第2話 目覚め―2

 荒涼たる北の果ての曇天どんてんの下。シャッハブレッドの街の西の一隅に、元気いっぱいの少年の声が響いている。

「ただ今帰ったぞ!ヨーゼフ」

 声の主は、明るい金髪、ぱっちりした空色の目の少年だ。面差しに聡明と高雅の気配はあるが、頬の辺りは子どもらしくふっくらとしている。端正というよりまだまだ愛らしさが優勢なこの少年の、年の頃は十二になるやならずやといったところだろう。白いシャツの襟元に赤いリボンを結び、チョコレート色のウエストコート、膝下丈のカーキ色のズボン、爪先の尖ったショートブーツを一着に及んでいる。ダークブラウンで裏地が赤のフード付きマントを自慢気にひるがえしている。右手に型崩れのした買い物かごを下げ、肩にビーグル犬のぬいぐるみを担いでいる。

 いや、担いでいる、と言うには語弊がある。白地に赤茶、黒の模様の入った丸ぽちゃの犬のぬいぐるみが、愛嬌たっぷりの顔で少年の肩にぶら下がっているのである。丸い顔の真ん中に大きめの鼻が鎮座した、きかん気の色合いも仄見えるビーグル犬は、ヨーゼフにふかふかの前脚を振って見せた。首に巻いた赤いスカーフがひらひらと揺れる。

「ただ今帰りましたあ、ヨーゼフ様!」

 灰色の三角屋根、黄色い古びた煉瓦造りの家の前で、チョコレートコスモスの鉢植えの手入れをしていた黒髪の青年――名をヨーゼフというらしい――が顔を上げた。やみいろそうぼう、雪白の肌の美しい、秀麗な青年だ。年は二十代半ばと見える。男にしてはやや小柄だが、すらりとした体躯をしている。小さな前庭の手入れをしていたからだろう。白いシャツに地味な色合いのウエストコート、ズボン、ブーツといった格好だ。だがよくよく見れば衣類は古いながらも丁寧な手入れがされているし、着こなしも瀟洒だ。しゃっこうと共に揺れるルビーの耳飾りも、この青年の伊達男ぶりをさり気なく覗かせているようである。ヨーゼフは穏やかな眼差しを少年に向け、

「お帰りなさい、ラインハルト、ぽこ。おつかいをありがとうございます。…って、またそのマントを着て行ったんですか?」

 ヨーゼフはその伸びやかな柳眉を少しく上げ、

「ライニ。十二歳の誕生日プレゼントを、貴方が気に入ってくれたのは嬉しいです。ですが歩いて数分のヘル・クランツの雑貨店に行くのに、それを着けることはないでしょう。いつものテラコッタのマントで良いんじゃありませんか」

 ヨーゼフの言葉に、ラインハルトは頬をぷうっと膨らませ、

「あれはヨーゼフのお下がりだから、こっちの方が良いっ!カッコいいし、暖かいし。何より生まれて初めてもらった新品のマントなんだからっ」

「……」

 ヨーゼフは黙した。この街で新品かつ上等の衣類が手に入ることは稀なのだ。十二歳で初めて新品のマントをもらったというラインハルトの言葉に、胸を突かれる思いがしていた。

「……分かりましたよ。でも古いマントも着てくださいね。ここのところ変なお天気が続いていますし。雨水や泥はねで汚れると、マントの傷みが早くなりますから」

「うん!」

 ヨーゼフの屈託に気付かぬラインハルトは元気いっぱいに頷き、買い物かごを差し出した。

「これ、頼まれてた牛乳とパン。それと、ちょっとだけどお砂糖。お砂糖が入ったってヘル・クランツが教えてくれたから、残りのお金を全部使って買ったんだ。南から逃げて来たシュヴァルツの商人が売ってくれたお砂糖なんだって。ヘル・クランツがお金の額よりお砂糖を多く売ってくれようとしたから、手持ちのエキナセアのお薬も渡して来たんだ」

「ありがとうございます、ライニ。助かりますよ。この街で砂糖は貴重品ですからね。後でヘル・クランツにお礼に行きます。ローズヒップのお薬も持って行きましょう」

「うん!ヘル・クランツはヨーゼフのお薬はよく効くって、おかげで足の痛みも治ったし、風邪もひかなくなたって、喜んでいたから。ローズヒップのお薬も、きっと喜ぶと思うんだ!」

 買い物かごを受け取ったヨーゼフは、優しい闇色の目でラインハルトを見つめた。だが直ぐと真顔になり、

「それにしてもライニ。ここのところシュヴァルツブルグから逃げて来る人たちが増えているようですが、南方の戦乱はまだ激化しているんですか?昨年のブレネンの戦いで指揮系統は軒並み壊滅し、戦争が継続出来る状態にないと聞いていますが」

「うん、私もおんなじことをヘル・クランツに聞いたんだ。そしたらシュヴァルツの人たちが逃げて来るのは戦乱のためだけじゃなくって、ここと同じ、地震や雷雨が頻発するためだって。それだけじゃない。雹や霰も降って、蝗の大群までやって来たんだって。いくさで荒廃した土地がそんなことになったら、もう農産物は育てられない。だから南から逃げて来た人が増えるんだって」

 ヨーゼフの暗い目が、雨で泥濘ぬかるんだ足元を見つめた。

「……シュヴァルツの人たちはどこへ行くんですか?」

「シュヴァルツブルグのもっと南の原野を開拓するか、居場所を探して放浪するかだって、ヘル・クランツが言ってた。でもここに住もうって人はいないみたいだ。シュヴァルツの人たちもヴァイスの人と同じで、……私たちフィグもこの街もあんまり好きじゃないみたいだから」

「そうですか……」

 ラインハルトとヨーゼフの声に屈託が滲む。白としても黒としても在(あ)ることが叶わぬ痛み、疎外される痛みを、二人はいやというほど知らされている。己の過去がその痛みを突き付けている。

 ラインハルトの肩に掴まり、もじもじしていたぽこが口を開いたのはその時だ。

「あのー、ヨーゼフ様」

「どうしたんです?ぽこ」

「お砂糖は何に使うんですか?」

「お前ってば食べることしか頭にないのか。食べてばっかりいると、丸々ころころお団子犬になっちゃうぞ」

 ラインハルトは呆れた顔でぽこを見やったが、ビーグル犬のぬいぐるみは少年の肩からぽんと飛び降り、

「お・さ・とうっ。お・さ・とうっ!おいしーい!」

「私の言ってることを聞けっ!呑気に歌ってるなっ!」

 呑気に歌って踊っているぽこに、ラインハルトは怒り出したのだが、

「とうっ!」

「どさくさ紛れに私を蹴るな!」

 脛を蹴られたラインハルトが、ぽこの頭をこつりとやった。ぽこが大仰に泣き始める。ヨーゼフは苦笑しながら、

「ライニが牛乳も買って来てくれたことですし、卵もありますからね。こないだフラウ・アマンにいただいたかぼちゃも。ですからかぼちゃのパウンドケーキを作ろうと思うんです」

「やったあ!ヨーゼフの作るかぼちゃのケーキは、すごく美味しいんだっ!」

「うほほーい!うほほーい!おいしーい!」

 泣いた烏がもう笑うという古人の警句を、ぽこは見事に体現している。もっともヨーゼフはぽこのそんな性格には慣れっこのようで、

「パウンドケーキなら、お裾分けも出来るでしょう。アドルフは甘いものが好きですし、メルヒオールも嫌いじゃありませんからね」

「うん!皆で食べた方が美味しいし、嬉しいしっ」

 にっこりと笑うラインハルトの傍らで、ぽこは声音に地獄の怨嗟を滲ませ、

「……皆で食べたらボクの取り分が減るじゃないですか」

 ぽこの頭をラインハルトがごつりとやった。

「意地汚いこと言うなっ!丸々ぽんぽこお団子かぼちゃ犬っ!」

「あー、いちゃいいちゃい。ヨーゼフ様の一番弟子と称する粗暴なおちびが、いたいけなビーグル犬使い魔をいじめるー!」

「称するってなんだ、称するって!私は正真正銘、シャッハブレッドの魔術師ヨーゼフ・クラインの一番弟子、ラインハルト・ハイデル・ブロイエフリューゲルだっ!」

こうして取っ組み合いを始めた一番弟子と使い魔に、ヨーゼフが何かを言いかけたところ―――。

 世界が揺れた。

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