page27「愛流の過去」
〇
結局パトカーは陽子の家にはいかず、夢見市警察署の駐車場に入っていった。
里奈の提案だ。愛流について話すに当たっては、茂も交えた方が良いだろうと考えたのだ。陽子もその意見には賛成だった。
パトカーから降りて駐車場を出ると、警察署の前に設置された横断歩道を渡る。そして喫茶「私生活」のドアを開けた。
「いらっしゃいま――おや、陽子ちゃんに里奈か」
カウンターの向こう側で、茂がカップを拭いていた。こちらに向けられた顔を見て、思わず陽子はぎょっとなる。
茂の左頬が真っ赤に腫れあがっていた。まるでケンカをしてきたかのような形相だ。
「マスター、その――」
「あぁ、これかい?」
茂が自分の頬を指さした。
「さっき愛流に、何も言わずに殴られたんだよ。けど、お客さんがいなかったのが救いではあるね。驚かせなくてすむから」
「まぁ、今回は無理もないわ。愛流がやってなかったら、私が殴ってた」
そう言って里奈は握った拳を手の平に打ちつけた。その言葉には怒気が含まれている。
「愛流が怒っているのって、そもそもは父さんが原因だからね」
「僕が? というか、一体何があったんだい?」
茂がキョトンとしながら指先をまた自分の顔に向ける。
「あの、愛流さんからは何も――」
「帰って僕を殴った後は、部屋にこもったきりだ」
そう言って茂は天井を指さした。
「もし良かったら、何があったか教えてくれるかな。コーヒーを淹れよう。里奈は、カフェオレでいいだろう?」
茂は陽子と里奈をテーブル席に座るよう促した。それから少しして、湯気の立つカップを三つトレーにのせ、テーブルの上に置く。
茂が席についたことを確認すると、陽子はパトカーの中で里奈に話した内容をそのまま説明した。茂もまた黙って聞いてくれていたが、さすがに陽子が愛流の腕の傷を見たという点には眉をわずかに上げた。
「そうか、それで愛流はあんなにも怒っていたのか」
話を聞き終えた茂が唸りながら腕を組む。近くで見ると、頬の腫れはより一層痛々しかった。
「私、知りたいんです。愛流さんとどういった経緯で出会われたのか、愛流さんの腕の傷は何なのか。本来なら、愛流さん本人に聞いた方がいいんでしょうけれど」
「まぁ、愛流のことだから絶対に話さないだろうね。でも、確かに事前に説明しておくべきだった」
珍しく茂が渋面を見せた。そして天井を見上げ、考え込むように目をつぶる。
「愛流と出会ったのは、十五年と三か月前。十二月の、雪の日だったかな」
「雪じゃなくて、雨ね」
カフェオレを啜りながら里奈が訂正を入れる。茂は「そうだったっけ?」と頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「覚えているわよ。私、冗談抜きで死ぬかと思ったんだから」
「確かに里奈にとってはそうだね。とまぁ、とりあえず十二月の、里奈の小学校時代最後の誕生日だったね。いつもは刑事の仕事で帰ることもままならない僕だったけど、その日は何とか早く家に帰ることができてね。誕生日ケーキを二人で食べようとしていた時に、インターホンが鳴った。里奈がドアを開けに行くと、子供が一人飛び込んできて、里奈を人質に取ったんだ。どこで手に入れたものなのか、サバイバルナイフを里奈の首元に当て、獣のようにギラギラした目で僕を睨み、この家に住まわせろって要求してきた」
「まさか、それが――」
「そう、愛流だ」
ある程度予想していた答えであるはずなのに、陽子は眩暈がした。
愛流と茂、里奈の出会いが壮絶であったこともそうだが、もう一つ要因がある。
話に出てきた少年と、今の愛流とでは印象が合致しないのだ。
今の愛流は、冷たい目を見せることこそあれど、決して獣のような危険な空気を醸し出すことはない。対して話に出てきた少年は最初からナイフを里奈につきつけたりと、攻撃的な面が強いように思える。
十五年という歳月があれば、変わるには十分過ぎる期間だ。それでも陽子は違和感を覚えざるを得ない。
ここでふと、陽子は疑問を持った。
「その後、どうなったんです? 愛流さんの言うことを聞いたんですか?」
今の話を聞く限り、茂と里奈は脅されて愛流の家族を演じていることになる。しかし二人からそのような雰囲気は感じられない。
陽子が何を言わんとしているのか、茂は悟ったらしい。「うーん、何と言えばいいかな」と唸り、顎を擦る。
「順番に説明するとね。里奈を人質に取られて、しばらくは睨みあったままだったんだ。でもパトカーのサイレンの音が近くで聞こえて、一瞬だけど愛流の意識がそちらに向いた。その隙をついて、僕が愛流に近づいてからナイフを叩き落とし、腕を締め上げてうつ伏せに倒したんだ」
ナイフを持っているとはいえ、当時の愛流は子供だったのだ。刑事である茂には、体格的にも経験的にも敵わなかったのだろう。
それを見越し、当時の愛流は里奈を人質に取ったのかもしれない。しかし結局は敗北することとなった。
「なのに父さんったら、結局は愛流の要求を飲み込むことにしたのよ」
里奈が肘を突き、握った拳の上に頬を乗せた。その言葉に陽子は目を丸くする。
「一体、どうして――」
「まぁ、簡単に言うなら、目だね」
「目?」
「そう。さっきは獣のような目と表現したけど、実際はもっと、それ以上に何かがあるように思えた。何て言うかな。子供には似つかわしくない、絶望で染まっているかのように暗い目と言うか――それが放っておけなくてね。もしそれが育った環境に起因するものなら、少しでも僕が取り払っていきたいって、そう思ったんだ」
茂が腫れた左頬を擦った。
「それが、愛流さんを引き取ることにした理由ですか?」
「まぁ、理解できないよね。里奈にも散々言われたから」
茂が苦笑した。里奈は「当然」と大きく頷く。
今は違うだろうが、当時の里奈にしてみれば、愛流はナイフを突きつけてきた恐るべき子供なのだ。里奈がそれを快く思わなかったのは無理もない。
「まぁ、かと言ってその場でどこの誰かもわからない子供を引き取るというのは色々と問題になりかねないからね。事件を通して知り合った、融通の利く養護施設に保護という形で一時的に預かってもらって、何とか養子縁組を結んだんだ。ただ――」
ここで茂が口を噤んだ。この先を言うべきか迷っている、というよりは、思い出したことで気分を悪くしたように陽子には見えた。
「ただ、どうしたんですか?」
恐る恐るといった調子で陽子は先を促した。茂は大きく息を吸い込み、口を開く。
「これは都合の良い考え方なのかもしれないが、やはり愛流を引き取ることにして正解だったかもしれないと、そう思ったんだ」
「どういうことですか?」
「施設の職員から当時聞いたんだけどね。風呂に入れようと愛流の服を脱がせた時、その人は悲鳴を上げたらしい」
「悲鳴って――」
「全身、傷だらけだったのさ」
陽子は言葉を失った。口は餌を求める魚のように半開きになるが、そこから入るものも出るものもない。
「左腕の傷だけじゃない。傷口が盛り上がったところや、青痣。そういった傷痕が体のあちこちにあったんだ」
「愛流さんの身に、何があったって言うんですか?」
陽子の問いかけに、茂は沈痛な面持ちで首を横に振るばかりだった。
「わからないんだ」
「わからないって」
「愛流の実の両親は見つからずじまい。愛流自身も、記憶がないと言って、何があったのか話そうとはしない」
「記憶がないって――本当に?」
「正確なところはどうだろうね。ただ愛流が僕らに会う前、過酷な環境にいたというのは確かだ」
陽子はぎこちなく頷いた。
幼い子供が傷だらけだったのだ。まず考えられるのは虐待だ。
虐待や育児放棄をし、子供が死亡するという事件はよくニュースで見る。当時の愛流は、直感的に身の危険を感じ、逃げ出したのかもしれない。
もし愛流の両親が見つかっていたとしても、虐待の疑いがある家の元に帰すのは地獄に行けと言っているようなものだ。結果的に茂が引き取ったのは、確かに正解と言えたのかもしれない。
「それから愛流を家族に迎え、里奈と三人での生活が始まった。しかし――」
そこで茂は一度言葉を切った。頬を引きつらせ、首元を掻く。
「そこからが、本当に大変だったんだ」
(続)
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