page30「真相」


   〇


 愛流と陽子は再び神野の家を訪れていた。

 バイクは今回、使わなかった。左腕のケガのこともあり、駅前から出ているバスを利用しようと、愛流が提案したのだ。およそ三十分かけて、ここに来た。

 愛流と和解してから五日が過ぎた。警察によって司法解剖されていた瀬里奈の死体が、今日神野家に返される。

 里奈からその情報を聞き出した愛流は、神野春心に連絡し、瀬里奈の死体が返ってきた後に話をさせてほしいと頼み込んだのだ。

 そして先ほど神野から連絡があり、こうして彼女の家に赴いた次第である。

 インターホンを鳴らし、少し経ってから、神野が出迎えてくれた。Vネックの黒いワンピースを着ている。その後ろには水色のシャツとスラックスを身にまとった米田がおり、こちらに頭を下げた。

 ――まぁ、こういう時に派手な恰好で来たら不謹慎よね。

 そう思って陽子は自分の服装を確認した。黒のスキニーパンツに白のパーカーというモノトーンファッションの上にロングコートを羽織っている。首元にはいつものマフラーを巻いていた。

 問題は愛流だった。

 ベージュのテーパードパンツに黒いニット、そして水色のマウンテンパーカーと、変に悪目立ちする服装だった。おまけに、レンズの色が薄いサングラスをかけており、金髪もあいまって近づきがたい雰囲気を醸し出している。

陽子としては、隣を歩くことすら正直に言うと嫌だった。バスに乗っていた乗客の多くが、奇異な目で愛流を見ており、なぜか本人ではなく陽子が羞恥心を覚えてしまった。

 やはりというべきか、神野と米田は目を丸くして愛流を見ていた。しかし当の本人は気にする素振りもなく、むしろ見られていることに喜びを覚えているかのように「やぁ」と機嫌よく手を上げ、門を通っていった。

 陽子は神野達に申し訳なく思いながら、玄関に上がる。靴脱ぎから廊下に進む途中で、愛流は「おっといけねぇ」と言ってマウンテンパーカーを脱いで手に持ち、サングラスを外した。マナー違反ではあるが、ようやくまだマシな服装になったと、陽子は胸をなでおろした。

 陽子達が案内されたのは二階の和室だった。ここに先ほど瀬里奈は運び込まれたという。

 緊張で喉が乾燥した。陽子が唾を飲み込むと同時に、襖が開く。

 畳六枚が敷かれた部屋だった。日当たりがよく、窓から差し込む日光が、淡く部屋を照らしている。真ん中には布団が敷かれており、瀬里奈のもう動かない体が寝かされていた。

 和室とそこにある瀬里奈の死体。それは嫌でも吉岡の部屋で見た光景を思い出させ、陽子にあの時の吐き気が蘇る。しかし我慢できる範囲だったので嘔吐はせずに済んだ。ただし顔色が悪いのが自分でもわかったので、誰にも気付かれないことを心の中でひっそりと祈る。

 でも――

 左右二人ずつで瀬里奈を囲む形で正座しながら、陽子はこの家の娘の左頬を眺める。

 先日触れて実感したはずなのに、やはりただ眠っているだけなのではないかと心のどこかで疑う自分がいるから不思議だ。

 隣に座る愛流も、向かい側にいる神野と米田も、何も言わない。ただこの場にいる全員が、瀬里奈の、たった一人の少女の顔を見つめている。

 まるで目覚めるのを待っているかのように。

「お通夜は、明日の夜に行われるのかい?」

 無表情に愛流は訊ねた。神野は艶やかな仕草で首を傾ける。

「そのつもりだったんですけど、どの葬儀社にも連絡ができていないんです。何だか色々とあり過ぎてぼーっとしちゃって」

「まぁ、無理もないさ。とりあえず俺は、自分の用件を言わせてもらうよ」

 愛流が姿勢を正し、真正面を見た。陽子もそれに習う。

 いよいよかと、陽子は緊張した。

 何が始まるかはわからない。しかしこれがこの事件の最後の謎解きであることは、肌身で感じた。

「瀬里奈ちゃんをあの池に沈めたのは、あんただね。神野先生」


「いきなり、何を言い出すんですか?」

 米田が信じられないと言わんばかりに首を振る。頬は引きつり、神野と愛流の顔を何度も見比べていた。

 しかしその驚きは、陽子も同じだった。

 五日前、愛流と和解した後のことだ。何か愛流の悩みを解く鍵が見つかったのではないかと思い、陽子は訊ねた。しかしその時の愛流に、まだ待つよう言われてしまった。

 では先ほどの言葉は何だったのか――そのような曇りが、一瞬陽子に生まれた。しかしそんな心情を察したのか、愛流が笑顔で「もちろん、陽子ちゃんのことは信じることにしたよ」と励ます。

「でも、今度こそ俺の考えが当たっているかどうか、整理したいんだ。俺の迂闊さのせいで、危うく陽子ちゃんを危険にさらすところだったからね」

 その時の愛流の目は、いつにも増して真剣なものだった。

 そう言われると、陽子としては何も言うことができなかった。だから今日という日まで待つことにした。

 しかしその第一声は、あまりにも陽子に驚愕を与えるものだった。

 瀬里奈のことが心配で愛流に依頼し、思い悩んでいた神野が、その娘を池に沈めた? いくら愛流の推理といえど、素直に受け入れることはできない。

 チラリと陽子は神野に目を向ける。彼女は能面のように表情を動かさなかった。

「大体、吉岡が瀬里奈を池から回収していたんですよね? 警察がそう言っていたと、先生から聞きました。事故で死亡しましたが、彼が犯人ではないんですか?」

 米田が興奮し、前のめりになる。それに反し、愛流は微動だにしなかった。

「いや、瀬里奈ちゃんを殺したのは彼だし、その彼女の死体を部屋に運び込んだのも吉岡くんだ。でないとあの日、酔っていなかった吉岡くんが、タクシー捕まえて瀬里奈ちゃんの家がある方面に向かった説明がつかないし、実際に彼の部屋に瀬里奈ちゃんの死体はあったんだ」

「だったら――」

「米田くん」

 愛流の声が冷たく室内に響いた。それはヒートアップしてきた米田を固まらせるには十分過ぎる威圧があった。

 米田はまだ何か言いたそうに口を何度も動かしていたが、諦めたのか座り直す。愛流は「ありがとう」と言ってから咳払いをした。

「でも米田くんがそう思うのも無理はない。俺だって最初は同じように考えていた。一連の出来事は吉岡くんが行ったことなんだろうって。ただ、そうなるとどうしても、一か所だけしっくりこないことがある」

「瀬里奈さんが池に沈んでいた件ですね」

 五日前、そのことで愛流は頭を抱えていたのだ。しかしそれが神野とどう関わってくるのか、陽子には全くと言っていいほど見えてこない。

 愛流は不敵な笑みを浮かべると、陽子に頷いて見せた。

「まぁ素直に認めたくないけど、既に見抜いていたであろううちの狸親父からヒントをもらった俺は、ある仮説を立てることにした。この事件には、もう一人別の目的を持った犯人がいるんじゃないかと」

「あっ」

 陽子は声を漏らした。間違えたと言って櫂入達にミックストーストを出した茂の姿が脳裏に蘇る。

 あの時、茂は「ミックスサンドとミックストースト、味わう上での目的が違う」と言っていた。あれは愛流が悩んでいることに対するメッセージであったというわけだ。

 しかし――

「もう一人って、つまり共犯者ってことですか?」

 浮かんだ疑問を陽子は口にした。しかし愛流はゆっくりと首を横に振る。

「共犯者の線は最初からあり得ないと思っていた。排泄や南京錠の破壊と、痕跡を残し過ぎていることからも、吉岡くんの突発的な犯行であることは間違いない。つまり単独犯だ。そこから誰かに協力を要請するというのはあまりにもリスクが大きいし、仮に共犯者がいたとしたら、あまりにも連携が取れてなさ過ぎて杜撰もいいところだ」

「じゃあ――」

「共犯とかじゃなく、もっとシンプルに考えてみるんだ。そう、吉岡くんとは別の思惑があり、彼の知らないところで瀬里奈ちゃんに対し犯行を行った人物がいると」

「それが、神野先生だと言うんですね」

「あの日、瀬里奈ちゃんを知る人物で、彼女の死体を見て犯行に及んだ可能性があるのは、吉岡くんを除けば根耳公園の近くに住んでいる神野先生以外には考えられない。そして二人の頭に浮かんだ目的だけど、吉岡くんは元々瀬里奈ちゃんに告白をすることだった。それが逆上して殺すことに変わった。対して神野先生の目的は、瀬里奈ちゃんの死体を死蠟化させて、回収をすることだった。正確には死体を見つけてから頭に浮かんだことだけれどね」

 陽子は無意識の内に神野を改めて見ていた。彼女は相変わらず口を開こうとはしない。

「まずは俺が最初に考えていた、吉岡くんがこの事件全ての犯人だと思っていた頃の推理を二人に聞いてもらおう」

 そう言って愛流は、吉岡のアパートに向かう際、陽子に聞かせた推理を神野と米田に改めて披露した。その間、二人は黙って聞いている。

 ――推理は、間違っているんじゃないの?

 そう陽子は疑問に思ったが、口に出さないことにした。愛流のことだ。何か狙いがあってのことだろうと、確信にも似た思いがあったからだ。

「――とまぁ、これが最初に構築した推理だったってわけ。ただ、これにはいくつかの間違いがある」

 軽く手を叩き、愛流が一同を見回した。

「順番に流れをなぞっていこう。吉岡くんが瀬里奈ちゃんの後を追い、告白したもののふられて、逆上したことで彼女の首を絞めた。これに関しては司法解剖の結果、瀬里奈ちゃんが絞殺されたことがわかっているし、首に残った手形も死んだ吉岡くんのものと一致した。彼の死体、特に手元がひどい損傷を受けていなかったことが救いと言えたね」

「随分と詳しいですね」

「刑事の姉という、情報横流しルートがあるから」

 だろうなと思いながらも、陽子はため息を吐いた。しかし――

「愛流さんのお姉さん、刑事だったんですか?」

 そこで神野が、初めて声を上げた。目を丸くし、愛流を見ている。

「その様子だと、知らなかったみたいだね」

 愛流が冷たい声で言った。目は睨むかのように細められている。

「ええ。実際に探偵が警察の方と知り合いだと言う話は、物語の中だけだと聞いていましたから、てっきり――」

「あいにく、俺がその物語的なパターンだったってわけさ。おそらくそれが、先生にとっての大きな誤算になったんだろうね」

 神野はただ「そうかもしれませんね」と呟いて、目を伏せた。

 二人の会話がどういう意味なのか、陽子には全くと言っていいほどわからなかった。

「話を戻そう。問題は、吉岡くんが瀬里奈ちゃんを殺害した後だ。俺はてっきり、そのまま彼が瀬里奈ちゃんを池に沈めるための準備をしたのかと思ったけれど、実際には違った」

「違ったって」

「我に返った吉岡くんは混乱し、その場から逃げ出したんだろう。ただその後、ある人物が瀬里奈ちゃんの死体を発見してしまった。それが神野先生だ」

 ここで愛流は、一呼吸の間を空けた。

「あの日、神野先生は瀬里奈ちゃんの帰りが遅くて心配した。電話をかけても繋がらない。旦那さんを交通事故で亡くしている先生としては、嫌が何でも悪い想像をしてしまっただろうね。ダメ元とわかっていても、外に探しに行った。そこで――」

「瀬里奈さんの死体を発見した」

 そう言葉にすると同時に、陽子はブルッと身震いした。

 その時の神野の心情を想像すると、とても正気でいられたとは思えなかったからだ。

「先生は動揺したし、深い絶望に襲われただろうね。けど、瀬里奈ちゃんの死体があった場所が、先生を惑わせた」

「惑い?」

「死体、倉庫、池、何より冬の寒さ。死蠟化させる条件とそのための道具は十分揃っていた」

「でも、神野先生が知っているかどうかという問題が――」

「知っていたんだよ」

 静かに、しかしよく響く声で、愛流が言った。

 時間が停まってしまったのかと思うような静寂が流れる。陽子は愛流の言葉をハッキリと理解するのに必死だった。

「知っていたって、死蠟化をですか?」

「あぁ、そうさ」

「でも、どうしてそう言い切れるんですか?」

 神野の近しい人間関係に、医学に関わる人間がいるという話は聞いていない。ミステリーという点では米田が当てはまるが、小説で聞いた話を、そのまま信じたというのだろうか。

「答えは、先生の絵だ」

 愛流が人差し指を突き出して答えた。しかし陽子にはその意味がわからない。

「絵がどうかしたんですか?」

「以前ここを訪れた時、リビングに飾られていた絵。その一枚に、ゾンビのように皮膚が腐敗した女が、白い肌の美女を池から連れ出そうとしている様を描いたものがあった」

 その絵は陽子も覚えている。いや、あそこに飾られていた作品がどれも迫力のあるものばかりで、頭に焼き付いているのだ。

「俺にはさ、この絵が永久死体の二種類、ミイラ化と死蠟化を表現しているように見えた。もちろんゾンビがミイラ、美女が死蠟を表している」

 そう言って愛流は、スマートフォンを取りだし、画面を神野と米田に向けた。陽子は横からディスプレイを覗き見る。

 画面の上部には、二枚の写真が横並びに載っていた。左側が神野、右側が愛流の言っている絵だ。その下にはインタビューでの会話内容が書かれている。

「気になってあの作品のことを少し調べたんだ。この記事では神野先生は死体に関する知識を学んでから描いたと答えている。条件さえ揃えば死体は腐敗しない。そこに神秘性を感じたって。これは死蠟化のことで間違いないだろう」

 陽子は口にこそ出さなかったが、心の中では衝撃を受けていた。

 確かに愛流の言っていた死蠟化に合致する言葉だ。事実ならば、神野は愛流の言う通り死蠟化の存在もその条件も知っていたことになる。

「知識があり、条件も整っていて、そのための道具もある。後は実行に移すかどうかだけど、先生はやった。ここから後は吉岡くんが実行したとして考えていた点を除けば俺の推理通りだろう。石を使ったか家から工具を取って来たかはわからないけれど、倉庫と柵門の南京錠を壊し、瀬里奈ちゃんの服を脱がせて錘代わりの石を括りつけたロープを巻き、手押し車で運んで池に沈めた」

 ここで愛流は鼻から大きく息を吐き、腕を組んだ。

「池に沈めて三か月後、タイミングから考えて美術部と映画研究部が合同で宴会したよりも後の日に、先生は瀬里奈ちゃんを回収に向かった。でも見つからなかった」

「その時には、吉岡さんに既に回収されていたから」

「そう。でも先生はそのことを知らない。不運な偶然だったと言えるだろうね。最初は先生も訳が分からなかっただろうけれど、状況から見て誰かが自分よりも先に瀬里奈ちゃんを回収したんだと考える他なかった。悩んだ末に、ある方法を取ることにした」

「ある方法?」

「何かを探すなら、それ相応の仕事の人間に頼めばいい。つまり、今回俺に瀬里奈ちゃんの捜索を依頼した真意は、彼女の死体を見つけることだったというわけだ」

 そこで愛流は言葉を止め、じっと神野を見た。まるで答え合わせを待つ自信満々の生徒のようだ。

 神野が口を開こうとした。しかしそれよりも早く「ちょっと待ってください!」と米田が割り込んできた。

 相当混乱しているらしい。米田は激しく首を振り、整った髪を握っていた。

「まだ納得できないかい?」

「当たり前です。信じていた神野先生が、瀬里奈のお母さんがそんな――大体、行方不明届のことはどうなんですか?」

 顔を紅潮させながら米田は叫ぶように言った。しかしその言葉に、陽子は息を飲み込む。

 確かにその問題がまだ残っていた。

 神野は行方不明届を警察に出したと言っていた。死蠟化を待ちたい神野としては、瀬里奈がそれよりも早く見つかってしまうのは不都合なはずだ。

 愛流の言う通り警察は事件性がないと中々動かないのかもしれない。それでも提出した以上、何らかの捜索活動をする可能性は浮上するはずだ。

 神野はまさか警察が動くわけがないと、高を括っていたとでもいうのだろうか。

「ああ、そのことか」

 愛流は今にも欠伸しそうな軽い調子で言った。

「別に特別な裏があるわけでも何でもない。神野先生は、最初から出していなかったのさ」

「出して、いない――」

 米田は助けを求めるように神野を見た。彼女はなおも黙っている。まるで審判が下されるのを待っているかのようだ。

「行方不明届なんて、提出したかどうかを警察に直接問いたださないとわからないものだよ。まぁ問いただしたところで答えるとは思えないけれど――米田くんを含めた、周囲の人にも警察に捜索をお願いしたと言っていたんだろう。娘の行方を探すために何らかの方法を取ったって印象づけるためでもあるだろうけれど、一番は勝手に行方不明届を出させないことが狙いだった。それが原因で、万が一にも瀬里奈ちゃんの死体が見つかったら、自分が犯罪に手を染めた意味がなくなるからね。けれど俺の姉貴に調べさせたら、瀬里奈ちゃんに関する行方不明届は出されていなかったってさ」

 愛流は「まだ何かあるかい?」と首を傾げ、米田を見つめる。米田は何か言おうと口を開くも、言葉は出ず、目を泳がせるばかりだった。

「米田くん、ありがとう。でももういいのよ」

 神野の穏やかな声が、和室に響いた。

 米田は信じられないと言わんばかりに神野を見た。陽子も同じ方向に目を向ける。

 神野の表情は、どこか晴々としたものになっていた。

「やはり愛流さんに、あなたのような素晴らしい人にお願いして正解でした」

 神野の目が細められる。その瞳は潤んでいた


                                   (続)

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