page29「残された謎」


   〇


 電車から降り、夢見市駅のホームに立っても、陽子は呆然としたままだった。原因は雨による気圧の低下だけではない。

 朝食のトーストを食べている時、夢見市内で大学生がトラックに轢かれて死亡するというニュースがテレビに映った。そして出てきた名前が、吉岡竜也だったのだ。

 このニュースを目にした時、陽子は今自分がいるのは夢の中なのではないかと疑った。その時の自分はすごい顔をしていたことだろう。母親の歩美が「どうしたの?」と心配そうに声をかけてきたほどなのだ。

 ニュースキャスターは、淡々とした調子で次のように報道した。

〈事故があったのは東京都夢見市の交差点です。昨夜午後七時頃、通行人から大学生と思われる男性が車道に飛び出し、大型トラックに轢かれたと一一九番通報がありました。轢かれた男性は所持していた運転免許証から、市内の大学に通う吉岡竜也さん(二十歳)であることが判明。搬送時には意識がなく、病院で死亡が確認されました。詳しい状況は、現在警察が調べています。なお、吉岡さんは十九歳の女子大学生を殺害した容疑がかけられており――〉

 駅を出てビニール傘をさし、私生活に向かう道中も、頭にそのニュースが纏わりついて離れようとしなかった。

 瀬里奈を殺した吉岡がこの世にいない以上、自分達にできることはもうないのではないか。この事件は、これで終わったと言えるのか。

 次々と疑問が浮かんでは流れていく。頭がパンクしそうだった。

 などと考えている間に、左手に夢見市警察署が見えてきた。向かいには目的地である喫茶「私生活」がある。

 陽子がため息を吐いた時、店の前に二つの影が立っていることに気付いた。傘の下から見える顔は、どちらも陽子が知っている人物だった。

「櫂入さん、それに芽衣さんも」

 櫂入達も陽子の存在に気付き、軽く会釈する。こうして二人が並んで立っている姿を見るのは初めてだった。

「どうしたんですか?」

「いえ、実はお礼と言うか、挨拶をと思いまして」

 櫂入が頬を掻きながら言った。しかしどうにも歯切れが悪い。

 挨拶だったりお礼だったり、一体何のことだろう。

 陽子の疑問を察したのか、芽衣が櫂入を押しのけ、一歩前に出る。

「瀬里奈、見つけてくれたんですよね。昨日私のところに来た警察の人が言っていました。男女の二人組があの子の死体を発見したって」

 芽衣の説明を聞き、陽子はようやく話が見えてきた。

 しかし――

「警察が、お二人のところに来たんですか?」

 確認のため、恐る恐る陽子は訊いた。櫂入と芽衣がほとんど同時に頷く。

 考えてみれば当然だ。吉岡の部屋に瀬里奈の死体が置かれていたのだ。同じ美術部の二人に警察が話を聞きに来ることは自然の流れと言えた。

「それで、警察にはなんと――」

「ちゃんと話しました。公園で宴会を開いている際に、神野の死体を発見したこと。それを改めて沈めたことも」

 櫂入が手を擦りながら答えた。

「正直、これからどうなるかはわかりません。もしかしたら、逮捕されるかも」

「だからその前に一言お礼を言いたくて。櫂入に連絡を取って、二人で来ることにしたんです。本当に、ありがとうございました」

 芽衣と櫂入が頭を下げてきた。

「そんな。どこにあるか言い当てたのは愛流さんですし、それに――」

 陽子はそれ以上言葉を続けることができなかった。

 本当にこれで良かったのだろうかと思ってしまう。

 瀬里奈を見つけることはできた。吉岡の犯行も暴いた。しかしそれは結果として、目の前にいる二人が逮捕されるかもしれない状況を作ってしまったと言える。

 そう思うと、陽子は複雑な気持ちになった。

「僕達なら大丈夫ですよ」

 櫂入が顔を上げて言った。まるで陽子の今の心情を察しているかのように、白い歯を見せて笑う。

「正直、怖くはあります。でも、僕達が神野にしたことを考えると、当然なんです」

「これが私達の罪を償うきっかけになるんじゃないかって、そう思うんです。私が被害者面をして逃げていたんだって教えてくれたのは、あなたたちなんですよ。本当に感謝しています」

 芽衣が改めて頭を下げた。

 ――強いな。

 二人の姿を見て、陽子は目が潤むのを感じた。

 脅されてやったことにも関わらず、自分達がしたこととして受け入れている。彼らと同じ立場に立った時、自分も同じ振る舞いが果たしてできるだろうかと、つい陽子は考えてしまった。

「そうだ。愛流さんは店の中にいると思うんで、ぜひとも会ってあげてください。きっと喜びますよ」

 そう言って陽子は明るく振舞い、傘を閉じてから私生活のドアを開けた。

「いらっしゃい。やぁ陽子ちゃん。それに櫂入くんも」

 茂が笑顔で出迎えてくれた。左頬の赤みが消えているのを確認すると、陽子はカウンター席に目をやる。

 陽子の予想通り、愛流がそこに座っていた。金色の髪は下ろしており、白いシャツに黒のスラックスというシンプルな服装。ノートに何かを書きこみながらブツブツと独り言を言っている。

「あの、愛流さん」

 傘立てに傘を入れた後、陽子は近づいて声をかけた。しかし愛流は聞こえていないかのように見向きもしない。

 やはり昨日傷を見られたことがまだ尾を引いているのだろうかと、陽子はショックを受けた。それが顔に出ていたらしく、茂が「大丈夫だよ」と声をかけてくる。

「何かに集中している時は、いつもこうなんだ。見ていなさい」

 そう言って茂はゆでたまごを一つ手に持ち、愛流の顔に近づけた。苦手な臭いなのか、愛流が唸り声と共に顔を上げる。

「何すんだよ親父」

「愛流、君にお客さんだよ」

 そこで愛流は後ろを見た。その顔に陽子は違和感を覚える。

 気のせいか、肌が若干日に焼けているように見えた。整った顔立ちであるのは間違いないのだが、眉がいつもより細かったりと、何とも言えない違和感がある。

「愛流さん、どうかしたんですか? 顔色というか、何か違うような」

 同じ疑問を芽衣も感じたらしい。おずおずとした調子で質問する。愛流は自分の頬に触れ「ああ」と声を漏らした。

「そういや今日、まだ化粧をしていないや」

「化粧?」

「そう。メンズメイク」

 愛流が答えると、櫂入と芽衣がポカンと口を開けた。陽子も同じ気持ちだった。

「何だよ。別に今時珍しいってほどじゃないだろ」

 三人の反応が好ましくなかったのか、愛流が頬を膨らませた。

 最近はフェイスカラークリームなど、男性用の化粧品が販売されているというのは陽子も知っているし、ドラッグストアにも置かれている。ただそれを実際に使っている人間は身近にいなかったので、驚いたのだ。

「そうだ、愛流。自分の考えを陽子ちゃん達に話してみるのはどうだい?」

 ゆでたまごを網に押し付け、細切れになった卵をボウルに落としながら、茂が提案した。サンドイッチ用の卵ペーストを仕込んでいるのだ。対して愛流は不満そうに口を尖らせる。

「なんでだよ」

「人に話すことで考えが整理されるということもある。どうせ今のままじゃあ、思考がこんがらがって上手くいかないだろ。あぁ、櫂入くん、いつものミックスサンドを準備しよう。彼女さんも同じでいいかい?」

「はい。って、彼女?」

 芽衣が目を丸くして隣を見た。櫂入が戸惑いながら赤らんだ顔を見せる。茂はただ穏やかに笑いながら手を洗い、薄切りの食パンが入った袋をつかんだ。

 茂が本気で言ったのか冗談で言ったのかはわからなかったが、陽子は愛流が悩んでいることの方が気になり、彼の隣の席に座る。ノートにチラリと目をやるが、殴り書きで書かれているので、パッと見ただけでは読み取りにくい。

「一体、どうしたんですか?」

「昨日、吉岡くんが言ったことが気になってるんだよね」

「吉岡さんが言ったこと?」

「そう。ほら、俺に襲い掛かってきた時さ、こう言っていただろ。お前にあの奇跡を渡してたまるかって」

 そうだったろうかと陽子は思い返す。言っていたような気もするが、包丁を持って現れたことに動揺し、それどころではなかったというのが本音だ。

「で、それがどうかしたんですか?」

「おかしいと思わないかい? もし吉岡くんが瀬里奈ちゃんの死体を死蠟化させることが目的で池に棄てたのだとしたら、計算の元に行ったことと言える。つまり『奇跡』という言葉は不適切なんだ」

 言われて陽子はあぁ、と納得する。視界の端には、空いているテーブルに座りながらこちらの話に耳を傾ける櫂入と芽衣の姿が映った。

「死蠟化を狙ったっていう俺の推理が間違いで、偶然吉岡くんが池に棄てて、偶然死蠟化した。その可能性は十分あり得るけど、それにしたって柵門の南京錠を壊したりと、手間が多い。そこら辺の土に埋めた方がまだ手っ取り早かったろうに」

 愛流が苛立たし気に頭を掻いた。かと思うと手を止め、口元を手で覆う。

「そもそも吉岡くんは、どうして瀬里奈ちゃんを沈めた池がある根耳公園で、宴会をしようとしたんだ?」

「今までがそうだったからじゃないんですか? 下手に場所を変えると、不審がられるかもしれませんし」

「だとしてもだ。酔っぱらった学生達が池で泳ごうと提案した時点で、彼は必死になって止めなければならなかった。瀬里奈ちゃんの死体が見つけられる可能性が高くなるし、現にそうなった。なぜ、吉岡くんは野放しにしたんだ? 自分の犯行を見つけてくれと言っているようなものじゃないか」

 頭を抱え、愛流が項垂れる。

 愛流でもこのように悩むことがあるのだなと思いながら、陽子はその姿を眺めていた。

 すると陽子の鼻腔が、香ばしい匂いを嗅ぎ取った。何度も嗅いだことがある。トーストが焼けた匂いだ。

 陽子は意識を一旦外し、顔を上げる。ちょうど茂が出来上がった料理を櫂入と芽衣の席に持ってきたところだった。

「はい、出来たよ」

「ありがとうございます。でも、あれ?」

 櫂入が首を傾げる。その疑問はもっともだと、陽子は感じた。

 櫂入はいつもミックスサンドを好んで食べる。しかし茂が今出したのは、コンベアトースターに通して焼いたミックストーストだった。

「あの、いつもとは――」

「あぁ、いけない。うっかりしていた。どうにも歳を取るとこういうミスをしてしまうんだ」

 茂が軽く自分の頭を叩いた。

「けど、良かったら食べてみてくれ。いつものミックスサンドだと、ふんわりとした柔らかい食感を楽しめるけど、こっちの焼き上げてカリッと食べ応えのあるミックストーストも悪くない。言うなれば、味わう上での目的が違うってわけだね」

 茂の言葉に、櫂入は当惑した様子を見せながらも「じゃあ、いただきます」と手を合わせた。向かいに座る芽衣も何度も瞬きしながら、出されたミックストーストに手を伸ばす。

 その瞬間だった。陽子の隣に座る愛流が、突然吹き出した。

 陽子を始め、櫂入と芽衣が一斉に愛流に目を向ける。その視線を愛流は気にすることなく、先ほどとは打って変わった、さも愉快そうな笑みを浮かべて茂を見た。

「ったく、この狸親父。演技下手すぎだろ。それでも元刑事かよ」

 愛流の言葉に、茂は何も答えない。ただ意味深長な笑みを浮かべるばかりだった。

「櫂入くん、芽衣ちゃん。二人のミックストースト代は、俺が払っておくよ」

「え? いや、そんな、悪いですよ」

「俺の親父が悪戯をしたお詫びだ。気にしないでくれ」

「僕は気にするけどね。人聞きの悪い」

 茂が唇を尖らせた。愛流はその姿を一瞥して「事実だろ」と言ってからスマートフォンを取りだし、どこかに電話をかける。

 状況についていけない陽子は、ただただ愛流と茂、親子のやり取りを見ているしかなかった。

二人が何の話をしているのか、全くわからない。ただ、一つだけ理解できることがある。

 愛流がこのような笑みを浮かべているということは、何か糸口が見えたに違いない、ということだ。

「だから知っているからかけているんだって。それよりもさ、姉貴に確認してほしいことがあるんだ」

 電話越しに里奈と話す愛流の口元には、いつもの不敵な笑みが戻っていた。


 櫂入と芽衣がミックストーストを食べ、愛流に礼を述べて帰った後、店内は愛流と陽子、茂の三人だけになった。

 沈黙が店内を支配していたが、やがて決心をした陽子が「よし」という掛け声と共に立ち上がり、キッチンスペースに立つ茂に目を向ける。

「マスター、お願いがあるんです」

「何だい?」

 茂はミックストーストを乗せていた皿を洗いながら顔を上げた。その口元に浮かぶ笑みは、全てを把握しているかのように見えてしまう。

「愛流さんと二人で話がしたいんです。いつも荷物を置いている所を使わせてもらってもいいですか?」

 そう言って陽子は店内奥の従業員用スペースを指さした。愛流が怪訝な顔をする一方、茂は満足そうに頷いた。

 それから陽子と愛流は従業員用スペースのテーブルに移動した。その間も愛流は陽子と目を合わせようとはしなかった。

 愛流が席に座るのを確認すると、陽子は「ごめんなさい」という言葉と共に頭を下げた。

「え、陽子ちゃん、急に何?」

 珍しく愛流が戸惑いの声を上げた。

「私、昨日マスターや里奈さんから聞いたんです。養子であることや、腕の傷のことも含めた愛流さんの過去を」

「は?」

 愛流が素早く茂を睨みつけた。茂はどこ吹く風で食器を洗っている。

 愛流は何か言いたそうにしながらも結局は黙り、諦めにも似たため息を吐いた。

「俺こそ悪かったよ。自分の事情も話さず、冷たい態度を取ったり、怒鳴ったりして」

 陽子は顔を上げた。逆にこちらに頭を下げている愛流の姿が目の前にある。

「いえ、そんな、顔を上げてください!」

 予想外の行動に陽子は驚きながら手を振った。

 陽子の言う通りに愛流が頭を上げる。かと思うと、陽子の額、傷痕があるところに優しく触れた。

 ドキッと陽子の心臓が飛び跳ねる。それがなぜなのか理由がわからないまま、愛流が口を開いた。

「正直なところを言うとさ、俺、陽子ちゃんに嫉妬しているんだ」

「え、私に、ですか?」

 愛流が嫉妬する要素など何もないと、陽子は驚いた。

 陽子と違い、愛流は洞察力に優れている。加えて容姿も良い。むしろ陽子の方が、愛流のことをとてもうらやましく感じているぐらいだ。

「陽子ちゃんは俺と違って、自分の傷を隠さずに生きている。俺にはない強さだ」

「そんな――」

 自分の傷など、愛流の壮絶な過去と比べればかすり傷程度だ。

 愛流の傷は、陽子よりもっと深く、そして痛々しい。

「だからさ、俺にはできないことを平然とやれる陽子ちゃんがうらやましい。飾らないところも、相手に対する優しさも」

 愛流が傷痕から指先を離し、自分の額に手を当てる。その姿は弱々しく見えた。

 ――違う。私はあなたが思うような、強い人間じゃない。

 気付けば陽子は愛流の手を取っていた。視界には戸惑う愛流の顔が映る。

 強いのはあなたの方だ。壮絶な過去を経験しながらも、探偵として人と関わり、誰かのために働いている。もし陽子だったら、未だにふさぎ込んだままでいるかもしれない。

 自分なりに歩みを進める愛流は、間違いなく素晴らしい人間だ。

 そう言いたいのに、上手く言葉として整理することができない。代わりに別の言葉が、口をついて出てきた。

「愛流さん。この事件、私も一緒に見届けさせてください。探偵の、愛流さんの助手として」

 しばらくの間、二人は見つめ合っていた。しかし不思議と、陽子は気恥ずかしさを感じない。ただ黙って、愛流の次の言葉を待った。

「――ったく、やっぱ敵わないな」

 愛流がため息を吐いた。しかしその顔は妙に清々しく、口元は緩んでいた。

 その笑顔を見れただけで、陽子は満足だった。


                                   (続)

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