page28「陽子の決意。そして――」
〇
「何があったんですか?」
陽子はこれから話してくれるとわかっていながらも、訊かずにはいられなかった。
今聞いた話だけでも十分衝撃的だった。にも関わらず「本当に大変だった」と称するほどのことがあるというのだろうか。
「引き取った後、愛流を小学校に入れて一か月ほど経った頃だったかな。授業参観があった次の日のことだった」
茂が顎を擦りながら冷めているであろうコーヒーを啜った。
「学校の先生から電話がかかってきてね。クラスメイトを殴ったと言うんだ。何でも授業参観に来た僕、つまり父親が老け過ぎているとからかわれたらしくてね」
この話を聞いても、特に陽子は驚かなかった。
先ほどまでの話の方がインパクトが大きかったというのもあるだろうが、小学生同士のケンカならば頻繁に起こる。理由も明白だし、特別不思議なことではない。
陽子の気持ちを察したのか「問題は、その後に先生が言った言葉なんだ」と話を続ける。
「注意したら、愛流はカッターナイフで自らの左腕を切りつけたんだ」
「そんな!」
思わず陽子は声を上げた。
左腕を自ら切るという行為。それは嫌が何でも、今日見たあの傷痕を思い浮かばせた。
「どうして、愛流さんはそんなことを――」
「自分への戒めだそうだ」
「戒め?」
言葉を理解するために、陽子はオウム返しをした。
「その先生がどうしてそんなことをしたのか訊ねたら、愛流はこう言った。痛みとは記憶。自分がミスをした場合、傷を腕に刻み付ける。そして傷痕を見ることでその失敗を思い出し、二度と同じミスを繰り返さないよう肝に銘じるんだ。そして今回、自分は普通ではない行動を取るというミスを犯した。だからこのことを思い出す傷が必要だ――つまり愛流は先生に叱られたことをミスと判断し、罰として自分の腕を傷つけたというわけだ」
「どうしてそうなるんですか!」
言いようのない怒りが陽子の内側から沸き上がった。大声は店内に虚しく響く。
幼い愛流が、自らその方法を考えたとは思えない。環境がそうさせたのだ。親か、他の誰かはわからないが、そう教えられてきたということだろうか。
だとしたらそれは教育じゃない。洗脳と虐待だ。あまりにもつら過ぎる。
陽子の視界が歪んだ。テーブルの上に、滴が一つ落ちる。拳には力が入り、テーブルをカタカタと震えさせた。
ハッと陽子は我に返る。顔を上げると、茂と里奈が気づかわしげに見つめていた。
「すみません、急に大声上げたりして――」
慌てて陽子は目に浮かんだ涙を拭った。すると里奈の手が肩に置かれ「いいのよ、そんなこと」と優しく声をかけられる。
「私だって同じ気持ちよ」
たった一言。しかしそれで充分だった。
自分と同じ気持ちの者がいてくれる。しかもそれは、愛流の家族だ。
血の繋がりがあるかどうかなど関係ない。
陽子は言葉が出なかった。ただ強く首を縦に振る。
「それで、愛流さんはそれからどうなったんですか?」
陽子は先を促す。茂は鼻からため息を吐き、手を揉んだ。
「辞めるようには言ったんだがね。簡単ではなかった。それからも注意を受けたり、叱られたりするたびに、愛流の自傷行為は行われたんだ」
「一回、カッターナイフを取り上げたこともあったわよね。けど愛流のやつ、近くの食器とかをわざと割って、その破片で傷をつけたりして」
陽子が想像していた以上に重症だったようだ。近くに物がなかったとしても、愛流なら歯などを使って無理矢理にでも自らに傷をつけようとしたかもしれない。
「ただ、いつの頃からかな。愛流の自傷癖も、急に落ち着きを見せてきたんだ」
「何言ってるの。父さんがそのきっかけを作ったんでしょ」
腕を組みながら里奈が言った。茂は「そうだったっけ?」と口にするも、視線が明後日の方向を向いているので、惚けていることが目に見えてわかる。
「その年の夏だったかな。最初に会った頃と違って、家に来てからの愛流って、ずっとおとなしかったの。というよりは、ロボットや人形に近かったわね」
「ロボットや人形、ですか?」
「そう。ずっと無表情で、何を考えているかわからない。笑うことも怒ることもなく、ただただ死んだ魚のような目で日常を過ごしている。あの時の獣のように好戦的だった時の方が、よっぽど人間らしく思えたくらい。で、それが中学に上がったばかりの私には気持ち悪く思えてね。ある日家にいる時、ケンカになったわけ。あんたは普通じゃない、とか言ったと思う。その時、愛流がこう言ったのよ。それはしくじったって。それでまたカッターナイフを取り出して、自分の腕を切ろうとした」
そこで里奈は、一呼吸の間を置いた。髪をかき上げ、天井を仰ぎ見る。
また自分を傷つけたのかと陽子は思い、顔を歪めた。しかし次の里奈の言葉は、陽子の予想を裏切るものだった。
「すると父さんが間に入って、自分の腕を切りつけようとする愛流を妨げたの。その時、自分の手の甲が切られても気にした様子を見せずに」
「え!」
陽子は小さな叫び声を上げ、正面に目を向けた。茂がわずかに頬を赤らめ、頭を掻いている。
その頬を掻く手の甲には、薄っすらとだがその時のものと思われる傷痕が残っていた。
「そんなことあったっけ?」
「惚けても無駄。私には色んな意味で衝撃的だったんだから。その時父さんが言ったことも覚えているし」
「マスターが」
「里奈、もういいだろ」
茂が止めに入るのも構わず、里奈は言葉を続けるため、口を開く。
「邪魔されて戸惑っている愛流に、父さんは涙を流しながらこう言ったの。他人と比べないでほしい。叱られたり注意されることは、ミスじゃないんだ。普通じゃなかったから失敗したと思っているようだけれど、それは違う。この世に普通なんてものはない。ただ、愛流という存在がいるだけ。だから、普通とも他人とも違う、愛流という一人の人間として、自由に生きていいんだって」
昔を思い出すかのような遠い目で里奈は語った。向かいの席では茂が居心地悪そうに何度も座り直している。
照れているのだろうが、どうして隠すような態度を取るのかが、陽子にはわからなかった。
今の里奈の話を聞き、陽子はお世辞などなく感動した。同時に自分を恥じた。
昨日、陽子は愛流に普通にこだわることへの危険性を言及されても、大して反省しようとはしなかった。しかし彼の過去を聞いた今は違う。
陽子がそう考えていることには気付かず、里奈は言葉を続けた。
「あの時の愛流、今まで見たことのないものを目の当たりにしたかのような目をしてたわね。けど父さんの言葉が効いたみたい。すぐではなかったけれど、愛流の自傷癖も徐々に治まっていって、気付けばもう自分を傷付けることはなくなったの」
「だが成長するにつれ、愛流はその時の自分の行為が異常であったと認識するようになり、彼にとっては思い出したくない、一種のトラウマとなったんだ」
「トラウマって、そんな――」
無理のないことなのかもしれない。それでも、戒めと称して自分を傷付ける行為が決して愛流のせいではないと、そう言いたかった。
「だから愛流は、左腕の傷痕を見せないようにしているし、普通という言葉も敏感なほど嫌うんだ。子供の頃、普通に振舞えなかった自分を思い出してしまうから」
この言葉を聞き、陽子ははっと息を呑んだ。
つまり自分は、昨日知らない内に愛流の過去を責めていたということではないか。
普通はこうするべき、そのようなことをするのは異常だ。そうした言葉の数々が、どれほど愛流の心を抉ったことだろう。
途端に陽子は、自分がいかに浅はかな人間なのかと、感じるようになった。
「難儀な息子だよ、本当に」
茂が額に手を当てる。言葉の内容とは裏腹に、そこには父親としての温もりがあった。
「愛流。この名前は家に来た時、愛流自身が名付けたものなんだ」
「そうなんですか」
「ああ。川に流れる水のように、一か所に留まることを嫌う、自由な生き方をしたい。そういう意味を込めて自分に名付けたらしい」
愛流は自由を好む上に、どこか浮世離れした雰囲気を身にまとっている。意味を聞いた今となっては、その名がピッタリなように陽子には思えた。
そのことを陽子は言葉にした。すると茂は難しそうに顔を歪める。
「確かに自由そうには見えるが、実際には違う。色んなものに縛られているのさ」
「そうですか?」
「過去を振り返らないと言いながら、トラウマに囚われている。価値観は一つに縛られるべきじゃないと言いながら、自分が気に入らない考えの人間を前にすると歯止めが効かなくなる。色んなことが矛盾しているのさ、愛流は」
確かに、茂の言うことは的確かもしれない。しかし――
「それでも、愛流さんは自由を愛しています」
「それは僕もわかっている。しかし人は、矛盾と共に生きていかねばならない。問題は、愛流がそれを受け入れられるかどうかだ」
沈黙が流れた。茂と陽子の視線がぶつかりあう。
やがて茂が目をそらした。
「たしかに川の流れは常に動き続けている。しかし道筋は決められている。それは果たして、愛流の求める自由と言えるのだろうか。僕にはずっとそれが疑問だった。獣のような攻撃的な面も、ロボットのように感情が乏しい面も、昔と比べると鳴りを潜めた。しかし表面上は明るく振舞っていても、愛流は誰にも心を開こうとしない。いや、開き方を知らないんだ」
茂が悔しそうに拳を握った。愛流の心を開かせることができなかった自分自身を責めているかのように陽子には見える。
「そこで考えたんだ。愛流の探偵業に、助手をつけたらどうかって。そうすれば嫌が何でも誰かと行動を共にすることになる。強引だが、人に心を開くきっかけになるんじゃないかと」
「それで、私を――」
「面接の時にイジワルな質問をしたのも、あの時どんな反応をするのか試す狙いもあったんだ。多くの人間が想定していない質問をされた時、即興で話を作ろうとする。けど陽子ちゃんは違った。自分を飾ろうとせず、素直に自分の本心を認めた。僕はね、そこから君の潔さと不器用ながらも眩い真っ直ぐさを感じた。君なら愛流の心を開いてくれるかもしれないと」
「だけど陽子ちゃんを危険にさらしていい理由にはならないわよね」
隣で里奈が頬杖を突きながら言った。その目は軽蔑するかのように細められ、目の前に座る父親を睨みつけている。先ほどまでの笑みは引っ込んでいた。
「父さんの気持ちはわかるし、愛流をどうにかしたいっていうのは私も同じよ。けどそのために陽子ちゃんを、今まで関わりのなかった女の子を無理矢理巻き込むなんて、賛成できない」
「里奈さん――」
「現に陽子ちゃんは吉岡に包丁で刺されそうになったっていうじゃない。愛流がいなかったら、今頃病院にいたかもしれない。それだけじゃない。陽子ちゃんは死体を見て、つらい思いをしたはず。それを自分の都合で背負わせて、父さんは何とも思わないの? 父さんなら、それぐらい想定できたはずでしょ」
テーブルを強く叩き、里奈が前のめりに茂を睨みつけた。茂は目を伏せ、口を真一文字に結んでいる。
「――確かに、頭を過りはした」
やがて茂が、重々しい口調で言った。
「愛流は一般の探偵とは違う。こうした殺人事件に巻き込まれることも少なくない。だから、陽子ちゃんも一緒に事件を追うことになるかもしれないと」
「そこまでわかっていながら、陽子ちゃんを同行させたの?」
「思考に都合良く蓋をした。探偵の助手をやってもらうことを事前に伝え、断られたり、逃げられたりする可能性を恐れた」
茂の言葉は、それ以上続かなかった。何かが破裂するかのような音がし、反射的に陽子は目をつぶる。
恐る恐る目を開いた。茂が右を向いている。陽子の隣には、ボールを振り被って投げたかのような姿勢の里奈が立っていた。
里奈が茂の頬を叩いたのだと、わずかに遅れて理解した。気のせいか、腫れた左頬がさらに赤くなったように見える。
「私は、あなたが父親であることが恥ずかしい」
絞りだすような声で、里奈が言った。茂はただ無表情に「返す言葉もないよ」と呟く。
里奈が椅子に座り直し、陽子に向き直った。そして優しく陽子の肩に手を置き「陽子ちゃん」と呼びかける。
「父さんが本当にごめんなさい。この人の言うことを聞く必要はないわ。バイト先は他にもたくさんあるんだし、辞めていいんだよ」
真っ直ぐな里奈の瞳と言葉が、陽子には嬉しかった。声音から本当に陽子を気にかけてくれていることが窺える。
しかし――
「ありがとうございます」
陽子は口元に笑みを浮かべた。そして肩に触れている里奈の腕をつかみ、ゆっくりと下ろす。そしてその日に焼けた手を握りしめた。
「でも私、このまま続けようと思うんです」
これは予想外の答えだったらしい。里奈は「えっ」と声を上げ、目を丸くした。茂も顔を上げてこちらを見る。
「そんな、どうして――」
信じられないといった風に里奈が首を横に振った。陽子は握っている手に優しく力を込める。
「確かに今日、怖い思いはしたし、瀬里奈さんの死体に触れた時、思わず吐いてしまいました。それぐらい、私にはショックが大きい出来事だったんです」
「だったら――」
「でも、私は知ってしまったから」
陽子はひと際声を大きくした。
「瀬里奈さんがいなくなったことで悲しみ、苦しむ人がいることを。依頼してきた人が、本当に助けてほしくて、愛流さんを頼ってきたことを。そして愛流さんが、あの明るい笑顔の裏で、苦しんでいたことを」
「陽子ちゃん――」
「私なら救えるなんて言えません。でも、マスターと同じ気持ちです。私も放っておくことはできない。だから、寄り添います」
あぁ、なんて自分勝手なのだろうと、陽子は思った。
愛流の気持ちなど無視だ。もしかしたら寄り添いたいと思うこと自体、傲慢なのかもしれない。
それでも構わないというのが、陽子の偽りのない気持ちだった。
愛流が助けを求められないのであれば、自分が率先して手を差し伸べよう。苦しさから涙を流すのであれば、その涙を拭きとり、自分もまた泣こう。
出会って二日の男に入れ込み過ぎていると言われても仕方がない。しかし陽子の中ではもう決めたことだった。
里奈はこれ以上何も言えないと諦めたのか、ため息を吐いた。一方で茂は目を伏せ、陽子の手を握ってくる。
「ありがとう、ありがとう――」
茂の声は震えていた。陽子は優しく、その手を握り返す。
それから陽子は喫茶「私生活」を後にした。もう日も暮れているので、愛流の助手として行動を共にするどうこうという話を本人にするのは、明日にすることにしたのだ。
愛流にまた怒られるかもしれないと思うと憂鬱だったが、そうも言っていられない。
寄り添うと決めた以上、逃げてはいられないのだ。
後ろ髪を引かれる思いで私生活に踵を返し、陽子は帰路についた。共に行動するとして、明日はさっそく吉岡を探しに行くのだろうかと考えながら――
しかし、陽子が想像していた「明日」が来ることはなかった。
次の日の朝、吉岡竜也がトラックに轢かれて死亡したというニュースが報道されたのだ。
(続)
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