page26「愛流について」


   〇


 それからすぐに警察がやって来た。話しかけてきた中年男性が愛流の言った通りに通報してくれたのだ。

 事情聴取を終えた陽子は、アパートの前に停められたパトカーの後部座席に座らされ、外の様子を眺めていた。

 日はいつの間にか傾き、周囲をオレンジ色に染めていた。静かだったアパートには制服警官や刑事が入ったり出たりし、慌ただしく動いている。

 死体が見つかったのだ。これから吉岡は指名手配されることになるのだろう。警察の動き方に詳しくない陽子でも、それぐらいは想像がつく。

 先ほど、刑事達が話していた内容を耳にした。窓がわずかに開いていたのでその隙間から聞こえてきたのだ。彼らの話によると、瀬里奈の死因は絞殺である可能性が高いらしい。

 その話を耳にした時、陽子は嫌でも瀬里奈の死体の、首元にあった赤い手形を思い出してしまった。同時に内蔵がずっしりと重くなった感覚が蘇る。

 パトカーの中にいるのは陽子一人だった。

 愛流は男性が警察に通報したのを確認すると、左手を抑えながらバイクに向かって行った。そしてヘルメットを被り、シールドを上げて陽子に目を向ける。

「警察が来たら、起きたことを全部話すんだ。俺はちょっと考えたいことがあるから私生活に戻る」

「そんな――」

「姉貴には送ってもらうよう連絡しとくから。俺がいなくなってどうこう言う話になったとしても、陽子ちゃんは黙っていればいい」

「そういう問題ではなくて――」

 陽子はチラリと愛流の左腕に目をやった。血は止まったのか、赤い染みはそれ以上広がってはいない。しかし痛くないわけがないのだ。

 そうとわかっているのに、陽子はその話題を口にすることができなかった。愛流も陽子が何を言いたいのか気付いているのかもしれない。しかし話すことを拒絶するように、シールドを下ろす。

「陽子ちゃん」

 愛流のくぐもった声が、ヘルメット越しに聞こえてきた。

 シールドの奥にある愛流の目は、とても悲し気に見えた。

「怖い思いをさせてしまってごめん。やっぱり君は、俺について来るべきじゃなかった」

 絞り出すように言うと、愛流のバイクはエンジンをふかし、走り去っていった。

 ――なぜあの時、ちゃんと話をしようとしなかったのだろう。

 激しい後悔の念が陽子の中で渦巻いていた。

 愛流をあのまま行かせて良かったのだろうか。やはり無理にでも救急車を呼び、ちゃんと病院で治療させるべきだったのではないか。

 この後、愛流が自主的に病院に行くとは、陽子には思えなかった。

「お待たせ」

 陽子が頭を抱えていると、前の運転席に誰かが乗ってきた。陽子は顔を上げ、その人物を確認する。

 里奈だった。パトカーのエンジンをかけ、振り返る。

「それじゃあ家まで送っていくわね。場所ってどのあたり?」

 陽子は家の住所を淡々と伝えた。里奈はカーナビに打ち込み、目的地を設定する。

 間もなくしてパトカーは走り出した。家の前ではなく、近くで下ろしてもらうよう言った方がいいかもしれない。パトカーから里奈が出てくれば、母の歩美も驚いてしまうだろう。そう思っているのに、体にまとわりつく脱力感のせいで、それを里奈に言うことすら億劫に感じる。

「陽子ちゃん、大丈夫?」

 前を見ながら里奈が話しかけてくる。その声からはこちらを心配してくれる雰囲気を感じ取ることができた。

 いつの間にかパトカーは大通りに出ていた。道路を走る車の群れが、パトカーの車窓に映る。

「ええ。私は大丈夫です」

 陽子は笑顔を作って見せた。しかしそれは自分でもわかるほどぎこちないものであり、案の定、車内のルームミラーに映る里奈の眉間には皺が寄っている。

 しかしそれ以上追及しようとはせず「ならいいんだけど」と軽い調子で言った。それが陽子にはありがたく思える。

「ところで愛流なんだけど、どうしたの? さっきあいつから電話かかってきた時、様子が変だったんだけど」

 里奈が何気なくそう言った時、陽子の体は強張った。

「変、ですか?」

「そう。不機嫌というか、苛立っているというか。何かあったの?」

 敏感に感じ取ったのか、里奈が前を見ながら訊ねてきた。

 どう言えばいいのか陽子は迷ってしまう。しかし今のままでは、なぜ愛流があれほどまでに怯えていたのか、あの傷はどういった経緯でついたものなのか、何一つわからないままだ。ならば、姉である里奈に訊ねる他ない。

「――たぶん、私が愛流さんの腕の傷を見てしまったからだと思います」

「え、あの傷を?」

 ルームミラーの中にいる里奈の目が丸くなった。この様子だと、少なくとも里奈は愛流の腕に傷があることを知っているらしい。

 陽子は愛流の傷痕を見ることとなった経緯を、今日の調査をかいつまみながら共に話した。その間、里奈は運転しながら相槌を打ち、静かに聞いていた。

「そう。そういうことだったの」

 納得したのか、里奈が何度も頷く。それからは黙ったままだ。

 重い静けさ。息をすることすら苦しく感じられる。

 耐えられなくなった陽子は、胸にある思いを言葉にして吐き出す。

「私が、私が悪いんです。愛流さんが怯えているのをわかっていながら、無理矢理あの人の袖をめくったから」

「そんなわけないでしょ。陽子ちゃんは知らなかったんだし、ちゃんと話しておかなかった愛流の自業自得よ」

 里奈があっけらかんとした笑い声を上げる。陽子を励ますために言ったことかもしれないが、その言葉からは嘘を感じない。しかし当然、愛流をけなすために放った言葉でもない。

 それは信頼から生まれてくる言葉なのだ。

 ――うらやましい。

 そう思った自分に、陽子は驚いた。

 愛流と里奈は姉弟なのだ。信頼関係はあって当然だ。

 だからこそ、愛流は里奈を頼り、里奈もまた、愛流に頼まれたことをやるのだ。

 そうとわかっているのに、この心にあるモヤモヤは一体何なのだろう。

「あいつは昔っから、いや、初めて会った時からそうなのよ。自分のことは話そうとしないくせにああだこうだと図々しく要望を出して」

「――ちょっと待ってください」

 今の里奈の言葉におかしな点を感じ、気付けば陽子は声を上げていた。

「初めて会った時って言いました?」

 産まれた時からならまだわかる。しかし「初めて会った」という表現を姉弟に対して使うのは、あまりにも不自然だ。

 里奈もそのことに気付いたらしい。「あぁ」と声を漏らす。

「そうか、そうよね。まだそこらへん、ちゃんと話してないわよね」

 何を言っているのかわからず、陽子は混乱して瞬きするしかなかった。

「実はね、私と愛流には、血の繋がりはないの」

「え?」

 陽子はそれ以上の言葉を出すことはできなかった。

 里奈の言ったことが一瞬だが理解できなかった。

「血の繋がりがないって、つまり――」

「そう。実の姉弟じゃない」

「じゃあ、マスターとも」

「ええ、ないわ。一応愛流は、養子って扱いになるのかしらね」

 次々と出てくる信じられない内容に、陽子の頭はショートしそうになった。そんな混乱を感じ取ったのか「そりゃ驚くわよね」と里奈はあくまで明るく努めて声をかけてくる。

 陽子は深呼吸した。二回、三回と繰り返す。

 ようやく気分が少し落ち着いてきた。陽子は真っ直ぐ前を見つめ、首を縦に振る。

「ええ。すごく驚いたというか、頭がついていけないというか――」

 落ち着いたはずの思考が、再びパニックに陥ろうとする。陽子はそれ以上、上手く言葉を吐き出すことができない。

 このまま黙っていることもできるだろう。しかしそれは、愛流から逃げることと何も変わらないのではないか。

 先ほどのように、愛流の怯えを無視する行為になるかもしれない。だとしても、今の陽子にはこれ以外の方法が思いつかない。

 間違っていたとしたら、後で愛流の罵詈雑言を死ぬほど浴びることにしよう。

「教えて、くれませんか。その、愛流さんのことを」

 ルームミラー越しに、里奈が斜め右の方向に視線をさまよわせ、考える素振りを見せた。

 一番近い信号が赤になる。前の車が停止するのに合わせ、パトカーもスピードを緩めてから停まった。

「陽子ちゃん」

 運転席から里奈が振り返り、陽子を見た。

「この後、時間ってある?」


                                   (続)

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