LAST PAGE「I.R.」
〇
それからさらに一週間が過ぎ、四月になった。空は快晴で、今までの寒さが嘘であったかのようにこの日は暖かい日差しが差していた。
大学の入学式を明日に控えている陽子は、朝から私生活のアルバイトに来ていた。ただし探偵助手の活動ではなく、喫茶店の店員としての仕事だ。白いブラウスの前には、黒いエプロンをかけている。マフラーはさすがに気温が高くなったので、家に置いてきた。
とは言っても、店内に客はいない。サンドイッチ用のきゅうりを仕込んでいる陽子の他にいるのは、B5判のノートに何やら書きこんでいる茂と、カウンター席でレモンスカッシュを飲みながらスマートフォンを触っている愛流ぐらいだ。その愛流は席の側に登山でもするのかと疑いたくなるような大きめのリュックサックを椅子にもたれさせ、カウンターテーブルにはヘルメットを置いている。姿も陽子が初めて会った時と同じ、ジーンズと白のTシャツ、その上に黒のライダースジャケットという恰好だった。
愛流は今日から再び旅に出るそうだ。それを聞いた時、陽子は心に穴が空いたような感覚に襲われた。
元々愛流は旅の最中だったのだ。事件が終わり、本来の旅に戻るのは当然のはずだ。
それなのに、なぜショックを受けてしまうのか。その理由が陽子自身にもわからず、無意識の内に眉尻の傷痕を撫でていた。
「そういえば、マスターは何を書いているんですか?」
自分の気持ちをごまかすため、陽子は真剣な表情で書き続ける茂に声をかけた。
「あぁ、なんか今回の事件のことを書いているらしいよ」
答えたのは愛流だった。興味がなさそうな顔をしながらも、カウンター越しにノートを覗き込んでいる。
「今回の事件、ですか?」
「まぁ、ちょっとした思い付きでね」
ようやく茂が顔を上げた。そして調理器具などに当たらないよう気を付けながら伸びをする。
「前に愛流が言っていたことを覚えているかい? 過去に依頼を受けた仕事の記録は一切取らないって。でも、実際何らかの形で残しておけば、後々役に立つことがある。まぁ、愛流にはいくら言っても馬の耳に念仏だから、僕が勝手に愛流が謎を解いた事件を書き残すことにしようと思ってね」
「それいいですね! 愛流さんはきっと意地になって、何が何でもやろうとしないでしょうし」
陽子は白い歯を見せて、ニヤニヤと笑いながら愛流を見つめた。当の本人は拗ねたようにそっぽを向く。
「こいつのタイトルも決めているんだ。探偵愛流が謎を解いた事件記録、略して『愛流録(あいるろく)』なんていうのはどうかな?」
「勘弁してくれ」
愛流は呆れたと言わんばかりにため息を吐いた後「けど、悪くない」と呟いた。なんだかんだ言って、案外本人も乗り気なのかもしれない。
その時、店内に来客を知らせる鈴の音が鳴った。振り返って入り口を見ると、そこにいたのは現在出勤中のはずの里奈だった。
「やぁ、陽子ちゃん」
里奈は手を上げ、笑顔を見せた。しかし次に茂に目を移した時には睨んだものになっていたことからも、まだ父親のことを許してはいないらしいと、陽子は自分が関わっていることを自覚しながらも他人事のように思ってしまう。
「おせぇよ姉貴。イケメンな弟を待たせるってどうなのよ」
レモンスカッシュを啜りながら愛流はジト目で里奈を見る。どうやら姉とここで待ち合わせをしていたらしい。
「うるさい。社会人があんたみたいに自由に動けると思ったら大間違いよ。てかさ、なんで閉店になっているわけ?」
「何?」
茂がノートに書きこむ手を止め、訝しんだ顔を見せた。陽子も里奈の言っている意味がわからず「どういうことですか?」と問う。
「どうもこうも、看板の向きが閉店中って側になってるわよ」
「そんなバカな」
「まぁまぁいいじゃないか、たまにはさ」
驚く茂を愛流はなだめた。その口元には悪戯小僧のような笑みが浮かんでいる。それだけで陽子は、誰がこのようなことをしたのか理解した。
「たまにはって、愛流ねぇ――」
「それより姉貴、そろそろ教えてくれよな。捜査がどうなっているのか」
「刑事を呼び出しといてその言い方はないでしょ」
声では怒りながらも、里奈はため息を吐いて愛流の隣に座った。この弟には何を言っても無駄だと諦めているのかもしれない。その心労に陽子は苦笑しながらも同情した。
「といっても、何から話すべきか――まず、四日前に神野春心が自首してきたわ」
「知っているよ。ニュースでやっていたしね」
言ってから愛流は欠伸をする。里奈は腹が立ったのか、弟の生意気な頬をつねった。さすがに痛かったのか、愛流は顔を歪ませる。
里奈が手を離し、愛流が頬を擦る姿を見ながら、陽子は自身も聞いたその報道を思い出していた。
瀬里奈の葬儀を行った後、神野は警察に出頭し、殺された娘の遺体を池に沈め、死蠟化を試みたことを打ち明けた。報道された事実も、おおよそ愛流が暴いた真相通りのものだった。
その報道を聞いている時、陽子は心臓がつかまれるような思いだった。あの日の、瀬里奈の死体の上で泣き崩れる神野の姿を、嫌でも思い出してしまったからだ。
理解されやすいかどうかの違いはあれど、娘のことで悩み苦しみ、何とかしたいと思った神野は、間違いなく母親だった。それがこのような結末を迎え、これで良かったのか、陽子にはいまだにわからない。
――でも、それで当然なんだ。
陽子は一人、静かに頷く。この世にはきっと、明確な正しさも間違いもない。だからこそ人は迷い、自分なりの答えを見つけるのだ。
その答えが普通か異常かは問題ではない。要は、自分で導き出したか否かなのだ。
「で、美術部のメンバーは?」
愛流が頬杖を突いて訊ねた。里奈は不満げな表情に顔を歪ませながらも、戦うことを諦めたのかため息を吐く。
「あんたが一番気にしているであろうことから言うわね。櫂入くんと芽衣ちゃんは起訴猶予付きの不起訴処分となったわ。つまり今回だけはお咎めなし」
「本当ですか!」
包丁を置き、陽子は歓喜の声を上げた。里奈は笑顔と共に親指を立てる。
「今回は美術部部長の福智院智がその場の全員を脅して隠蔽工作を行わせたってことだからね。特に櫂入くんはその後に神野瀬里奈さんの死体のことで通報しているから、その点が大きかったわ。映画研究部の部員も同じ判断が下されるだろうけど、どちらにせよ深夜の公園で、無許可で宴会を開いていたことが大学にバレたわけだからね。おまけに刑事事件も起きているわけだし、どっちの部活も廃部になるそうよ」
きゅうりをバットに入れ、サランラップをかけながら、陽子は複雑な思いに駆られた。
芽衣と櫂入、そして瀬里奈の三人が繋がれた場を、結果的には壊してしまうこととなった。仕方ないことだとは思いつつも、陽子には上手く割り切ることはできない。
「で、その智くんはどうなったの?」
愛流が欠伸交じりに聞いた。里奈はまた深くため息を吐く。
「どうもこうも、死体遺棄だけじゃなくて、脅迫罪も加わって、今は裁判を待つ身よ。部長がそんな状態の上、副部長は殺人の容疑者でしかももうこの世にはいない。遅かれ早かれ、美術部は解体しかなかったでしょうね」
「まぁ、事件の終わりとしては、そんなところか――」
言いながら愛流は立ちあがった。リュックサックを背負い、ヘルメットを片手に持ってドアへと向かう。
「おや、もう行くのかい?」
茂が目を丸くして聞いた。陽子もまたそのあっさりとした態度に驚いて、愛流の背中を見つめる。
「あぁ。気になっていたことは訊けたし、もう事件に思い残すことはない。俺は一刻も早く旅がしたくてウズウズしているんだよ」
そう言って愛流はドアの鈴を鳴らすと手を上げ「じゃあ、行ってくるわ」と外に出て行った。
「あいつ、人を呼び出しといて――」
里奈が怒りで震える様に陽子は苦笑した。しかしその心には、黒い雲が生じている。
次に愛流がいつ戻ってくるかはわからない。もしかしたらその時には自分が何らかの理由でこの店を辞めてしまっており、もうそれきり会えないなどということもあり得る。
それは嫌だ。そう思うも、陽子は迷っていた。果たしてこのまま自分のわがままに素直になっていいのか。
「陽子ちゃん――」
名前を呼ばれて陽子はそちらに目をやる。茂がウインクしながら、扉を指さしていた。
「話せる時に、話しておくといいよ」
その一言が、陽子には嬉しかった。顔に満面の笑みを浮かべ、急いでエプロンを脱いで店を出る。
店の裏手にある駐車スペース。そこで愛流はバイクに跨っていた。この短期間で何度も乗ったタンデムシートの両端には、初めて会った頃と同じようにサイドバッグが取り付けられている。
愛流が陽子に気付き、ヘルメットを両手に持ったまま「どうしたの?」と声をかけてきた。
「愛流さん、あの――」
しかし陽子の言葉は、中々出てこなかった。
話をしたいのに、言葉が上手く頭の中でまとまらない。それが喉をつっかえさせてしまう。
「えっと、愛流さん、私――」
「今回は、陽子ちゃんに色々助けられたよ」
不意打ちのようにかけられた愛流の言葉に驚き、陽子は話そうとするのも辞めて、目を丸くして前にいる男を見た。
愛流はヘルメットをバイクのガソリンタンクに置くともたれかかり、照れたように頭を掻く。
「親父の思惑通りに動かされたようでその点は癪だけど、たまには助手と一緒に行動するのも悪くないって、そう思うことができた」
「愛流さん――」
「だからさ、もし陽子ちゃんが迷惑に思っていなかったら、また手助けして欲しい。今回のような危険な目にあう可能性があるから無理強いは――いや、やっぱいい、忘れてくれ」
愛流はハエでも追い払うように手を振った。しかし陽子は踏み出し、その手を摑む。
戸惑う愛流の姿が視界に映った。正直に言うと、勢いで手を握りはしたものの、陽子自身もやっていて少し恥ずかしい。
しかし不思議な気分だった。今なら言葉が上手くまとめられそうな、そんな気がした。
「私の方こそ、お願いします。愛流さんの助手として、今後も手伝わせてください」
「あのね、陽子ちゃん。だから――」
「危険な目にあうのは、愛流さんも同じです。だったら、一緒にその危険と立ち向かっていきましょうよ。私が、愛流さんの何もかもをひっくるめて支えますから」
二人の間に、沈黙が流れた。やがて陽子は一瞬で顔が熱を帯びるのを感じ、慌てて愛流の手を離す。
少し冷静になり、自分は何を言っているのだと思った。これではまるで、告白を通り越してプロポーズではないか。
――ダメダメ。私にはあの人がいるから。
頭に八年前の中学生の姿を思い描くと、陽子は「あくまで、探偵の助手としてですけれどね」と慌てて訂正する。にも関わらず愛流はニヤニヤと嬉しそうに笑っていた。
「いやいや、何なら彼女、いや、いっそのこと夫婦として――」
「早く旅に行ってください! ウズウズしていたんじゃないんですか?」
あくまでふざける愛流に腹を立て、陽子はそっぽを向いた。発端は自分とはいえ、初めて会った頃のようなナンパな態度は辞めてほしいと思う。
背後から「ごめんごめん」と言って笑う愛流の声がした。
「あぁ、それと陽子ちゃんにもう一つ言っておきたいことがあるんだ」
「何です?」
陽子は振り返った。愛流はヘルメットを被ってから首元を指さす。
「陽子ちゃんが八年前にもらったっていうマフラー。『I.R.』の刺繍が入っているやつ」
「あぁ、それがどうかしましたか?」
――というか、愛流さんあの時寝ていませんでしたか?
そのような疑問が頭に浮かんだが、話が止まりそうなので口には出さないことにした。
「あのアルファベット二文字ってさ。当て字みたいなやつだよ」
「当て字、ですか?」
ヘルメット越しのくぐもった声に対し、陽子は首を傾げた。
「そう。女性と書いてひとと読んだり、夜露死苦って書いてよろしく、みたいなさ。つまりあの『I.R.』は誰かの名前の当て字ってわけ。まぁ本来は漢字に対して使うものだけど、そういう細かいところはなしね」
「ということは、あの刺繍はその人がオリジナルで縫ったものということですか?」
「とりあえず言い換えてみなよ。そしたら人の名前になると思うしさ」
言いながら愛流はバイクのエンジンを起動させた。陽子は顎に指を当てながら後ろを向き、空を見上げる。
妙に断定した言い方だったが、本当にそうだろうかと陽子は疑問に思った。そもそもその中学生の名前もわからないのに「I.R.」を言い換えただけでわかるものだろうか。
とはいえ、愛流が何の根拠もなくそのようなことを言うとは思えなかった。なので陽子は試してみることにする。
「アイアール、イルー、イアール、アイルー、ん?」
今呟いた言葉に妙な引っ掛かりを覚え、陽子は首をひねった。
「アイ、ルー、アイルゥ、アイル――あいる?」
いやいやと、陽子は手を振る。
ただの偶然だ。愛流が変なことを言ったから、彼の名前と一致してしまったに違いない。
その考えとは裏腹に、陽子の頭はつじつま合わせのために働き出した。
「I.R.」が偶然にも「アイル」と言い換えられるのもそうだが、他にも彼が言い切ったことが気になった。何より愛流とその中学生は年齢的にも合致する上、愛流が住んでいる場所も当時の中学生が通っていた学校も同じ夢見市だ。
そして陽子が八年前のことを話した時の、私生活の面々の反応。
単純に陽子の初恋の話を馬鹿にして笑ったのかと思ったが、もし例の中学生が愛流であった場合は、話も変わってくる。
茂も里奈も、陽子のマフラーが愛流の物だと知っていたなら、二人が笑いを堪えられなかったのは、その中学生が愛流だとわかっていたからということになる。愛流の性格を考えると、その時のことを話していなかったのかもしれない。だから二人はあれほど笑ったのだろうし、愛流もまた恥ずかしさや家族から追撃されることを恐れ、寝た振りをしたのかもしれない。
こうして初恋の中学生=愛流と考えると、次々と合致していく。しかし陽子としては認めたくない気持ちの方が強かった。
悪いわけではないはずなのに、理解できない感情が邪魔をする。
「あの、愛流さん――」
意を決し、陽子は振り返った。しかし遅かった。
愛流の姿は、既に消えていた。陽子のモヤモヤとした気持ちだけを残して。
(了)
愛流録――自由に憧れる探偵―― 夢見歩人 @walkerbungei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます