page31「母親」
〇
「ということは、認めるんだね?」
「はい。愛流さんの推理は、完璧です。私が訂正すべき点は、何もありません」
神野の隣にいる米田が絶句し、目を大きく見開いて彼女を見た。陽子もまた、これほどあっさりと認めるとは思っていなかったので、呆気に取られる。
ただ一人、愛流だけが、無表情に神野を見つめ続けていた。
「三か月前のあの日、私は公園で瀬里奈を見つけた時、深い絶望に襲われました。悲しみも、こんなことをした犯人に対する怒りもありました。ですがその裏で、芸術家であるもう一人の私は、別のことを気に掛けていたんです――何か恐ろしいものを見たかのように目と口を大きく開き、服を汚して冷たくなっている。こんな瀬里奈の姿は、ひどく哀れだ。このような姿で葬儀を迎えなくてはならないのか。そもそもこの子の体を焼くこと自体受け入れられない、と」
「つまり先生の目的はやっぱり、死蠟化させ、キレイな体の状態で瀬里奈ちゃんを手元に置いておくことだった。そういうわけだね」
愛流がそう言った瞬間、米田は立ち上がり、二歩、三歩と後ずさる。陽子も顔を引きつらせた。
経緯はどうあれ、それでは吉岡がやったことと同じではないか。
とても普通とは思えない。しかし――
「わかりません」
神野は消え入りそうな声で言った。その声は震えており、首を静かに横に振っている。
「わからない?」
これにはさすがの愛流も眉をひそめた。神野はスカートの裾を握りしめる。
「最初はそのつもりでした。この子の体を消すぐらいなら、私の手が届く範囲に置いておきたいって。ただ時間が経つにつれ、それがいかに狂った考えだったかと自分で自分のことを恐ろしく感じるようになりました」
神野は自分の手の平を見た。まるでついた汚れを確認するかのように。
「自首して娘の死体を池に沈めたことを告白するべきか、それともこのまま狂った自分のままでいるのか。私は迷い続け、何もすることができずにいました。そうしていつの間にか三か月の月日が流れており、私は意を決しました。とにかくまずは、瀬里奈をあの冷たい池から引き上げることにしようと。ですが――」
「吉岡くんが先に回収してしまっていた」
言葉を引き継いだ愛流に、神野は自嘲して頷いた。
「覚えていますか? 以前私が、あなた方に漏らしたこと。私は普通の母親じゃない、この子を自分が作り上げた美術作品の一つとして見てしまうことがあると」
神野は愛おしそうに娘の額を撫でた。瀬里奈の頬に、一粒の涙が落ちる。
「この子の体を手元に置きたい。そう考える時点で、やはり私は母親失格だったのですね。人を、娘の死体を物のように保管したいなんて、普通じゃ――」
最後の方は、もはや言葉にならなかった。瀬里奈の顔には次々と涙が落ち、重力に任せて落ちた滴は枕を濡らした。
陽子は何も言葉が出てこなかった。思い浮かばなかったと言ってもいい。
神野は確かに倫理的に間違ったことをしたのかもしれない。しかし今、目の前で弱々しく泣く姿は、形はどうあれ娘への愛情を持っている母親そのものだ。
だからこそ思考が整理できなかった。いっそのこと瀬里奈を完全に物扱いしてくれれば、何の迷いもなく嫌悪感を抱くこともできるのだが。
米田もまた、目を泳がせて立ったままでいた。
「――また普通か」
陽子の隣で、愛流が呆れたと言わんばかりのため息を吐いた。そして苛立たし気に金色の頭を掻く。
「確かに神野先生がやったことは普通じゃないと言われても当然かもしれない。けど、じゃあ普通って何だ?」
泣いていた神野が顔を上げた。頬に塗ったファウンデーションは涙ですっかり落ちていたが、それでも美しさを保っている。
「実の子の死体を前にして、全員同じ反応を示すのか。泣くのが普通で、死んでくれて清々したと悪態を吐くのは異常か。よく生きたと笑いかけるのは普通か、それとも死体を前にして笑うこと自体が異常か」
徐々に愛流が早口になっていく。吐き出す言葉にも、熱を帯びてきた。
「どれも明確な答えなんてない。普通も異常もクソ食らえだ! ただ先生の、娘の死体を前にした反応が、死蠟化を思いついたという事実だった。それ以上でもそれ以下でもないし、俺はそれ以外を認めない」
愛流は立ちあがると、目を腫らす神野を見下ろした。米田はただ黙って、愛流を見つめている。
陽子は愛流の熱を帯びた目を見上げることしかできなかった。
愛流の過去を知った以上、もう普通だ何だとは言えない。陽子の中でもまた「普通」とは何かという疑念がいつの間にか生まれていたのだ。
「もちろん明確な基準がないからと言って、先生の行いを正当化する理由にはならない。あんたがやろうとしたことは、瀬里奈ちゃんの独占に他ならないんだ。ただ――」
そこで愛流は、言いづらそうに言葉を区切った。目をつぶり、深呼吸する。
心が十分に落ち着いたのか、愛流は目を開くと、力強い言葉を放つ。
「ただ一つ。確かに言えるのは、あんたは形はどうあれ、間違いなく瀬里奈ちゃんを愛していたんだよ。そして笑顔が素敵な、色んな人が好きになってくれる女の子に育て上げた――先生は、立派な母親だ」
そこで神野は堰を切ったように泣き出した。娘の胸に顔を埋め「ごめんね、ごめんね」と何度も口にする。
陽子の視界は滲んでいた。拭っても拭っても涙が出てくる。
愛流に言えばまた怒られるかもしれないと考えつつ、陽子はこの時ばかりは普通という概念がハッキリとすればいいのにと思った。
そうすれば何が正しくて、何が間違っているのか。誰が正義で、誰を憎むべきか。その点が明確になると言うのに。
だが、そうではない方がいいのかもしれない。今普通をこの場に設ければ、神野を必要以上に責める口実ができてしまう。
そう考えて、陽子は気付いた。
人間は正当化できる理由、いわば「普通」さえあれば、どこまでも残酷になれるのではないかと。
過去の経験だけではない。そのことがわかっているから、愛流は必要以上に「普通」を嫌っているのかもしれない。
「行こう、陽子ちゃん」
上から愛流が静かに声をかけた。陽子は改めて涙を拭い、立ち上がる。
「警察には俺の推理は話していない。先生は俺に断罪を求めていたんだろうけれど、甘えるな」
愛流は冷たい言葉を放つ。しかしその声には矛盾した温もりを陽子は感じとることができた。
「俺は警察じゃない。だから先生を逮捕する権利も持っていない。依頼は完了したし、謎も解くことができた。つまり俺の役目はここまで。自首するかこのまま瀬里奈ちゃんと暮らすか、勝手に決めろ」
そう言って愛流は歩き始めた。陽子もその後に続く。
そのまま部屋を出るのかと思ったが、愛流は布団を中心に回り込み、米田の前に立った。そして彼の肩に手を置く。
「君も、どうするかは自分で決めるんだ」
「え?」
「神野先生を狂った女として軽蔑するか、それとも恋人の母親として側で一緒に泣くか。どうしたって、君の自由だ」
そう言って愛流は笑いかけると、腕をヒラヒラと振って見せ、襖を開けた。
陽子も後ろ髪を引っ張られる思いで和室を出る。
襖を閉める瞬間、陽子は見た。泣き崩れる神野にぎこちなく近づき、その側で膝をついて、肩を抱き寄せる米田を。
陽子は見えた気がした。母親を優しく抱きしめる、瀬里奈の姿を。
――本当にもう、私達が出る幕じゃないんだな。
陽子は力を抜き、フッと笑うと、静かに襖を閉めた。
(続)
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