第3話 目覚め―3

 ぐらぐら揺れる泥濘ぬかるみの地面に立っていることは容易ではなく、ぽこを小脇に抱えたラインハルトはその場にしゃがみ込んだ。ヨーゼフの腕が二人を抱き、その背が二人を庇う。ヨーゼフの腕の向こうに、瓦や煉瓦をばらばらと振らせながら崩れ出す家、支えの丸太ごと前のめりに倒れてゆく家が見え、ラインハルトは覚えず身を硬くした。腕の中のぽこも、ラインハルトの胸元に顔を埋めている。

揺れが少しく落ち着いた時、ヨーゼフが立ち上がった。上着のポケットから、先端にルビーの象嵌されたダークブラウンのじょうを取り出す。

「覚めよ、我が魔杖シュラーク!汝があるじヨーゼフ・クラインが命ず。主とその同胞はらからを害さんとする者を滅し、主とその同胞を守れ!汝が力はたけ緋炎ひえん、汝が誉れは叡智と忠誠なり!―――守れ!」

 シュラークの紅玉が鮮やかに煌めいたと思いきや、魔杖は純白の光輝を放った。清らなびゃっこうがラインハルトやぽこ、倒壊しかけた家々、泥濘の路上に蹲る人々をふわりと包む。

「衝撃から守るための防御魔法、怪我や建物の損傷を治すための治癒魔法を同時に使いました。これで地震の余波が来ても耐えられる筈です」

 ヨーゼフの横顔は、清楚でありながら凛とした白薔薇に似ている。ラインハルトは安堵の吐息をつき、

「ありがとう、ヨーゼフ。びっくりしたし怖かったけれど、ヨーゼフのおかげで安心した。やっぱりヨーゼフの魔術はすごいな」

「……ボクもほっとしました。ありがとうございます、ヨーゼフ様」

 ヨーゼフの表情が和らぎかけ―――凍り付いた。闇色の双眸が見据えるものは泥濘んだ地面だ。いや違う。

「……なんだ、あれ……?」

 ラインハルトの声はかすれていた。手のひらに気味の悪い汗がじっとりと滲む。―――揺れは収まっている。そうじゃなかったとしても、泥濘はあんなにぐねぐね動いたりしない。光を放つ玉が、泥濘に幾つも埋め込まれているわけがない。

「……あの赤いものは目……。黒い魔物……?」

 泥濘から立ち現れつつある漆黒の異形たちに向かい、ラインハルトは呆然と呟いていた。窪んだ――髑髏を思わせるほど深く――眼窩に赤く禍々しい目を光らせ、骸骨に似た輪郭の腕を何本も突き出している。艶の失せたザンバラの髪を埃っぽい風になびかせ、骨ばった首の前後左右に頭を幾つも連ねている。奇妙に長い腕と鉤爪を不穏に揺らしている。異様な出で立ちの漆黒の魔物、魔物、魔物だ。

「どうやらそのようです、ライニ。しかし地震に慣れたと思った矢先に魔物ですか。白い竜だか黒い竜だか知りませんが、ぞうぶつしゅというのは実に粋なはからいをなさる方です」

 ヨーゼフは持ち前の皮肉な様子で言ったが、闇色の目は全く笑っていない。

 魔術師の言葉が何かの合図であったかのように、黒い泥濘の魔物たちは人間には不可能な大きさで口を開けた。そのまま煮えたぎるでいを思わせる声と黒い液体を吐き出しながら、ラインハルトたちに襲い掛かる。やみの鉤爪と赤い目は、シャッハブレッドの魔術師とその弟子に狙いを定めている。液体のかかった石塀が蝋燭のように溶け、幾つもの穴が開いてゆく。―――強力な毒液なんだ……!

 左腕でぽこをしっかりと抱き、ラインハルトは右の手のひらを魔物たちに向けた。手のひらが紅蓮の炎をまとう。えんじゅつ魔法を放とうとしたラインハルトに、

「ライニ、治癒魔法です!治癒魔法を使ってください、この魔物たちに!」

 ヨーゼフの鋭い声が響いた。魔杖シュラークは既に、しろの光輝を帯びている。傷を癒す筈の治癒魔法を何故魔物に使うのだろうと訝る暇もなく、ラインハルトは呪文を詠唱していた。炎が清らな白光へと変わる。常は物憂げで沈着なヨーゼフの気迫にされた形だ。

「滅せよ、シュラーク!」

 ヨーゼフの凛然たる声が、曇天と澱んだ空気を引き裂く。魔杖の紅玉とラインハルトの手のひらが、純白の光芒を魔物に放つ。

「………!」

ラインハルトが空色の目を見張った。治癒魔法の白光に呑まれ、漆黒の魔物たちは消えた。禍々しい赤い目、異様な長さの腕と鉤爪、髑髏や骸骨に似た、死を連想させる魔物たちは。

 汚濁の悪夢のようだと吐息をつきかけ、―――ラインハルトの頬が強張った。石塀に穿たれた幾つもの穴は、漆黒の魔物たちの存在がうつつであったことを冷ややかにあかしている。

 だがともあれ魔物は消えたのだと、ラインハルトは額の汗を拭った。落ち着きが戻るにつれ、師ヨーゼフの判断への驚嘆が募る。ラインハルトは魔杖をポケットに仕舞うヨーゼフを見やり、

「ヨーゼフ。治癒魔法で黒い魔物たちが消えたのはどうしてなんだ?怪我や損傷を癒す魔法なのに。ヨーゼフの判断はすごいって思うし、おかげですごく助かったけど」

「魔物たちがまとう憎悪と怨嗟の凄まじさには気付いたでしょう、ライニ」

 ヨーゼフの口ぶりには常の物憂さが戻っている。ラインハルトは頷き、

「うん、気付いた。それから禍々しさ、穢れ、死の気配を強く感じた」

「さすがですね、ライニ。わたしも同じことを感じていたんです」

 ヨーゼフは皮肉らしくなく言い、ラインハルトを見つめた。

「あの負の激情は呪詛に似ています。いいえ、強烈な呪詛をこの世に放っていたと言って良いか知れません。そして死の穢れも共に。ですから治癒魔法―――呪詛や邪術じゃじゅつ、穢れを祓う聖なる魔術を使ったんです。怪我人たちを癒すことも出来ますしね」

「そうだったのか……。私もヨーゼフみたいな知識、判断力を身につけたいなってすごく思う」

 ヨーゼフはふふと笑い、愛弟子の明るい金髪を撫でた。

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