第7話 あぎと―2

「それは……。本当のことなんですか、メルヒオール」

 ヨーゼフの声はかすれていた。壁に切り込んだ炉に燃える火の明るさが、やにわに遠のいた思いだ。

 ここは竜の尾にある、赤煉瓦造りの一軒家。家同様古びており、家具調度も簡素であるものの、掃除や整頓がよくなされた広々と心地良い居間に、ヨーゼフとアドルフはいる。

 ヨーゼフの言葉に頷いたのは、白木のテーブルの向こう側、どっしりした肘掛け椅子に座を占める、黒髪の男だ。形の良い頭部を、水晶の象嵌された金のサークレットで飾っている。浅黒い凛然とした顔立ちは、深い知識に裏打ちされた沈着冷静さ、強靭な意志力を宿している。だがそのダークブルーの目には、屈託が翳りを落としていた。立ち衿の白いローブ、黒紫のケープをゆったりとまとった男―――魔術師メルヒオール・イェレミアス・ラインヴァイスシルトは物憂げに、

「私はこんな時にいい加減なことを言う男ではないよ。地震、雷雨、シュヴァルツブルグの異変……。これら一連の出来事は全て、黒い竜の目覚めを示唆している。それも憎悪と怨嗟を伴った目覚めだ。あの漆黒の魔物たちと相対した君たちならば、その凄まじさが分かるだろう。魔物たちは黒い竜の眷属なのだ。従って魔物のまとう意志や気配は、主たる黒い竜のそれを反映したものだ。……ヴァイスたちが黒い竜にした仕打ちを思えば、その憎しみと怨みの凄まじさも故なきことではないだろう」

「ヴァイスめ……。どこまで我欲を満たせば気が済むんだ。奴らにとって邪魔な存在をどこまで排除すれば―――」

 アドルフの口ぶりに怒りが滲む。ヨーゼフとてその思いは同じだ。だがこの時、皮肉屋で美男の魔術師の心に兆していたものは別の思いだった。

 メルヒオールは口にしなかった、―――魔物たちがまとう死の穢れを。魔物たちの憎悪と怨嗟に気付いていながら、メルヒオールほどの卓越した魔術師が……。

黙してしまったヨーゼフに、アドルフは怪訝そうな眼差しを向けた。

「ヨーゼフ?どうかしたか?」

「いえ何も、アドルフ。シャッハブレッドに戻ることを考えていたんです。ライニとぽこにこの話を伝えたいですし、何より二人が心配です」

「そうだな。メルヒオール、邪魔をした」

 紫紺のマントを翻したアドルフに、ヨーゼフは続こうとし―――。

「メルヒオール」

「なんだね」

「ライニが言っていました。貴方に会いたいと、貴方は自分の父親代わりだと」

「……!」

 メルヒオールがダークブルーの目を見開いた。ヨーゼフはそれに気付かぬふりをし、

「ライニの思いはわたしの思いでもあります。わたしたちは貴方を家族だと思っています。―――貴方がもう、一人で傷や痛みを負う必要はないんです」

「……君は……」

 闇色の双眸がメルヒオールを見つめる。メルヒオールが何かを口にする前に、だがヨーゼフは背を向けた。アドルフは訝しげな様子だったが、この武人も愚昧な男ではない。メルヒオールやヨーゼフに問いかけたりすることなく、広々とした居間を後にする。

 残されたメルヒオールは黙していた。凜乎とした面差しが、僅かの間に窶れたようだ。ややあってメルヒオールは吐息をつき、

「……家族、か。ヨーゼフ、アドルフ、ライニ、ぽこ……。私はもう、……一人ではないと思って良いのか……」

暖炉の火がはぜた。ダークブルーの瞳の中で、炎が揺れる。


 ラインハルトの背丈の五倍はある、無機質で広壮な灰色の塀。冷たく閉ざされた灰色の扉―――竜のあぎとで展開されているのは、異様な光景だった。その混乱に巻き込まれまいと、ラインハルトは塀の傍らに身を隠した。ぽこがラインハルトの腕をしっかと握る。

「シャッハブレッドの人々よ、私は何度同じことを言えば良いのだ」

 夜闇の恐怖、雨の冷たさでいよいよ周章し、泣き叫ぶ人々に、扉の前に佇む男は無感動に繰り返すだけだった。氷雨の如く冷ややかなその声の主は、金髪に切れ長の碧眼、見事な鷲鼻、面長の輪郭の、整った面差しの青年である。

 しかし面貌の端正さは青年の冷酷をいっそう際立たせ、鍛え上げられた長身の体躯からくる威圧感、切れ長の目の眼光の鋭さも、それに拍車をかけていた。闇に煌めく白銀の胸甲、籠手、風になびく灰色のマント、細身の黒いズボンにブーツ、ソードベルトの片手剣といった隙のない出で立ちから、この青年こそがあぎとの門番なのだろうとラインハルトは思った。―――オイゲン・ゲオルク……。


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