page25「傷」
〇
バイクのスピードが緩み始め、やがて止まった。右側を見ると、古い木造建築の二階建てアパートが建っている。通路に面して部屋が五つずつ並んでいた。
どうやらここが、吉岡のアパートらしい。周りはコンクリート造りの塀で囲われており、唯一入れる箇所は人三人が横並びになって通れるかどうかといった幅だ。
そのアパートの入り口に愛流は停車した。右側のスタンドを蹴り下ろし、バイクをアパートとは反対方向に傾ける。
「ここだと邪魔になりませんか?」
「だからいいんだよ。もしも吉岡くんが逃げようとした時、妨げることができる」
ヘルメットを脱ぎながら愛流が答えた。そして真っ直ぐに一階の右から二番目に位置する部屋に向かう。扉の隣にはドラム式の洗濯機が置かれていた。
色あせたインターホンを愛流は押した。軽快な音が陽子の鼓膜に響く。しかし目の前のドアが開く様子はない。
もう一度愛流がインターホンを押した。続けて「吉岡くん、俺だよ愛流」とドアに向かって呼びかける。
留守だろうかと陽子は思った。しかし間を空けて、扉の鍵が解錠される音がする。
ドアがわずかに開き、吉岡が顔を覗かせた。しかしドアにはチェーンロックがかけられており、表情は鬱陶しいと訴えている。警戒されているのは明白だった。
「探偵さん、どうしてここに――」
「ちょっと緊急で訊きたいことがあってね。部屋に上げてくれるとすごく助かるんだけど」
「すみません、今は都合が悪くて」
今までは智と比較しても協力的だった吉岡が、ここに来て渋った。愛流の推理を聞いた後だからなのか、陽子には酷く怪しく見えてしまう。
「どうしてもダメかい?」
「ええ。話ならさっきのようにどこかの店で聞きま――」
「瀬里奈ちゃん、中にいるんだろ?」
愛流が言葉を割り込ませた瞬間、吉岡の顔から表情が消えた。陽子は「ひっ」と歯の間から悲鳴を漏らす。
能面のようになった吉岡は、それほど不気味だった。
数秒の間、吉岡は固まったように動かなかった。やがてゆっくりとドアを閉める。ドアの向こう側から足音が聞こえた。
「陽子ちゃん。俺の後ろにいてくれ」
愛流が陽子の肩に手を伸ばし、自身の後ろに立たせた。その顔には緊張が走っている。
ドアのチェーンロックが外される音がする。かと思うと勢いよくドアが開かれ、獣のような叫び声と共に、吉岡がこちらに向かってきた。手には包丁が握られており、日光を反射してキラリと光る。
今までとは全く違う、吉岡の鬼気迫る形相を、陽子は愛流の背中越しに見つめた。心は恐怖に支配され、その場から動くことができずにいる。
対して愛流は違った。包丁が向かってきているにも関わらず怯んだ様子はない。
吉岡は勢いを殺すことなく愛流に向かってくる。間もなく包丁が愛流の腹部に刺さるかと思われた。
しかしそのようなことは起こらなかった。
愛流は至って冷静に、突進してくる吉岡の手首を蹴り上げた。包丁は空中で回転し、愛流の足元に落ちる。
しかし吉岡が観念することはない。愛流の顔面目掛けて拳を突き出した。しかしこれも愛流はかわし、吉岡の手首をつかんで逆手に取り、うつぶせにねじ伏せる。それでも吉岡はギラギラと怪しく光る目で愛流を睨みつけた。そこから狂気のようなものを感じ取り、陽子は一歩下がってしまう。
本当に目の前にいるのは、先ほど会った吉岡と同一人物なのだろうかと、疑いたくなった。
ただ愛流はあくまで冷たい目で吉岡を見下ろすばかりだった。
「お前に――」
吉岡が歯ぎしりしながら言った。口からは涎が垂れ、憎悪の目を愛流、陽子とそれぞれに向ける。
「お前らに、あの奇跡を渡してたまるか!」
その瞬間、愛流の眉がわずかに動いた。それから状況は一変する。
力が緩んだのか、吉岡は激しく身悶えして、愛流の拘束を振り払った。
這いつくばるような形で前に進み、地面に落ちた包丁を拾う。そして立ち上がり、顔を上げた。
狂気的な目は陽子を真っ直ぐ捉えていた。
今度は自分が狙われている。そう認識しているのに、体は陽子の言うことを聞いてくれない。足がすくんでしまっているのだ。
吉岡はチャンスとばかりに包丁を握り直し、振り被るように腕を上げ、陽子目掛けて走ってくる。
「陽子ちゃん、逃げろ!」
愛流の叫び声が耳に届く。しかし呼吸が荒くなった陽子に、それは無理だった。
もうダメだ――諦めた陽子は強く目をつぶった。
しかしいつまでも痛みはやってこない。陽子は恐る恐る目を開けた。
目の前にはバイクの上で見続けてきた愛流の背中があった。「ううっ」といううめき声が聞こえてきたかと思うと、拳を振り上げる。
「何、しやがるんだ!」
怒声と共に、愛流の拳が振り下ろされた。視界の端で、吉岡が再び倒れる。顎を強く打ち、細い歯が一本、包丁と共に落ちた。口からは真っ赤な血が流れている。
「クソッ」
愛流が悪態を吐き、左腕を力なくぶら下げた。それを見た瞬間、陽子は息を呑む。
「愛流さん、血が!」
白いシャツで覆われているはずの愛流の左腕は、赤く染まっていた。陽子を庇ったせいで負った傷であることは間違いない。
「大丈夫。これぐらい大したことない」
愛流は振り返ることなくそう言った。まるで広がろうとしている血を隠すように、右腕で左肘の辺りを握る。
その言葉が嘘であることは目に見えてわかった。シャツにこびりついた血がそれを証明している。
「そんなわけないじゃないですか」
陽子は近づきながらジーンズのポケットからハンカチを取り出す。その瞬間、愛流の顔に緊張が走った。
「何をする気?」
「傷口にハンカチを当てるんです。少しでも血を止めないと」
陽子が愛流の左手を摑もうとする。しかし――
「やめろ!」
強い勢いで愛流が振り払った。
突然のことに陽子は驚き、愛流の顔をマジマジと見る。
顔に浮かんでいるのは、この二日間で見たどの表情とも違っていた。飄々とした雰囲気も、不敵な笑みも、相手を責める冷酷さもない。
怯えだった。いじめっ子に囲まれた子供が逃げようとするかのように、愛流は腕を抑えたまま下がる。
なぜ愛流がそのような表情をするのか、陽子にはわからなかった。しかし今は止血の方が優先だ。徐々にではあるが、赤い染みは広がりつつある。
「今は私の言うことを聞いてください!」
陽子が勢いよく進み出た。愛流は逃げようとするも、やはり腕が痛むのか顔を歪める。その隙に距離を詰め、今度こそ愛流のシャツの裾をつかんだ。
「離せ!」
凄まじい剣幕で愛流が引きはがそうとしてくる。陽子はつかまれた箇所に痛みを感じながらも、吹っ飛ばされそうになるのを堪えた。
段々と苛立ちが募ってくる。なぜこの男は、素直に言うことを聞いてくれないのだろう。
ただハンカチをあてがうだけで良いというのに――
しかし愛流も、完全に我を忘れたというわけではない。その証拠に、その気になれば陽子の体など簡単に突き飛ばせるだろうに、そうはしない。
あまり好きではないが、それを利用させてもらう。
一瞬の隙をつき、何とか陽子は愛流の着ているシャツの袖をめくることができた。
腕の傷を確認する。シャツについた染みの割には、あまり血は多く出ていないように見えた。
しかし――
「え?」
視界に映ったものが信じられなくて、陽子は目を丸くした。
赤く染まった愛流の腕には、白い線が入っていた。元々愛流の肌は白いが、その線はミミズ腫れのように浮き出ており、存在感を醸し出している。
――リストカット。
ふいに陽子の頭に、その単語が浮かんだ。無意識の内に眉尻にある自分の傷痕に触れる。
ただ愛流の腕にある白い線は、一本どころの話ではない。腕の中心部に集中するように、何度も何度も傷つけられた痕跡を痛々しく残している。パッと見ただけでも、十か所は超えるだろう。
そこで愛流が陽子の手を払い、袖を元の位置に戻した。
反射的に陽子は頭を上げる。愛流の顔は真っ青になっていた。体は震え、視線は右に左にと揺れている。
気まずい沈黙が流れようとした、その時だった。
「あんたら、ここで何やってるんだ?」
声をかけられ、陽子はそちらに目をやった。
アパートの方向から、中年の太った男がこちらにやってこようとしていた。
どうやらこのアパートの住人らしい。吉岡との騒ぎを聞きつけて、外に出てきたといったところだろう。
――そうだ、吉岡さん!
そもそもの自分達の目的を思い出し、陽子は吉岡が倒れていた場所に目をやった。
しかし既に遅かった。
今の愛流とのやり取りの間に、吉岡は逃げ出したらしい。地面に落ちているのは、彼の歯と流れ出た血だけだった。
愛流が作ったバイクのバリケードも、時間があれば避けて通るぐらい、造作もなかったはずだ。
「すみません、愛流さん、私――」
「いい。瀬里奈ちゃんが部屋にいれば、彼の捜索は警察に任せられる」
愛流は陽子の顔を見ようともせず、機械的に言った。そしてアパートに向けて歩み出す。
先ほど声をかけてきた中年男の眉間に皺が寄った。視線は愛流の抑えられている左腕に向けられている。
「おい、あんたケガをしているじゃないか。今すぐ救急車を――」
「気にしないで。それに呼ぶなら一一九より一一〇をお願い」
状況が飲み込めない中年男を押しのけ、愛流は吉岡の部屋の前に立った。ドアは開け放たれたままで、照明一つ点いていない玄関が見える。
陽子は一瞬迷った後、愛流に歩み寄った。そもそもの自分達の目的は、この部屋にあるのだ。
陽子は深呼吸し、玄関に向けて一歩踏み出した。
「待て」
愛流の呼び止める声が背後から聞こえる。しかしもう遅かった。
靴脱ぎに立つと、右側にはキッチンスペース、左側にはトイレが設けられていた。そして正面には独特な香りを放つ畳。間取りで言うと1Kの部屋だった。
和室の窓にある閉められたカーテンからは、光が隙間から漏れていた。それが照らすものを見て、陽子は声を出せなくなった。
部屋の中央には、敷布団が一枚敷かれていた。そしてその上に全裸の女性が寝かされている。
病的なほど白い肌に、整った顔立ち。腹部に無駄な脂肪はなく、頬はふっくらと丸みを帯びているがたるみはない。
その女性は、間違いなく神野瀬里奈だった。ただ首元が妙に赤くなっており、それが手の形に見えてしまう。
――ようやく見つけた。
陽子は夢うつつのような状態でスニーカーを脱ぎ、和室に入っていった。そして瀬里奈の側に来てしゃがみ込む。
こうして実際に見ても、やはり死んでいるとは思えない。それほどまでに瀬里奈の体は美しかった。
眠りの森の美女のように、何かの拍子に起き上がるのではないか。そう陽子には思えてならなかった。
愛流から死蠟化に関する知識を教えらえたところで、目の前でこんなにも美しい体が置かれていたら、本当にありうることなのだろうかと、疑う心が生まれてしまう。
陽子は黙って瀬里奈の目が伏せられた顔を見つめていた。そしてほとんど無意識の内にその頬にゆっくりと触れる。
見た目ではわからなかったが、肌の表面は脂を塗りたくったかのようなぬめりがあった。何より触れた指先からは、体温というものを一切感じられない。
ここに来てようやく、陽子は目の前にあるものが腐らない死体であることを認識した。
陽子の胃の中から、急速に何かがこみ上げてくる。急いで陽子は立ち上がり、キッチンスペースに向かうと、排水溝に向かって嘔吐した。
(続)
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