遠く離れたこの地で
火山に併設された温泉施設は巧妙に隠されていた。それは亜人たちが使う秘密の場所。窮屈ではあるが相応の設備が整っている。
「火山にこんなところがあるとは驚きだな……」
小規模ながらもちゃんとしている施設にカーチェは驚嘆を隠せない様子であった。
「エルフによる人払いの結界とドワーフによる対人迷彩の建築方式が施されています。定期的に場所を変えていますし、人間がここに辿り着くのは不可能です」
リンデは入り口に「空き」と書かれている札をひっくり返す。裏面には「使用中」と書かれていた。貸し切りが基本だという。
建物の中は簡素ではあるがしっかりとしたもので、身体を休めるには最適である。男湯と女湯。宗十郎たちはそこで別れ、お互い湯船に浸かり一時の安らぎを得るのだ。
「ふぅ……すまぬ殿……拙者は……未だ殿の安否を確認していないというのにこんなところで……しかし……これも万全を以て馳せ参じたいが為……どうか許してくだされ……」
宗十郎は露天を眺め、郷愁に浸る。例え千里離れていようとも、同じ空、同じ星のもとならば、いずれ巡り会える。そう思えば苦ではない。だが此度は同じ空の下ですらない。今も殿が、仲間が……悪しきトクガワの追撃を受けている。やはり胸中穏やかではない。
だが今の自分には、元の世界に戻る手筈が何もない。無力、無能……ブシドーとして死ぬことすら許されぬ、この苦しみ。今はただ……我武者羅に手がかりを探り寄せるしかないのだ。湯船に浸かり至極の時を過ごしていた宗十郎であったが、人の気配を感じ身構える。
「何者だ、此度は貸し切りのは……ず……」
「久しいなシュウ……その……昔はよく共に入ったな、久々にお前に背中を……あっ」
そこに立っていたのは女体!否、師匠である幽斎であった。すぐさま宗十郎は立ち上がり、無言で浴室から立ち去っていった。その姿を幽斎は名残惜しそうに手を伸ばす。
「やはり……この姿になってからシュウとの距離感を感じる……裸の付き合いをすれば……多少は愛弟子ポイントが上振りになると思ったが……くぅ……」
一人桶に湯を汲み、流す。ハーピィの吐瀉物によりこびりついた臭いはおそらく落ちただろう。これでシュウも少しは距離感が狭まるはずだと……そう思いたいところであった。
「あぁ……しかし久しぶりの風呂だというのに……何故だろうな……こんなにも満たされぬ気持ちで一杯なのは……」
思い出す。愛弟子との日々を。隣にはシュウがいて、よくブシドーの心得を共に語り合ったものだというのに……いつからこんなにも……距離が開いてしまったのか……頬を伝う一雫。歳を重ねると涙もろくなってしまう。いけないなと思い拭う。
少ししてのことだった。ガラリと音がした。浴室の戸が開いたのだ。慌てて浴室から出ようとする。今の自分は女体の身。男湯にいるのはまずいと思い。
「師匠、急ごしらえではございますが、これで問題はありませぬ」
そこにはシュウが立っていた。頭部に目隠しのようにタオルを巻き付けて。
「プッ……な、なにをしているのだシュウよ!お前、それはふざけているのか?」
「ふざけてはおりませぬ!師匠は師匠でありますが、女体の身!ブシドーたるもの例え師匠であっても、婚姻前の女体の裸を直視するなど無礼千万!さぁ師匠、お背中を流しましょう。穢れは十分に落ちていませぬ」
「しゅ、シュウ……!」
幽斎は感激極まっていた!やはり愛弟子は自分に対する愛情を忘れてはいなかったと!こっちだこっちと宗十郎の手をとり洗い場へと誘うのだ。ブシドーであれば例え視界を塞がれていても、空間を把握することは可能である。これを心眼と呼ぶ。故に別に幽斎が手を繋いで誘導する必要は皆無なのだが、それはそれである。
「では……失礼致す」
宗十郎は師匠の背中を流す。かつては老齢でありながら、それを感じさせない鍛え抜かれた背筋、そして広い背中があった。しかしこうして触れるとそれはやはり女体のそれ。小さく柔らかく、シルクのようで強く擦ると傷がついてしまいそうで躊躇してしまう。
それは肩、腕……全てであった。当然である。幽斎の肉体は完全に女性なのだから。こうして目を閉じれば確かにそこには師匠のブシドーを感じる。ただそれが宗十郎の心痛めた。だが……それとは別にもう一つの思いが生まれていた。
「ふふ……懐かしいなシュウよ……昔はよくこうしたものだな……あれから幾年たったか……瞼を閉じればついこの間のようだと言うのに、男の成長とは早いものだ」
「師匠……。無礼を承知でお尋ねしたいことがあるのですが……不愉快でしたらどんな罰でも受けましょう……ですがどうしても尋ねたいのです」
それはまるで今生の別れのように決意めいた態度であった。そんな宗十郎を落ち着かせるように穏やかな声で幽斎は応える。
「今更なんだ、儂とシュウの関係で無礼などあるものか。師弟であるがその絆は親子……いやそれ以上のものであると信じている。話せ。何だ?好きな子でもできたのか?」
「師匠は……御身だけではなく……心まで女性になってしまわれたのですか?」
幽斎は吹き出す。冷や汗が吹き出す。顔が青ざめる。
「な、な何を言っておるのダ?あた、儂の心が女性?ちょっと意味わからないデスガ」
宗十郎は黙り込む。幽斎の態度は明白であった。目は見えずとも高まる心拍音、発汗、脳波の乱れ……それは明らかに動揺を示すサインであった。
「師匠……師匠は拙者を信頼していないのでしょうか?例え師匠が身も心も女性となったとしても、拙者にとって師匠は師匠、変わりありませぬ。故に、どうか無理をしないでほしい。師匠が選んだ道を、弟子の拙者が否定するなど……ありえぬこと……なのですから」
それは宗十郎の告白に近いものであった。そして何よりも幽斎自身が欲しい言葉であった。取り繕う必要などない。本当の自分を受け入れるという言葉。願ってもいない言葉だった。
だが……だがしかし、その言葉とは裏腹に宗十郎の言葉には悲壮感が漂っている。感情を押し殺している。幽斎はブシドーの達人。押し殺した心の内など簡単に看過できるのだ。
故に……師として幽斎が取る行動は一つだった。振り向き、目隠しをしている宗十郎の背中と頭をそっと手にとり、そのまま胸に手繰り寄せ抱擁する。
「バカ弟子が。お前は自分で答えを出しているではないか。そのとおりだ。儂は儂。お前の師匠であることに変わりはない。何一つずっとな」
幽斎にとっては愛弟子のことこそが第一なのである。それはブシドーとしてではなく……一人の師として。共に修行し、成長を見守ったもう一人の親として。
「し……しょう……はい!いえ、やはりそうだと思っていました!あの剣聖、万葉の太刀筋、流仙歌尊、武芸文芸百般!様々な逸話で名を馳せ異名を持つブシドーの中のブシドーともある師匠が!よもや、よもやその心が女性になるなど!ありえぬ話!ですが……不安だったのです。拙者はどうしても聞きたかった、確かめたかった!しかし師匠は師匠である!あぁ、拙者この世界に来て一番の感無量……!申し訳ありませぬ……拙者……拙者は女々しいと分かりながらもあらぬ邪推で師匠のことを……!!」
堰が壊れたかのように、今までの思いを吐き出す宗十郎。それをまるで息子をあやす父親……というよりも母親のように頭を撫でながら受け止める幽斎の姿があった。
そして、幽斎はこうも考えている。これで愛弟子ポイントはカンスト突破!最高のパーフェクトコミュニーション!完全に宗十郎の心を掴んだと!宗十郎に感づかれないように心はブシドーで抑えるがニヤケ面が止まらないのだ!
だが同時にそれは……アイドル、ゆうゆうとしての自分を絶対に受け入れてもらえないということも意味する。その意味を理解し、深く後悔するのはそのすぐ後でのことだった。
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