page20「普通の母親ではない」


   〇


 公園を抜け、住宅街を少し歩いたところに、神野の家はあった。

 立派な家を前に、陽子はあんぐりと口を開けて見上げる。

 重厚感のある黒いレンガ造りの玄関柱。白を基調とした外観からは清潔感が溢れ出て、見る者を引き付ける。二階建ての一軒家ではあるが、周囲の住宅と比べても存在感が大きい。

 愛流がインターホンを鳴らす。〈はい?〉と、スピーカーから神野の上品な声が流れてきた。

「愛流だよ」

〈少々お待ちください〉

 そう言って神野の声が途切れた。そのすぐ後だった。

「探偵さん、今来られたところだったんですね」

 後ろから声をかけられ、陽子は振り返った。

 瀬里奈の恋人である米田が、後ろに立っていた。

 黒いスラックスは同じだが、白いパーカーにスニーカーと、ラフな服装だった。昨日は真面目そうな印象だったが、今日は爽やかに思える。

「米田さんは、どうしてここに?」

 陽子が首を傾げた。昨日の話を聞く限り、愛流が話を聞きたいと言ったのは、神野一人だ。

「実は神野先生に呼ばれたんです。今日探偵の方々が来る。もしかしたら僕にも話を聞きたいことがあるかもしれないし、都合が合えば来てほしいって」

「さすがは神野先生。気が利いて助かるよ」

 愛流が神野の家を指さした。その時、玄関の扉が開き、神野が姿を現す。

 こちらも昨日の服装とは対照的に、ブラウスとスキニーというシンプルなものだった。上下ともに黒一色だ。だからこそ、神野の白い肌がひと際目立って見える。

「ようこそおいでくださいました。あら、米田くんも来たのね。では皆さん、どうぞ中へ」

 品のある声で、神野は家に入るよう促した。

 陽子は自分のような庶民が入ることが場違いのような気がして、緊張してしまう。しかし愛流は陽子のように気にした素振りもなく、今にも口笛を吹きそうな軽い調子で家に入っていった。

 ――あの人の心臓、一体何でできてるんだろう。

 愛流の図太い神経に感心とも呆れともつかない印象を抱きながら、陽子も玄関に入っていった。

 廊下を通り、リビングに案内される。部屋に入った瞬間、陽子は我が目を疑った。

 一瞬、リビングだとわからなかったのだ。

 陽子の家にあるリビングの倍近くは広さがあるかもしれない。窓から差し込む日光がフローリングの床に反射し、部屋の中をより明るく見せている。

 外観と同じく白をベースにした壁には、日本絵が何枚も飾られていた。そこで神野が日本画家であるという話を思い出す。

「少しくつろいでいてくださいね。コーヒーと紅茶がありますが、いかがいたしましょう?」

 リビングに入って左側に設置されたキッチンに向かいながら、神野が訊ねてきた。

「あ、じゃあ私はコーヒーを」

「俺は紅茶で。レモンティーにしてくれたら、なお嬉しいかな」

 愛流の図々しいとも思えるオーダーにも、神野は笑って頷いた。

「手伝いますよ」

 米田がキッチンに向かい、神野の隣に立った。

 陽子と違い、物怖じしていない。その姿から、何度もここに来ていることがうかがえた。

 神野にくつろぐよう言われたが、とても陽子はそのような気分にはなれなかった。

 ただでさえここ数年、他人の家に上がり込んでいなかったというのに、リビングがあまりにも立派過ぎて、どうしても緊張してしまう。

 端っこで棒立ちしている陽子とは違い、愛流は平然とした態度で壁にかけられている絵を眺めていた。

 どうすればいいかわからない陽子は、愛流について行く以外の選択肢を思い浮かべることができなかった。

 日本絵というものを陽子はあまり見たことがなかった。美術館に行くこと自体がないのだ。初めての鑑賞がまさか芸術家本人の家でのものとは、思いもしなかった。

 最初に愛流と眺めたのは、白い毛むくじゃらの大型犬の絵だった。涎を垂らし、見開かれた目はギラギラと輝いている。獲物を前にしているのかもしれない。

 その隣の絵は、長い髪の女の絵。手には逆さにした赤ん坊を持っている。よく見ると顔と手以外の体、つまり胴体と足元が描かれていない。

 陽子の腕に鳥肌が立った。寒気と恐怖を感じる。にも関わらず、無表情に遠くを見つめる女の顔に、どうしても引き付けられてしまうから不思議だ。

「そういえば、先生は絵を描く時、まずテーマに関わる学問を学んでから描き始めるんだっけ」

 愛流が振り返り、キッチンの神野に問いかけた。神野は薄く笑い「ええ」と頷く。

「あの、学ぶって?」

 陽子は首を傾げた。愛流は改めて絵を眺めながら口を開く。

「神野先生の描き方の一つ、と言えばいいのかな。先生は何を描くか決めた時、それに関わる事柄の知識を頭に入れるんだ。内臓や骨を描くなら解剖学、この絵のように、幽霊に関することなら、怪談話や伝承を調べたりってね」

「へぇ」

 陽子は感心した。それは神野の一枚一枚の作品に向けるこだわりに思えたからだ。だからこれほど迫力のある絵を描けるのかもしれないと納得する。

 その他にも、三枚ほどの絵が飾られていた。首から下が骨になったネズミの絵。ゾンビのように皮膚が腐敗した女が、白い肌の美女を池から連れ出そうとしている絵。最後は一人の少女がこちらに笑いかけているものだった。

 その最後の一枚、描かれた少女に、どこか見覚えがあった。しかし陽子よりも早く、愛流が答えにたどり着く。

「これは、瀬里奈ちゃんか」

「えぇ、そうです」

 神野がトレーに乗せたカップを、リビングの中央より右側に置かれた透明なローテーブルに置いていく。その周囲には黒い革のソファが取り囲むように置かれていた。その前に、米田がボディーガードのように立っている。

「お、待ってました」

 言うなり愛流がソファの奥を陣取り、ローテーブルに唯一置かれたレモンティーのカップを持った。

「愛流さん、行儀悪いですよ」

 母親のような言い方で愛流を叱りながら、陽子は彼の隣に座った。そして三つあるコーヒーのカップの内、最も手前側に置かれたものを手に取り、一口すする。

 口の中に、コーヒー独特の香りと苦味が広がった。

「それで、瀬里奈は見つかりそうでしょうか?」

 神野は先ほどとは打って変わり、震える声で訊ねてきた。

 陽子はショックを受けたように驚き、神野の整った顔を見た。

 自分の娘が行方不明のままなのだ。平然としている方がおかしい。さっきの笑顔も、明るく振舞おうとして見せた、彼女の気丈さによるものなのだろう。

 少し考えればわかるはずなのに、気に掛けようともしなかった。そんな自分が、ひどく浅ましく思えてしまう。

「残念ながらまだだよ。瀬里奈ちゃんの大学の友達とかにも、色々と話を聞いたりしているんだけどね」

 レモンティーのカップを置き、愛流が手を組んだ。太ももの上で膝をつき、顎を擦りながら神野と米田を上目遣いに見つめる。

「ここに来たのは、神野先生に普段の瀬里奈ちゃんの様子を聞きたかったからなんだ。そこから何かヒントを得られるかもしれない。それに、米田くんにも」

 米田が黙って頷いた。

「そうだな、まずは米田くんから質問してもいいかな?」

「ええ、もちろんです」

 米田がカップを置き、向かいの席で前のめりになる。

「まず、二人が付き合ったきっかけについて、聞かせてもらってもいいかな?」

「付き合ったきっかけ、ですか?」

 米田が首を傾げた。わずかに頬が赤らんでいる。

 しかしその疑問は、陽子も当然だと思った。果たしてそれを聞くことに、何の意味があるのかわからない。

「瀬里奈ちゃんの人柄を把握する。そうすることで行動パターンを分析して、失踪当日どんな動きをしていたのか、考える参考にしたいんだ」

 顎を擦りながら愛流は言った。それで納得したのか、米田が「はぁ」と戸惑いながらも首を縦に振る。

「そういうことでしたら――僕と瀬里奈が知り合ったのは、大学で同じ講義を受けたことがきっかけでした」

 言いながら米田は天井を見上げた。

「彼女の品のある美しさに一目ぼれしたんです。僕らは同じ文学部を専攻しているので講義が被ることも多かったですし、それを利用して、会話の機会を増やしていきました。そして知り合って一か月後に、僕が告白して、オーケーをもらえたという感じですね」

「なるほど。青春だね」

 愛流がニヤリと笑った。それが意味深なものなのか、単に意味なく笑っただけなのか、陽子には判断がつかない。

「具体的に、米田くんから見た瀬里奈ちゃんの印象を教えてもらってもいいかな。品があるって言ってたけれど、他にはない? もちろん、付き合ってから抱いた印象とかも話してくれると嬉しいけど」

「他、ですか。そうですね。やや気の弱いところは目立つなと思いましたけど、それが嫌だとか感じたことはないですね。いつもおっとりしていて優しくて。僕にとって、一緒にいてくれるだけで安心感がある。そんな女性です」

 米田の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。

 陽子は本当に米田が瀬里奈のことを好いていることを感じつつも、同時に胸が締め付けられるように痛んだ。

 既に彼女は死亡しているかもしれない。まだ確証がないとはいえ、そのことを黙ったままで本当に良いのだろうかとつい思ってしまう。

「少しひどい質問になるかもしれないけどね。瀬里奈ちゃんがいなくなった後、何か生活に変化はあったかい? 例えば趣味でやっていることができなくなったとか」

 レモンティーを一口飲んだ後、愛流が目を細めて質問した。

 途端に米田の表情が消えた。息遣いがわずかだが乱れる。

「そう、ですね。読書は集中しにくくなりました」

「読書?」

「はい。僕、小説を読むのが好きなんです。特にミステリー系統のものが。ただ、彼女が行方不明になってからは、今頃どうしているのかが気になって仕方なくて、目の前にある本にも集中できなくなりましたね」

 米田がため息を吐いた。腕が震えるほど拳を強く握り、それを額に当てる。

「もう一ついいかな。君は美術部に瀬里奈ちゃんのことを聞きに行ったらしいけど、間違いないかい?」

 愛流がそう訊ねた瞬間、米田の顔が強張った。その様子だけで、当時の怒りが蘇ったであろうことが陽子にもわかった。

「はい、間違いありません」

 震える声で米田が言った。

「そうだったの?」

 神野が目を丸くして米田に訊いた。どうやら今初めて聞いたようだ。

「申し訳ありません。つい話しそびれてしまいまして」

 米田が頭を下げた。神野は「いいのよ」と言いながらも、少し不満そうだ。

「確認のために、その時の話を聞かせてほしいんだ」

「いいですけど、それも瀬里奈の失踪に関係してくるんですか?」

「少なくとも、美術部の部長が無意味な嘘を吐く人間かどうかの判断材料にはなる」

 米田は眉間に皺を寄せてやや不満気な表情を浮かべつつも、その時のことを話してくれた。しかしその内容は、昨日智が話したことと大差なかった。

「話を聞かせてくれてありがとうね」

 値踏みするような視線を愛流は米田から神野へと向けた。

「じゃあ、次は神野先生だ」

 そう言って愛流はレモンティーをまた一口飲んだ。そうやってわずかな間を作ってから、改めて神野に向き直る。

「まずは、そうだな。やっぱり先生から見た瀬里奈ちゃんの人柄を教えてほしいね」

 ソーサーの上にカップを置き、愛流が手を揉み合わせて訊いた。それに対し、神野は苦笑いを浮かべる。

「確か、以前にも同じようなことを聞かれましたね」

 その言葉を聞き、陽子は「以前」とは何のことかと疑問を持った。しかし三年前にも神野は瀬里奈が家出したことで愛流に捜索を依頼していたという話を思い出す。

 以前とは、おそらくその時のことだろう。

 詳しいことは気になるが、この場で訊ねることは憚られた。今回の事件に関係してくるとは思えない。それをわざわざ聞き込みを行っている場で聞けるほど、陽子は神経が図太くなかった。

「もしかしたら以前と被ったことを言うかもしれませんが、よろしいですか?」

「構わないよ。けど三年あれば、人格に変化が現れるかもしれない。俺の中にある当時の瀬里奈ちゃんの印象と現在は、違う可能性があるってわけだ」

 愛流が肩をすくめた。神野はクスリと小さく笑い「確かにそうですね」と呟く。

「でも私の、あの子への印象は三年前から変わってはおりません。これを言うと親バカと思われるかもしれませんが、本当に優しい子です。家事も積極的に手伝ってくれますし、一緒に買い物にも行ってくれます。ただ――」

 神野の表情が、僅かに曇った。それを敏感に感じた陽子は「どうかされたんですか?」と訊ねる。

「その優しさが、違うもののように感じることがあるんです」

「違うもの?」

「えぇ。どちらかと言うと、私に気を遣っている、といったところでしょうか?」

 そう言って、神野は座り直した。

「昔から瀬里奈は、人の目を気にするところがありました。それは外だけでなく、母親の私にも同様だったのです。テーブルを拭くために私が布巾を手に持っただけで、あの子はまるで叱られたかのように『先に気付けなくてごめんなさい』とすぐに謝ったりしました」

 神野は影のある表情で、下を向いた。

「女手一つで育てたというのもありますが、あの子には強く生きてほしくて、厳しくしたところもありました。あの子が小学一年生の頃です。せっかく描いた野原の絵を批評して、瀬里奈を泣かせてしまったことがあるんです。思えばそういった厳しさが、あの子を逆に弱らせ、いつの間にか周囲に恐れを抱かせる原因になってしまったのかもしれませんね」

 神野の話に、陽子はどう言えばいいのかわからなかった。

 瀬里奈が家庭内でも気を遣っていたという話。それが陽子には、母親に対しても飾らない、優しさであるように思えた。

 しかしそれを口に出すことができなかった。瀬里奈に会ったことがないにも関わらずそのような評価を口にするのは、無責任なように思えたからだ。

「そういえば、旦那さんは既に亡くなったんだっけ」

 神野が話した苦悩には触れることなく、愛流は訊いた。

 冷ややかに思えるが、それがベストなのかもしれない。

「ええ。あの子が六歳の頃に、交通事故で。それからは私が一人で育てています」

「大変、でしたよね?」

 恐る恐る陽子は訊いた。

 神野と瀬里奈の境遇に同情したというのもある。しかし芸術家と母親の二足の草鞋を履くということは、想像しただけでも過酷であるように思えた。

 神野は薄い笑みを作り、小さく首を横に振る。

「私には瀬里奈がいてくれましたから。あの子の存在が、私にとっての心の支えなのです」

 胸に手を当てて喋る神野の姿は、同姓である陽子から見ても美しかった。

 瀬里奈が神野のことをどう思っていたかは定かではないが、陽子には立派な母親に感じられる。

「そういえば、瀬里奈ちゃんは大学で美術部に入っているけど、神野先生のように画家を目指していた、という話はなかったのかい?」

 この質問に、神野は「わかりません」と力なく首を振った。

「昔は瀬里奈も画家になりたいと言ってくれました。私が卒業した芸術大学も受験したのですが、落ちましてね。第三志望の北東学園大学に入学する、といった流れになったのです。それ以来、そういった将来に関することは、娘の口からは訊かなくなりました」

「つまり現在は、画家を目指しているかどうか、ハッキリとはわからないってわけか」

 神野が静かに頷いた。

 この点に陽子は疑問を覚える。

「美術部に入部しているから、まだ目指す気持ちはあるんじゃないですか?」

「そうとも限らない。部活に入りたいけどどこに所属するか悩んでいて、昔やったことのあるものに関連する部活に入部した、なんてパターンもあるからね。まぁ本当に諦めたなら入部しようとはしないだろうし、少なくとも大学一年生になったばかりの時点では、まだ画家になりたいと思っていたのは違いないだろうね――それよりもさ」

 愛流が姿勢を正し、神野の顔を改めて見た。

「もう一つ、質問いいかな」

 目を細めたまま、愛流が人差し指を突き出した。

「瀬里奈ちゃんの交友関係は、どこまで把握していた? 今のところ、俺達は大学の美術部ぐらいしか話を聞けていないけど」

「そう、ですね。正直に言うと、あまり把握はできていません。あの子、美術部の子と遊びに行く、とは言ってくれるんですが、それがどこに住んでいる誰なのかは、話さないんです」

「誰なのかっていうことは、名前もかい?」

 愛流の問いかけに、神野は静かに頷いた。そして隣に座る米田に目を向ける。

「この米田くんに関しては、交際してから二か月後に紹介してくれたんです。それ以降も三人で食事を摂ったりしました」

「なるほどね」

 何か思案しているのか、愛流が肘を太ももの上で突き、口元を両手で覆った。それから神野と米田を交互に見る。

「二人に念のため訊いておきたい。もう探したかもしれないけれど、瀬里奈ちゃんが一人で行きそうな場所、落ち着ける場所に、心当たりはないかな。例えば、ここの近くにある公園とかは居心地がよさそうだけど」

 一呼吸の間が空く。その間に思考を巡らしたらしいが、二人の解答は首を横に振ることだった。

「正直、僕には思い浮かびません」

「私もです。家にいる時もリビングにいてくれることが多いですし。愛流さんが言う公園に関しても、そこでくつろぎに行く、と言って出かけたことは少なくともありません」

 この答えに、愛流は特に失望した様子は見せなかった。ただ無表情に「ありがとう」とカップのレモンティーを一気に飲み干す。そして音を立てることなく、カップをソーサーの上に置いた。

「とりあえず、俺からは今のところ以上かな。また訊きたいことができたら、質問させてほしい」

 そう言って愛流が立ち上がった。もう出るのだと察し、慌てて陽子はコーヒーを口に入れる。

 すっかり冷めてしまい、コーヒーの味がさらに重くなったような気がした。

 カップをソーサーの上に置くと、陽子も立ち上がった。そして一礼すると、愛流と共に玄関へ向かおうとする。

「私は、芸術家である自分が嫌になることがあります」

 リビングの扉を開けようとしたところで、神野がつぶやくように言った。彼女の言葉に陽子は足を止め、振り返る。

 陽子のいる位置からでは、神野の表情は見ることができない。しかしその背中からは哀愁のようなものが感じられた。米田は何度も瞬きしながら、彼女の顔を覗き込んでいる。

「瀬里奈のことは愛しています。しかしわからなくなる時があるのです。あの子への愛は、人へのものなのか、それとも作品へのものなのか」

「それって――」

「日本絵も瀬里奈も、私が産みました。だからその境界線が知らぬ間に曖昧になり、あの子への愛情が人に対するそれとは異なるものに――あの子を美術品の一つとして見ているのではないかと、そう思い、恐れを抱くことがあるのです」

 今にも泣き出しそうな声で、神野は言った。そして静かに振り返る。

 切れ長な目は充血していた。瞳は濡れ、鼻をすする。

「こんなことを考える時点で、私は普通の母親ではないのでしょうね」

 神野の言葉に、陽子はどう答えればいいかわからなかった。助けを求めるように、愛流を見る。

 愛流はリビングに背中を向けたまま、振り向こうとはしなかった。

「悪いけど、俺には答えられないよ」

 冷ややかにそれだけ言うと、愛流は廊下へと向かうドアを開けた。

 陽子は一礼した後、後ろ髪を引かれる思いで愛流の後を追う。

 ――こんなことを考える時点で、私は普通の母親ではないのでしょうね。

 そう言った神野の悲し気な目が、頭から離れなかった。


                                   (続)

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