!!私の知る宗十郎は、そんなにも弱い男だったのか!?」
指を差した先、父と殿がただ黙って見ている。それは信頼。一人のブシドーが巣立つ時を、ただ信じて、離れていく船の上で微動だにせず、ただ、ただこちらを見ていた。
───ならば、その礼節には応えなくてはならなかった。
「我が名は……我が名は千刃宗十郎!その命、最後の命……!承った!我が異郷者としてこの世、生まれた意味を為すまで……為すべきことを為すまで!千刃の……殿のブシドーとして恥じぬ生き様を誓おう!!……父上!!どうか……どうか……お達者で!!」
不細工な口上であった。声に芯は通っておらず、涙声で掠れたもの。とても合戦では発することは許されないもの。だが……。
空が裂かれる。
あれこそは父の奥義、無明の剣。その刃、空を断ち、因果を破る。
夜空に浮かぶ雲集は裂かれ、月明かりが船を照らす。あれは手切れの一撃。愛する我が息子への手向けに放つ、最後の教え。
それ以上の、返事はない。消えていく。湖の先に見える新たなる世界へと。
月明かりの下、父と殿が……。その姿は、一寸にも満たぬ小さき姿。だが満足げに、常世の懸念を払拭したような、半人前のブシドーが、ようやく一人立ちしたことを祝福するような、そのような笑みを、ブシドーではなく、ただ魂で感じたのだった。
カーチェはただそれを横で見ていた。並外れた力を持つ異郷者の男の心の奥底。そこに潜む本心は変わらない。ただの人間と同じなのだ。
宗十郎の頬を伝う雫を敢えて指摘はしなかった。きっと指摘すればまたいつものように鉄のような心で閉ざしてしまうだろう。今はただ、彼の最後の別離を、ただ純粋に感じていて欲しかった。
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