page21「屈辱」


   〇


 神野家を出た後、愛流と陽子は根耳公園の駐車場へと向かっていた。

 公園の敷地内に入った瞬間、陽子は山田に遭遇するのではないかと警戒するが、幸いそのようなことはなく、バイクの前まで戻ってくることができた。

 ここに来る途中から、愛流はどこかに電話をかけていた。一度だけ吉岡の名前が出たので、通話相手は彼だと思うのだが、どのような話をしているのかは上手く聞き取れない。

「――そう。わかった、ありがとうね」

 通話が終了したらしく、愛流が耳からスマートフォンを外した。そのままディスプレイを操作する。

「これから、吉岡さんのところに行くんですか?」

 今までの流れからして、吉岡にも改めて話を聞きに行くのだろう。陽子はそう予想したが、愛流は首を横に振った。

「そのつもりだったんだけれどね。変更して、これから智くんに会いに行く」

「は?」

 自分のものとは思えないダミ声が、陽子の口から漏れた。それほどまでに、愛流の言ったことが信じられなかったのだ。

「なぜ、あの人に?」

「智くん、毎週火曜日は朝から資格講座のために大学に来ているらしいんだよね。春休みなのに、ご苦労なことだ。で、吉岡くんが住んでいるところは同じ夢見市内でもここからだと反対の位置にあるから、先に大学に行った方が効率が良いってわけ」

 愛流がスマートフォンをハンドル部分に取り付けたスマホホルダーで固定した。画面上では地図アプリが起動されている。

「それはわかりますけれど、本当にあの人に聞くことがまだあるんですか?」

「あるから行くんじゃん。それとも、まさか昨日はあんだけ大きく出といて、ここに来て智くんが嫌いだから行きたくない、なんて言うんじゃないよね」

 陽子はうっ、と言葉を詰まらせた。愛流の言ったことが的を射ていたからだ。

 智の傲慢さは思い出しただけでも鳥肌が立つ。しかし愛流の言う通り、嫌いだから行きたくない、などとわがままを言うのは、あまりに自分勝手と言えるだろう。

 愛流はいつの間にか自身のヘルメットを被っていた。そしてもう一つのものを、陽子に差し出す。

 一瞬ためらったが、ため息を吐き、陽子はヘルメットを受け取った。そしてタンデムシートの足場にスニーカーを乗せる。

 陽子がタンデムシートに座ったことを確認すると、バイクは唸り声を上げて走り出した。

「そういえば、愛流さんって以前にも神野さんの依頼を受けているんですよね」

 走り始めて少し経ってから、陽子はインカムのマイク越しに訊ねた。

 神野家では訊けなかったが、今は移動中だ。訊ねるならば、このタイミング以外に思いつかなかった。

〈まぁね。ちょうど三年前だったかな〉

 前を見つめたまま、愛流が言った。

〈家出って言うのはもう聞いてるんだっけ〉

「はい。瀬里奈さんが家出して、神野さんから依頼を受けた愛流さんが見つけたって言うのは聞いてますけど、その原因とか、瀬里奈さんがどこにいたのかっていう具体的なところはまだですね」

 茂から聞いた話を思い出しながら、陽子は答えた。

〈そう。まぁきっかけから説明するとね。いわゆる親子喧嘩ってやつ〉

「親子喧嘩、ですか?」

 陽子にとっては意外な言葉だった。

 今までの瀬里奈の印象を聞く限り、何かに怒るというイメージがどうしても結びつかない。ましてや母にも優しくしていたというのにだ。

 陽子の驚きを察したのか、ヘルメットに内蔵されたスピーカーから、愛流の吹き出す声が聞こえてくる。

〈まぁ、驚くのはわかるよ。たぶんあれじゃないかな。優しいからこそ普段は感じた不満を口に出せないっていうか。瀬里奈ちゃんの中で溜め込んでいたものが、その時に爆発したっていう〉

 愛流の説明を聞き、陽子は少し納得した。

 温厚な学級委員長タイプの生徒が、授業中に騒いでいる生徒に注意しても聞いてもらえず、ついに怒りが爆発してしまったという話は聞いたことがある。おそらくそれに似た類のものなのだろう。

〈で、その時に瀬里奈ちゃん、中々辛辣なことを言ったらしいんだよね。お母さんは私を作品の一つとしてしか見てないんでしょって〉

「それって――」

 先ほど家を出る際、神野が言った言葉に結びつきがあると思える発言だ。

 そう言われてから神野が気にするようになったのか、あるいはそれ以前から自分にそうした疑問を抱いていたのかはわからない。しかしその言葉が神野の心に深く突き刺さったのは間違いなかった。

〈で、神野先生もその言葉できれちゃってさ。気付けば瀬里奈ちゃんの頬を叩いていたんだって。それから瀬里奈ちゃんはすぐに家出したってわけ〉

「そう、だったんですね」

〈そして神野先生が俺に依頼してきたのは、その翌日だった〉

「その時も、愛流さんは旅行中だったんですか?」

 愛流が頻繁に一人旅をしているという話を思い出し、陽子は訊ねた。目の前の後頭部が、静かに横に振られる。

〈ちょうど親父の店を手伝っていた時だ。旅の資金を稼ぐために、探偵だけじゃなくて、あの喫茶店でバイトみたいなこともしているからね〉

「じゃあ、愛流さんがお店にいる時に、神野さんが依頼してきたんですね」

〈そういうこと。警察は人手不足だから事件性がないと動くことは難しいしね。まだ探偵の方が可能性はあるでしょ〉

 愛流が肩をすくめて見せる。そのタイミングで信号が赤になり、バイクは白線の前で停まった。

「それで、どれくらいの期間で見つかったんですか?」

 もし一週間やそれ以上となれば、瀬里奈の体力も気力もかなり消耗していたはずだ。どこにいたとしても、ケンカして家を出てしまったという後悔が、彼女の心にはあったことだろう

〈まぁ、家出してから二日目。つまり俺が依頼を受けた翌日だったかな〉

「そんなに早く!」

 思わず陽子は声を上げた。すると愛流が振り返り、シールド越しに陽子を睨んでくる。ヘルメット内に内蔵されたスピーカーから、陽子の声が大音量で流れてしまったのだろう。

 言われなくても、うるさいという愛流の気持ちが伝わってきた。しかしそれを結局は口にすることなく、再び前を向く。信号が青になり、バイクは走り出した。

〈神野先生やその友達とかから瀬里奈ちゃんの性格を聞いて、彼女が自分の都合で誰かの家に行ったとは考えにくかったからね。人一倍気を遣うタイプだと思ったし。で、とりあえず夢見市内の野宿できそうなところを探して行ったら、河原にある高架下で発見したってわけ〉

 愛流が自慢げに話した。ヘルメットの下では、鼻を天狗のように伸ばしている姿が想像できる。

 しかし依頼を受けた翌日に瀬里奈を見つけてしまうその手腕には、やはり感心せざるを得ない。

〈で、見つけて瀬里奈ちゃんを神野家に連れて行って、先生に引き渡したよ。最初はまたケンカでも勃発するかなって思ったけど、泣きながら抱きしめ合って、お互いに謝ったってわけ〉

 おちょくるような言い方だったが、その言葉に軽蔑の雰囲気は感じられない。むしろうらやましさがあるように陽子には思えた。

 よく考えれば、愛流は母を失っているのだ。だからその姿は彼にとって、羨望の的と言える光景だったのだろう。

 そうだと、陽子はもう一つ疑問に浮かんでいたことを訊ねる。

「話ちょっと変わるんですけれどね。愛流さん、昨日私に死蠟化のこと説明してくれたじゃないですか。あれって、世間一般に広く知られていることなんですか?」

 陽子にとっては初めて聞いたことだったが、他の人間に訊ねてみれば案外知っている者は多かったというパターンがある。それが気になり、陽子は質問したのだ。

〈んー、まぁ、あんまり知られていないんじゃないかな〉

 愛流はヘルメットの顎にあたる部分を撫でながら言った。

〈あくまで俺の認識だけどさ。知っているとなると、たぶん監察医のような死体に関する知識を持っている人ぐらいだと思うよ。後は、ミステリー小説でも度々出てくるから、そういうのが好きな人は把握しているかもね〉

「ミステリー」

 その言葉に陽子は引っ掛かりを覚えた。先ほど米田はミステリー小説を特によく読むと言っていた。

 ――米田さんは、死蠟化のことを知っていたのだろうか。

 などと陽子が考えていると、バイクのスピードが徐々に遅くなっていった。

 また赤信号かと思ったが、それは違った。気付けばもう北東学園大学の駐車場に到着していたのだ。そして昨日と同じスペースに、バイクは停まろうとしていた。

 バイクから降り、ヘルメットをホルダーに掛けるなり、愛流はレンガ造りの校舎へと向かった。陽子は慌てて後を追う。

「あの校舎で資格講座をやっているんですか?」

「吉岡くんによると、そうみたいだよ。ほら、言っている間に来たみたい」

 そう言って愛流は校舎を指さした。

 愛流の言う通り、校舎一階の自動扉から、大学生達がチラホラと出てくる。どうやらちょうど講座は終わったようだ。

 智の姿がないか、陽子は探した。そう時間もかからずに見つけることができた。

 離れた場所からでも、茶髪のマッシュにシルバーフレームの眼鏡は目についた。

 陽子と同じタイミングで愛流も発見したらしい。向かってくる人を避け、智の前に立つ。

「やぁ、資格講座お疲れさま」

 俯き加減で歩いていた智が顔を上げた。愛流と陽子の姿を確認すると、キザったらしく眼鏡のフレームを上げる。

「おや、昨日の探偵さんじゃありませんか」

 人を嘲るような言い方。陽子は背筋に冷たいものが走るのを感じ、身震いした。

「どうしたんですか、わざわざまた大学に来て」

「君に改めて話を聞きたくてね。時間は大丈夫かい?」

 智がチラリと腕時計に目をやる。そして口角を上げて頷いた。

「少しでしたら、大丈夫ですよ」

「ならちょうどいい。俺も長く引き留めるつもりはないから」

 そう言って三人は道の端へと移動した。中央にいたままでは通行人の邪魔になるだけでなく、人が気になって仕方ないと思っていた陽子としてはありがたかった。

「それにしても、よく僕が資格講座を受けに来ていることがわかりましたね。誰に訊いたんです?」

「吉岡くんさ」

「あぁ、なるほど」

「何の資格を取ろうとしているんだい?」

 昨日と同じように、愛流が事件とは関係なさそうな質問を始めた。しかしここから徐々に核心に迫っていくのであろうことを、陽子は知っている。

「宅建(たっけん)ですよ」

「たっけん?」

 聞きなれない言葉に、陽子は訊き返した。そしてすぐに後悔する。

 智のことだ。人を馬鹿にしたような態度をしてくるに決まっている。

 案の定、智は訊いてきた陽子を鼻で笑った。人を見下すような目を殴ってやりたいという衝動を、陽子は何とか抑え込む。

「宅地建物取引士(たくちたてものとりひきし)。通称、宅建。不動産取引の専門家を示す資格ですよ。最大規模の国家資格だから、君も受けてみるといい。結果はどうあれ、経験にはなるだろうからね」

 ニヤニヤと笑う智の言い方は、どう取っても馬鹿にしているようにしか思えない。陽子の中で、この男への嫌悪感がさらに増した。

「にしても積極的に資格の勉強なんて、すごいね。大半の大学生はそういうの嫌がりそうなのに」

 愛流が智の肩を抱き、称賛する。智はまんざらでもないらしく、自慢そうに笑った。

「大学を卒業し、社会人になってから資格を取っておけば良かった、なんて後悔する話はよく聞きますからね。そんな馬鹿な真似を見ないために、一つでも多く取っておきたいだけですよ」

「なるほどね。つまり君は、公園の宴会の時でも、その馬鹿な真似は一切やっていないと、そう言いたいわけだ」

 愛流がそう言った瞬間、智の顔から表情が消えた。頬を引きつらせ、隣の愛流を見る。

「何のことでしょう?」

「聞いたよ。公園で宴会していたそうじゃないか。大学側にバレたら、君の経歴に傷がつくね」

 愛流はいつも通りの軽薄な笑みを浮かべている。その軽さに反し、言葉は酷く冷ややかだ。

「誰から聞いたかは知りませんが、ばれてはいません。あなたにとっても、大学側にそのことをちくるのは何のメリットもないのでは?」

「まぁね。俺の口から大学にそのことを言うつもりはないよ。瀬里奈ちゃんの死体の件も含めてね」

 すると智が、目に見えて動揺した。眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれ、異物でも見るかのように愛流をマジマジと見つめる。

「荒井切が、あの追放されたバカが言ったんですか」

 言ってから智はしまったというように口元を抑えた。

今のは愛流の言葉を認めるようなものだと、陽子は思った。そして放った言葉を元に戻すことはできない。

 愛流が勝ち誇ったような笑みを見せ「そうか、櫂入くんが知っているのか」と嘯きながら智の肩を叩いた。

「櫂入くんから聞かなくてもわかるよ。俺、探偵だよ。それぐらいの情報、調査していれば自然と入ってくるって」

「あなたが聞いたのは、とんだガセネタですよ。僕は何のことか知らないな」

 そう言う智の顔からは、明らかに余裕がなくなっていた。腕を組み、落ち着きなく肘を指で叩いている。愛流はその様子を楽しんでいるかのように、サディスティックに口元を歪ませた。

「あの場でちゃんと通報していれば、部活動の一時停止程度で済んだろうに」

「何?」

「死体遺棄にその場にいた者全員の脅迫、その時、未成年で酒を呑んでいた大学生はいたのかな? まぁどっちでもいいけど。とにかく、君は法に触れてしまった。自分の器には当てはまらないプライドのために。これが馬鹿な真似じゃなくて何て――」

「黙れ!」

 智が激高し、愛流の手を払った。

 怒鳴り声によって、周囲の大学生達が陽子達に向けて奇異な視線を送る。智は肩で息をしながら、この場から逃げるように歩き去っていった。

「どう、陽子ちゃん?」

 急に名前を呼ばれても、陽子は上手く反応を返すことはできなかった。

「どう、とは?」

「少しはスッキリしたかい? 智くんがあれだけ戸惑う姿を見て」

 陽子は何度も瞬きしながら、肩をすくめる愛流を見つめた。

今の言葉はつまり――

「私のために、彼を怒らせたってわけですか」

「まさか。本来の目的のついでに、スカッとしたかどうか聞きたかっただけだよ」

 陽子はため息を吐いた。

 確かに愛流はあくまでも調査を優先している。自分のためにしてくれたのかなどと考えるのは、単なる思い上がりだろう。

「けど、何のために怒らせたんです?」

「智くんを動揺させて反応を見ておきたかったんだよ。物的証拠にはならないけど、本当に池にあったのは瀬里奈ちゃんの死体だったのか、確信を持つためにね」

 愛流の話を聞き、陽子は納得した。だからあのように、上げてから落とすような話の持って行き方をしたのか。

「で、結果はどうでした?」

「たぶん陽子ちゃんが感じている通りだよ。智くんの反応、あからさま過ぎたからね」

 陽子は思わずふふっと笑った。しかしすぐに真顔に戻る。

 智のあの動揺振りは、確かに愛流が言っていることが真実であることを物語っていた。

 あの池には、瀬里奈がいた。今はどこかに消えてしまった、彼女の死体が――


                                   (続)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る