第6話 あぎと―1
黒い魔性の気配が、ラインハルトを眠りからうつつへ引き戻した。
雨が降りそうだという、ラインハルトの予感は当たっていた。家に入って程なくして空が哭き始め、時と共にその激しさをいや増していった。手早く夕食の支度をし、ぽことテーブルに着いた。料理は美味しく、ぽこも一緒だったので、それなりに楽しい食事であった。しかし窓の外に忍び寄る夜の冷たさ、時折響く雷鳴、闇を裂く稲光は、あまり気味の良いものではない。
怯えるぽこを宥めながら、浴室で昼間の汗や埃をざっと洗い、寝支度をしてベッドにもぐり込んだ。眠るにはまだ早い時間だったが、柔らかな枕に頬を埋め、上掛けや毛布の温もりを感じている方が落ち着く気がしたのだ。当然のようにベッドに入って来たぽこを、ラインハルトは咎めなかった。雨音は地を洗い流すかのような激しさになっていたし、雷もひっきりなしに響く。ラインハルトは心細くもあったし、今夜は何が起きるか分からないと思った。―――眠れるうちに、少しでも眠っておこう……。
そうやって数時間は眠っていたのだろう。
「……!」
ただならぬ邪悪の気配に、ラインハルトは目を覚ました。―――憎しみと、怨み……。死の穢れ……。黒い意志……。
ラインハルトは弾かれたように身を起こし、隣で眠るぽこを揺さぶった。
「ぽこ、起きろっ!」
「…うーん、もう食べられませんよお…。じゃがいもとハム…」
「寝ぼけたこと言ってるなっ!…この気配、分からないのか。昼間の黒い魔物たちだぞっ!」
「…それは困ります。スヤア…」
「あー、もう!起きろったらっ」
苛立ったラインハルトは、ぽこがしっかと掴む上掛けを引き剥がした。怨嗟を込めた寝ぼけ眼のまま、シーツの上に座り込むぽこに、
「ヨーゼフと約束しただろっ!シャッハブレッドの街は、私とぽこで守るんだって!」
ラインハルトは強い口調で言い、寝間着を脱ぎ捨てた。傍らの肘掛け椅子に置いておいた衣服を素早く身に着け、ダークブラウンのマントを羽織る。
「……分かりましたよう。ボクも行きますよう。おちび一人じゃ頼りないし」
ぽこは見るからに不承不承といった様子でベッドから降りた。それでも肘掛け椅子にフード付きマントを置いていた辺り、ヨーゼフとの約束を意識していないわけではないようだ。
薬草や護符といった魔道具を手ずれのした肩掛け鞄に詰め、ラインハルトは暗い玄関を飛び出した。その後にネイビーのマント姿のぽこが続く。太い雨足がラインハルトの頬をなぶった。
「あんぎゃああああ!!おんぎょおおおお!!」
黄色い煉瓦造りの家を出るや否や、魔性の気配と雷雨が統べるシャッハブレッドの夜にぽこの大絶叫が響いた。
「おばっ、おば、お化けー!いっぱいいるいっぱいいる!ひいー、ひいー!」
「ぽこ、うるっさいぞ!昼間の魔物が来てるだけだったら!」
かく言うラインハルトとて、泥濘の道を跋扈する漆黒の魔物に恐怖を感じないわけではない。
眼窩に宿る赤い光が、ラインハルトを睨み据える。黒い
しかしぽこの周章ぶりには、かえってラインハルトの平静さを取り戻させる効果があったようだ。―――そう、昼間の魔物が来てるだけなんだ。昼間、ヨーゼフと私が倒した魔物なんだ。大丈夫なんだ!ぽこや街の人を守るんだ!
胸元で手のひらを合わせながら、ラインハルトは呪文を詠唱した。手のひらが白光を帯びたと思いきや、見る間にそれは白い光弾となった。
「…ぐ…っ!」
ラインハルトは歯を食いしばり、光弾を抱える両手を頭上に掲げた。泥濘を踏み締め、純白の光輝を眼前の真闇に叩き付ける。
「………!!」
朽ち果てた顔に驚愕と思しき感情を浮かべ、鉤爪と赤い目の魔物たちは消えた。ラインハルトは吐息をついた。
「……この辺りの魔物は消したみたいだ」
「お疲れ様です、ラインハルト様。ごく僅かというか微妙というかですが、見直してあげないこともないですよ」
「……なんか腹立つ言い方だな」
なんか腹立ったラインハルトだが、ぽこが背に前脚を当て、体力回復の治癒魔法をかけてくれたので、それ以上言うことはしなかった。ぽこはぐるりの匂いを嗅ぎ、
「雨の気配も薄くなってます。も少ししたら雷雨も収まるでしょ。街の人たちも落ち着くと思います」
「ん…」
ラインハルトは頷き、小さな前庭に置かれたチョコレートコスモスの鉢植えを見るともなく見つめた。―――ヨーゼフとアドルフは大丈夫だろうか……。
「―――ライニ。ライニ!」
雨足を切り裂くかの勢いで駆けて来た男がある。長身のがっしりした体躯の見事さは、フード付きの黒いマントの上からでも見て取れた。着ているものは地味なネイビーのズボンと上着だが、身ごなしの敏捷さと力強さ、ソードベルトの片手剣が板に付いた様から、騎士と察せられる。金髪に青い目の精悍な顔立ちをしているが、目元や口元に甘い雰囲気も仄見える、なかなか良い男だ。シャッハブレッドの西の地区で魔道具店を営むこの男は、名をヘルマン・アーデルベルト・フォーアマンという。南の戦乱を逃れて来たシュヴァルツなのだが、紆余曲折を経てこの街に居を構えたのだ。武術の腕前が確かであるのみならず、磊落で人情に篤い性格も相まって、ヨーゼフやアドルフは無論、ラインハルトとも親しくしている。ラインハルトはヘルマンを振り返り、
「ヘルマン!無事だったのかっ。奥方のカリーンもご無事かっ?!」
ヘルマンの大きな手のひらが、ラインハルトの頭を軽く叩いた。
「俺は腐ってもシュヴァルツの騎士だ。おいそれとは死なねえよ。カリーンも無事だ。ヨーゼフの護符と魔法薬が効いたんだな。……と、そのヨーゼフはどこにいるんだ?」
「アドルフと一緒に竜の尾に行ってる。メルヒオールに話があるって。私は二人の留守を預かってるんだ。ぽこも一緒だぞ」
「おばんです、ヘルマンさん」
ぽこが丸ぽちゃのひょうきんな顔を覗かせた。ラインハルトの空色の瞳には、ヘルマンの些か当惑げな表情が映じている。
「なんとも間が良くねえな。……いや、良かったのか知れねえ。ライニ、ぽこ、街の奴らを助けて欲しいんだ。お前たちならきっと出来る」
「何があったんだ?ヘルマン」
ヘルマンの指先が
「南の地区の奴らが、竜のあぎとに向かってるんだ。この雷雨と魔物で恐慌状態に陥ったんだよ。この街の西にはヨーゼフ、東にはアドルフ、北にはメルヒオールっていう、地区の指導者がいるがな。南にはいねえだろ。それに南の地区はあぎとに近い。だから―――」
ヘルマンの精悍な面差しに、苦渋の色合いが浮かんだ。
「奴らはあぎとを通って、ヴァイスブルグに行く気なんだ。ヴァイスたちに助けを求めようとしているんだ。ヴァイスたちにゃ、フィグやシャッハブレッドのために指一本動かす気さえねえっていうのによ」
「………」
ラインハルトは黙した。―――そう、ヴァイスたちは助けてくれやしない。私やヨーゼフ、アドルフを、この街に捨てただけだ。カリーンのこともこの街に追いやった。ヴァイスでありながら、シュヴァルツのヘルマンと恋仲になったっていう「罪」のために……。
―――ヴァイスたちにはフィグかそうじゃないかより、自分たちにとって都合が良いか悪いかの方が大事なんだ。そして不都合な私たちを見捨てるだけなんだ……。
ラインハルトの屈託を見て取ったのだろう。ヘルマンは気まずそうに、
「…悪い。俺の言葉が過ぎたな、ライニ」
「ううん、ヘルマンは悪くない。それより、南の地区の人たちを守らなきゃ。私は竜のあぎとに行くから、ヘルマンはここ、西の地区を守ってて欲しい。アドルフが言ってたんだ、―――あぎとの門番には気を付けろって」
「アドルフもえらく警戒したもんだな。オイゲンの奴も誤解され易い質ではあるけどよ、だが悪い奴じゃねえ。それは俺が騎士の名誉と黒い竜の名に賭けて誓う。ライニ」
夜目にもしるきヘルマンの青い目が、ラインハルトを真っ直ぐに見つめた。
「俺はこれ以上傷付いて欲しくねえんだ。ライニにもぽこにも、ヨーゼフにもアドルフにも、カリーンにも。そしてオイゲンにもよ」
「……うん」
ヘルマンの言うこと全てに得心がいったわけではないが、ラインハルトは頷いた。
「…私もこれ以上シャッハブレッドの皆に傷付いて欲しくないし、守りたい。ヨーゼフにもそう約束した。私とぽこは竜のあぎとに行って来る。ヘルマンは街の人とカリーンと、それからヘルマンの心も守って欲しいんだ。ヘルマンの心を、一番」
「……」
ヘルマンはその青い目を束の間丸くしたが、直ぐと持ち前の磊落な笑い声をあげた。大きな手のひらがラインハルトの頭を撫でる。青い目に滲む光は柔和だ。
「おあ、何するっ!髪がくしゃくしゃになるっ」
「任せとけ、ライニ。俺はもう痛みやしねえよ。お前たちがいるからな。行って来い、ライニ、ぽこ。必ず帰って来いよ!」
「うん!」
ラインハルトが元気いっぱいの頷きを返した。
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