page18「思い出のマフラー」
〇
それから陽子達は公園内の散歩コースをグルッと回り、駐車場へと繋がっている場所まで戻ってきた。近くの柵にもたれかかり、手の甲に顎を乗せる。
撮影を終えた後、愛流は誰かに電話をかけていた。今も少し離れたところから話し声が聞こえてくる。
今の陽子は、輝いている池を見ても、美しいと感じることはできなかった。
――瀬里奈ちゃんは、殺されたんだ。
先ほどの愛流の言葉が陽子の心に重くのしかかった。
自分と一つしか違わない女性が殺された。それが陽子にはとても現実のことのようには思えず、かと言って鼻で笑い飛ばすこともできなかった。
愛流の言う通り、瀬里奈が殺されたのだとしたら、一体誰に殺されたのか。
不審者か、それとも――迷路に入り込んでしまったかのように、陽子の思考はウロウロと動くばかりだった。
その間に愛流は電話を終えたらしい。スマートフォンをしまいながら、こちらに近づいてくる。
「誰に電話をかけてたんですか?」
「神野先生だよ」
愛流が隣に立ち、柵に手を置いた。
陽子には少し意外だった。聞いたはいいが、愛流のことだからはぐらかすと思っていたのだ。
「近くに先生の家があるからさ。これからそっちに行って話を聞けないかと思って電話したんだけど、仕事で今は家にいないし、夜になるかもしれないってことでダメだった。まぁその代わり、明日の午前中に約束を取り付けたけど」
愛流が淡々と言った後、わずかに沈黙が流れる。それを打ち破ったのもまた、愛流の言葉だった。
「陽子ちゃん、改めて言うよ。俺の助手なんて、もうやめるんだ」
陽子はため息を吐きそうになるのを我慢しながら、横目で愛流を見やる。その顔は真剣そのものだった。
「どうして、そんなに私を外したいんですか?」
気だるげに陽子は訊ねた。瀬里奈が殺されたという言葉が、声から抑揚を奪っている。しかし心の内では、怒りが沸々と煮えたぎっていた。
「何も説明せずに辞めろなんて、横暴もいいところでしょ。私が愛流さんの気に食わないことをしたとしても、ちゃんと言ってくださいよ!」
胸に秘めた怒りは、陽子が思っている以上に大きかったらしい。次第に声が荒くなり、最後の方はほとんど叫んでいるようなものだった。
愛流の目が細くなった。「なんでだよ」と聞き取れるかどうかもわからない小さな声が、口から漏れる。
「何でわからないんだよ」
「何をわかれっていうんですか」
「このままじゃ危ないって言ってるんだ!」
愛流が柵を叩き、怒声を上げた。金色の髪を振り乱して、陽子を睨む。
「芽衣ちゃんと櫂入くんの言っていることが事実なら、君は死体を目の当たりにする可能性がある。それがトラウマになったらどうする? それだけじゃない。俺の考えている通りなら、このまま瀬里奈ちゃんを探すってことは、彼女を殺した奴も同時に追うことを意味しているんだ。君はそのことを理解しているのか? ちゃんと身の危険を感じているのか?」
一気に愛流がまくし立てた。全力で走った後のように息切れし、肩を上下に揺らす。
陽子は何も言うことができず、ポカンと口を開けたまま愛流の鬼のような形相をただただ見つめていた。
愛流の迫力に押されたというのもある。しかしそれ以上に、愛流の言ったことに唖然としていた。
今の話をまとめるとつまり――
「私のことを、心配してくれているってことですか?」
「はぁ? 何でそうなるんだよ」
そう反論した愛流の声は上ずっていた。一瞬で顔は耳まで赤くなり、そっぽを向く。
その様を見て、思わず陽子は吹き出してしまった。
飄々としており、変わったところもあるが、どうやら不器用なだけのようだ。ひねくれた性格のせいで、優しさを素直に表に出すことができない。
その姿が妙に可愛らしく思えた。
しかし陽子が笑い出したことが、愛流には面白くなかったらしい。さらに目を細めて陽子を睨みつける。
――おぉ、怖い。
いつの間にか陽子の心から愛流への恐れは消え去っていた。咳払いをすると、丁寧に頭を下げる。
「ご心配、ありがとうございます。でも、私は大丈夫です」
「大丈夫って」
愛流が呆れたと言わんばかりに額に手を乗せた。まだ理解できていないと思っているのかもしれない。しかしそんなことはなかった。
「確かに愛流さんの言う通り、死体を見ることになるかもしれません。瀬里奈さんを殺した殺人犯を追うって話も、正直に言うと怖いです」
「だったら」
「でも、だからって私だけこの件から手を引くなんてことはできません」
愛流の言葉を遮り、ハッキリとした口調で陽子は言い切った。
「手を引くも何も、君は巻き込まれたようなものだろ。大体、瀬里奈ちゃんに会ったことすらないじゃないか。世の中では毎日のようにどこかの誰かが死んでいるんだ。言い方は悪いかもしれないけど、陽子ちゃんにとっても瀬里奈ちゃんの死は、そういう類になるだろ」
「関係ありません」
陽子は激しく首を横に振った。
「愛流さんの言う通り、成り行きです。それでも私は、愛流さんと一緒に瀬里奈さんのお母さんに頼まれたんです。だったら、間接的にしても私と瀬里奈さんは関わったと言えるはずです」
「それは――」
「それに! 世の中で毎日のように人が死んでいるからって、それこそ関係ありません。私が関わった死を、無視していい理由には絶対にならないはずです」
陽子の脳裏に、神野春心と米田の悲しみを帯びた表情、そして芽衣と櫂入の苦しむ顔が浮かんだ。
今日だけでも瀬里奈のことで暗い影を落とす人間に、これだけ触れたのだ。それを都合よく忘れていいわけがない。忘れられるわけがない。
それが例え自己満足だとしても、陽子に引き下がるという選択肢はなかった。
陽子と愛流の睨みあいが、池をバックに繰り広げられる。やがて愛流が根負けしたようにため息を吐き、苛立たし気に頭を掻いた。
「親の顔を見たいって言葉、まさにこういう時に使うんだろうね」
「それ、どういう意味ですか?」
「すごいってことだよ」
力なく愛流が笑った。その表情からは、先ほどまでの圧は消え去っている。
褒められているのだと気付き、陽子は嬉しくなった。同時に、頭にある人物の姿が浮かぶ。今日だけで二回目だ。
雪と同時に浮かび上がってくる、その姿――
「確かに親の影響もあるかもしれませんけど、それだけじゃないんですよ」
「というと?」
愛流が首を傾げた。陽子は自然と口角が上がるのを感じながら、首元に手を伸ばす。
肌が指先に触れた。その時、得体のしれない違和感が生まれる。
何かが足りていないのだ。
そしてその正体が、陽子にはすぐにわかった。
「マフラー」
「え?」
「私のマフラーがない!」
一瞬にして陽子は取り乱した。現れるわけではないのに、何度も首元に触れたり、周囲を見回したりしている。
「愛流さん、私のマフラー知りませんか!」
すがるような思いで、陽子は愛流の腕をつかんで揺すった。視界の中で愛流は驚いた表情を浮かべている。
「それって、朝巻いていたマフラー? あのナンパされていた時」
「そうです、よく覚えていますね。というか、それはどうでも良くて!」
「わからないけどさ。少なくとも大学に向かう時には、既に身に着けていなかったよ」
上ずった愛流の声を聞き、陽子は腕から手を離した。
愛流の言葉で思い出したのだ。私生活のカウンターを通り抜けたところにあるテーブル。いつもカバンや上着を置いている場所。
「私生活だ!」
「え?」
「店に置いて、そのままだったんです!」
悲鳴のように陽子は叫んだ。それに驚いたのか、たむろしていた鳩が一斉に飛び立っていく。周囲に人がいなかったことは、幸いと言えた。
「じゃあ私生活に向かおう。俺も一旦戻ろうかなと思って――」
「お願いします!」
愛流の言葉を最後まで聞く余裕は、今の陽子からは消え去っていた。食い掛るように再び愛流の腕をつかむ。
愛流は頬を引きつらせながら駐車場へと戻った。すぐに陽子はヘルメットを被り、タンデムシートに跨る。
行きとは違い、帰りの車の量は少なめだった。まるで陽子の焦る気持ちに合わせてくれているようであり、それがありがたかった。
駐車スペースにてバイクが停まるなり、陽子は慌てて降りた。ヘルメットを脱ぎながら、入り口に回り込む。
扉を開けると、茂と里奈の姿が目に映った。
店を出る前のほとぼりは冷めたらしい。今は二人してカウンターを通ったところにある、店内奥の従業員用スペースに置かれたテーブルの前に立っていた。
里奈と茂は目を丸くして陽子を見ている。
そんなに今の自分の顔はおかしいだろうかと、急に羞恥心が生まれた。しかし里奈が手に持っているものを認識した瞬間、そのような恥ずかしさは一瞬にして吹き飛んでしまう。
毛編みの白い物。先端には「I.R.」と青い刺繍で書かれていた。
間違うはずがない。それは陽子のマフラーだった。
「それ、私のです!」
陽子は指をさしながらカウンターを通り、里奈と茂の前に立った。
「え、これ、陽子ちゃんのなの?」
なぜか里奈は呆然とした表情のまま、マフラーを陽子に渡した。
テーブルにヘルメットを置いてから受け取った陽子は、まるで生き別れた子供に再会したかのように抱きしめる。
私生活以外にあるとは思えない。そうわかっていても、いざ目にするまでは不安で仕方がなかった。
「テーブルに置きっぱなしになっているのにさっき気付いてね。陽子ちゃんの忘れ物かなと思って見ていたんだけど」
茂が何度も瞬きしながら言った。しかし心ここにあらずといった様子だ。
その時、鈴の音が店内に響いた。見ると愛流が頭を掻きながら入店していた。そして陽子達に近づいてくる。
「お目当てのものは見つかったかい?」
愛流が陽子の隣に立った。そして陽子が持っているマフラーに目を向ける。
「はい! おかげ様で、無事に見つかりました――愛流さん?」
嬉々として話していたが、愛流の顔を見た瞬間、陽子の声はしぼむように小さくなっていった。
愛流の表情が強張っていたのだ。信じられないものを目にしたような顔と言った方が近いかもしれない。
なぜそのような顔をするのか。陽子には理解できなかった。
「これ、陽子ちゃんのマフラーなのかい?」
愛流がどうしてそのような質問をしたのかはわからない。しかし今の陽子にはマフラーを見つけた喜びの方が上回っており「はい!」と元気よく頷く。
「まぁ、正確にはもらったものなんですけれどね」
そう言って陽子は目を閉じた。瞼の裏のスクリーンに映るのは、八年前の冬の日だ。
その日、東京は記録的な寒波に襲われていた。外は激しく吹雪き、本当に昼間なのかと疑いたくなるような暗さだった。
陽子が通っていた七女市の小学校はこれ以上学校に滞在することは危険と判断し、午前の内に児童を帰宅させることとなった。しかし雪は既に激しく降っており、視界も悪かった。
友達と別れた後、陽子は目を開けることすらままならない雪の中を、ただひたすらに歩いた。いつもなら雪が降る珍しさから喜んでいたが、この激しさではそうも言っていられない。こころなしか、眉尻の傷痕がその日に限って痛んだような気がした。
一歩一歩足場の悪い雪の上を歩き続ける。積もった雪は浅く、靴底のゴム部分すら埋まらない。だからこそ危険だった。
案の定、陽子の足は歩道の凍った部分の上を踏んだ。そこで滑ってしまい、顔から雪の上に転んでしまう。
浅い雪はクッションにすらならず、その下には凍ったアスファルトが待ち構えていた。
顎や膝が熱を帯びたように痛い。陽子の心に、惨めさが広がった。
――もう嫌だ。
目から涙が溢れだす。うつ伏せになったまま、陽子が泣き出そうとした時だった。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
上から声が飛んできた。声変わりする前の、少年の高いものだ。
陽子はわずかに雪から顔を上げる。滲んだ視界に映ったのは、黒い学ラン。首元には白いマフラーが巻かれており、垂れる隙間から「中」の文字を象った校章が見えた。
「立てるかい?」
頭の上から少年が優しく語り掛けてきた。しかし自暴自棄になった陽子は、激しく首を横に振る。すると少年が手を差し伸べてきた。
雪のように白いその手を、陽子は呆然と眺めていた。やがて黙ってその手を摑み、足元に気を付けながら立ち上がる。しかし陽子の悲しい気持ちが消えることはなかった。
その時、少年がマフラーを外した。かと思うと陽子の首に掛ける。
何をしているのだろうと、陽子はぼんやり思っていた。しかし少年が陽子の気持ちを気に留めることはなく、大雪が降っているのも構わずに優しくマフラーを巻いた
「このマフラーはね、特別なんだ。巻けば誰でも元気になれる」
「嘘だぁ」
「本当さ。君にこのマフラーを上げるから、もう泣かないで。君みたいな可愛い女の子には、笑顔が似合う」
そう言って少年は立ち上がると、雪の中を歩き去っていった。陽子は黒い背中が見えなくなるまでその場に立ち続けていた。
少年の姿が視界から消えると、今度はマフラーに手をやった。先端に書かれた「I.R.」の文字が妙にハッキリと見えた。
当時の陽子はもう十歳だった。さすがに少年の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
しかし嘘とわかっていても、不思議と陽子の心からは先ほどまでの惨めさは消えていた。涙も引っ込み、再び雪の中を歩き始める。
その記憶を、陽子は目をつぶりながら愛流達に語って聞かせた。
「それから毎年冬になると、絶対にこのマフラーを巻くようにしてるんです。何だか、またその人に会えるような気がして」
小学校を卒業した後、陽子は少年が着ていた制服が、夢見市立中崎中学校のものであることを知った。
会えるのではないかと思い、夢見市を訪れたことは何度かあった。しかし手がかりと言えるものがないため、毎回空振りに終わってしまう。
今思うと、夢見市でもアルバイトを探していたのは、その時の少年にひょんなことから再会できるかもしれないと、淡い期待を抱いていたからなのかもしれない。
「だから、このマフラーは私にとって宝物なんです。そして、あの時に与えてもらった優しさも」
こうして思い返せば、その時の出来事が昨日のように蘇る。
唯一思い出せないのは、少年の顔だった。それが陽子にはいつも歯痒く感じられるのだが、それを言っても仕方がない。
「それから私の憧れは、その人になったんです。私も彼のように、言葉やちょっとした行動で人の力になれるような人間になりたいって。まぁ、今日みたいにうっかりマフラーを忘れちゃうことも何度かあるんですけど――」
照れたように笑いながら陽子はゆっくりと目を開けた。そして視界に飛び込んできたものに言葉を失う。
里奈が頬を膨らませ、笑いをこらえていたのだ。茂すらも顔を反らして口元を手で押さえ、肩を揺らしている。
「何で笑っているんですか!」
「笑ってない、笑って――」
しかし里奈の言葉に説得力はない。案の定堪えきれなくなり、ついには笑い声を上げて腹を抱える。
――信じられない!
陽子の頭に血が上る。確かに乙女チックな話ではあるが、そこまで馬鹿にされる謂れはないはずだ。
――そういえば、愛流さんはどうしたんだろう。
先ほどから反応を示さない愛流が気になり、陽子は振り返った。しかし後ろにいたはずの愛流は、そこにいない。
店内をよく見ると、いつの間にかカウンター席に移動していた。腕を組み、そこに顔をうずめている。里奈の笑い声に交じって、いびきも聞こえてきた。
つまり愛流は陽子の話に興味を示さず、眠っていたということだ。助け船を期待した自分がバカだったと、陽子の怒りはさらに膨れ上がる。
ある意味、里奈や茂以上にひどい態度だと思えた。
陽子はキッチンを通り、カウンターまでやってくる。そして愛流が座っている椅子の足を蹴った。
ビクッと愛流が陸に上がった魚のように起き上がる。陽子は腕を組み、寝ぼけ眼を睨みつけた。
「それで、今日は他に何をするんですか?」
「あぁ、今日はもういいかなって」
「もう、いい?」
まさかまた外すと言うのではないだろうかと、陽子は身構えた。しかしそれは杞憂に終わった。
「とりあえず今は神野先生に話を聞きたいからね。俺としても、考えをまとめたいし。それとも、このまま店の方を手伝ってもらう?」
愛流が店内の奥に目を向ける。笑いが収まったらしく、茂がいつもの穏やかな笑みを浮かべて咳払いをした。
「いや、今日は疲れただろうし、もう休んでくれていいよ」
「そう――陽子ちゃん」
改まった調子で愛流が座り直した。
どうしたのだろうと思い、陽子は先ほどのむかっ腹を忘れ「何でしょう」と問う。
「明日、そうだな。朝の八時半ぐらいにここに来てもらえる?」
「え? えぇ、それは大丈夫ですけど」
「よし決まり」
言うが早いか、愛流は再びカウンターの上で腕を組むと、また顔を埋めた。そして十秒も経たずにいびきをかく。
どれだけ眠るのが早いのだろうと思いつつ、陽子は妙に嬉しかった。
一緒に調査することを許された。それだけのことと言えばそれまでだが、仲間としてようやく認められたような気がしたのだった。
(続)
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