page16「屍蠟」
〇
「え?」
陽子と里奈がほとんど同時に愛流の顔を見た。
茂も同じ意見だったらしい。陽子の視界の端で、茂がグラスを拭きながら頷いている。
「それって、どういうことですか?」
恐る恐る陽子は訊いた。愛流は席から立ち上がると、考え事をするかのように店内を歩き始める。
「言葉通りの意味。例え失踪直後、つまり三か月前に瀬里奈ちゃんが亡くなっていたとしても、シロウカしていれば死体がキレイだったことも頷ける」
「シロウカ?」
聞きなれない言葉に、陽子は首を傾げた。隣に座る里奈もまた、眉間に皺を寄せて唸っている。
その二人の様を見て、愛流は不敵に笑った。それが陽子には馬鹿にされたように思え、カチンと若干の怒りを覚える。
ここで教えてくれと頼めば負けだ――なぜかそのようなプライドが陽子の中に生まれた。
しかしシロウカが何なのか、まったくわからない。わかった振りをすることすらできず、陽子は沈黙するしかなかった。
その有様を見かねたのか、茂がクスリと小さく笑いながら「愛流、教えなさい」と諭すように言った。
愛流は頭を掻きながらスマートフォンを操作する。そして陽子と里奈の間に置いた。
ディスプレイの上部には「死蠟化」という三文字の漢字が表示されていた。
「これでシロウカって読むのさ」
スマートフォンをポケットにしまいながら、愛流が言った。
「で、その死蠟化って何なの?」
溜まりかねた里奈が、降参と言わんばかりに手を上に向けて訊ねた。
「永久死体の一つ。つまりそれ以上腐らない死体の状態だ」
愛流が近くのテーブル席に腰掛け、足を組みながら答えた。しかしイマイチ陽子には理解できず、何度も瞬きする。
「腐らない死体って、まさか――」
死んだ人間の体は徐々に腐敗していき、最終的には白骨化する。それぐらいのことは陽子にもわかった。
だからこそ、愛流の言う「腐らない死体」というものが、イメージしにくい。
助けを求めるように、陽子は茂を見た。茂は意味あり気な笑みと共に「本当だよ」と呟くように言う。そして黙って愛流を見つめた。
父親の視線の意味を察したらしく、愛流が咳払いをする。
「低温多湿、もしくは冷水の中に長期間置くことで、死体の体内で特殊な脂肪分解が発生する。その時に水分に含まれるカルシウムやカリウムといった元素と結合し、石鹸のような状態になる」
「石鹸?」
「灰白色のワックスもしくは蠟人形のように、と言い換えてもいい」
愛流がそう説明しても、陽子にはやはりイメージしにくかった。
とはいえ、科学的な解説を交えてくれたおかげで、元素や脂肪分解についてはあまり理解できないものの、そういった死体の状態があるということはわかった。
「まるで、ミイラみたいですね」
何気ない一言を陽子は呟いた。その言葉に反応し、愛流は大きく頷く。
「ミイラも永久死体の一つだからね。ただ対になっていると言っていい」
「対、ですか?」
「死蠟化は水分が必要なのに対して、ミイラ化は腐敗前に乾燥することで、体内の水分が蒸発し、干物のような状態になっていることを言う。だから空気の流れが良い場所や、湿気の少ない砂漠なんかでは、死体はミイラ化しやすい。ミイラと言えばエジプトを思い浮かべることがあるかもしれないけれど、これがその理由ってわけ」
愛流の講釈に、気付けば陽子は聞き入っていた。
ミイラという知っている単語が出たからか、先ほどの死蠟化よりもわかりやすいように思えたのだ。
「ちょっと話を戻してもいい?」
隣で里奈が手を上げた。愛流は右端の口角を上げ「どうぞ」と促す。
「気になったんだけど、死蠟化には期間が必要って言ったわよね。具体的にはどれくらい?」
里奈が顎に指先をあてながら言った。愛流は「姉貴にしては良い質問だ」と言う必要のない言葉を口にする。
「ざっと三か月間」
「時期は一致しますね。それに、今年は例年よりも寒いですし――」
今朝のニュースで天気予報士が言っていたことを思い出し、陽子は呟いた。
寒さが続いたのなら、池もまた冷たさを保ち続けていたと考えていいだろう。
つまり、瀬里奈が消息後すぐに死亡して池に沈められたとしても、冷水に三か月間置いておくという死蠟化の条件は、クリアしているというわけだ。
しかし――
「愛流さん、よく知っていましたね」
思ったことを陽子はそのまま口にした。素直にすごいと感心したので、それを伝えたかった。
「普通、死蠟化なんて知らない人の方が多いでしょうし――普通」
陽子の脳裏に、智の傲慢な顔つきが過ぎった。彼は陽子が思った「普通」とは大きくかけ離れた者だった。
「どうかした、陽子ちゃん?」
愛流が陽子の顔を覗き込んでいた。いつの間にか愛流は陽子の目の前に立ち、膝を曲げて視線を合わせようとしている。
整った顔立ちが、突然視界の大半を占めた瞬間、陽子の心臓が飛び上がった。陽子は鼓動を抑えるかのように胸に手を当てつつ、愛流から目を逸らして口を開く。
「いえ、実は美術部の部長のことを思い出しちゃって」
「あぁ、智くんね。彼がどうかした?」
愛流が首を傾げて訊いてくる。陽子は一呼吸の間を置いた。
「やっぱり智さんがやったことは異常だったんだって、そう思っただけです」
陽子がそう言った瞬間、愛流の眉がピクリと動いたような気がした。しかし陽子は気にとめることもなく、言葉を続ける。
「死体を見つけたら、普通は通報するべきじゃないですか。それなのに自分の保身のために隠蔽して、他の人達も脅して――そのせいで芽衣さんや櫂入さん、何より瀬里奈さんのお母さんがどれだけ苦しんだか」
気付けば陽子が先ほどまで感じていた胸の高鳴りは消えていた。代わりに怒りが押し寄せてくる。
「それに賛成した映画研究部の人達や、吉岡さんだってそうです。どうかしている。私には、理解できません」
「普通じゃないから、かい?」
愛流の低くなった声が鼓膜に届いた。「そうです」と陽子が言おうとするも、愛流の顔を見た瞬間、その言葉はどこかへと消え去ってしまった。
目の前に立っていた愛流は、いつの間にか陽子から距離を置いていた。調子の良さそうな笑みは消えて無表情になり、氷のように冷たい目で陽子を見つめる。
芽衣を批難した時と同じ目だった。ただ今度のターゲットは、どうやら自分になったらしいと、すぐに陽子は理解する。しかしわかったところで、どうすることもできない。
陽子が固まっている間に、愛流はゆっくりとした動作で口を開いた。
「聞きたいんだけどさ、陽子ちゃんが言う普通って何なの?」
愛流の質問に、陽子は瞬時に答えることができなかった。
少し離れた場に立つ愛流に、言い知れぬ恐怖を覚えたというのもある。しかしその他の要因として、愛流の言っている意味が理解できなかった。
「何って――」
「例えば、君にとって家族や恋人に愛されること、友達を持っていること、毎日三食食べることが普通だとしよう。じゃあ、そうじゃない者は?」
「そうじゃ、ない者?」
「家族や恋人に愛されず、むしろ暴力を振るわれている者、友達がいなくて孤独に生きる者、食事を摂りたくても何らかの理由で摂れない者。特に三つ目は、外国でもよくある事だ。そういった人達を、君は異常と言えるかい? その人達を前にして、愛されること、友達がいること、毎日食べることが普通だと、そう言えるかい?」
愛流はマシンガンのごとく言葉を発し続けた。陽子はその勢いを止めることができず、茫然自失の状態で聞くしかなかった。
「普通は便利な言葉かもしれない。でも結局は、個人が経験してきたうえで作り上げた標準に過ぎないんだ。つまり主観ってこと。他者が言う異常は、その個人の標準から外れているだけだ」
話しながら愛流が近づき、再び陽子の前に立った。そして軽蔑するような目で、陽子を見下ろす。
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、今なら陽子にはわかるような気がした。
「安易に普通という言葉を使うことは、自分の価値観を押し付ける原因になるだけじゃない。自覚のないうちに相手を否定することになりかねない――俺からすれば、そうやって普通にこだわりを見せる陽子ちゃんの方が、よっぽど危険に見えるよ」
愛流が言い終わると同時に、気まずい沈黙が店内に流れた。
茂や里奈がどのような表情をしているのかわからない。陽子は下を向きたい顔を何とか固定し、愛流から視線を外さないようにするので精一杯だった。
「でも――」
何とか一言でも発しようとした。しかしそれ以上の言葉が続かない。思いつかないのだ。
さらに、これが悪手となったようだ。愛流の目がさらに細められ、何か言うために口を開こうとする。
陽子はさらなる言葉の追撃が来ることを覚悟した。
「愛流」
カウンターから茂の声が飛んできた。大きいわけではないが、相手に対して有無を言わせぬ圧のこもった声。それによって、愛流の視線が陽子から茂に切り替わる。
「何だよ」
「それ以上言うのはやめなさい。きっと後悔する」
「俺が? 何を後悔することがあるって言うんだよ」
しかし愛流はそれ以上言葉を続ける様子はなかった。ただ黙ってその場に立っている。
表情は仏頂面のままだった。そのような愛流に対し、茂はあくまでも穏やかに語り掛ける。
「君独自の価値観を否定するつもりはない。ただね、あまり自分の考え方にこだわり過ぎれば、身近にあるものや、自分を見失ってしまいかねない」
「何を――」
「現に君は、普通を使えば相手を否定することになりかねないと言いながら、自分の言動もまた、陽子ちゃんを否定しかねないものだったと、自覚しているのかい?」
茂の言葉に、愛流は黙り込んでしまった。眉間に皺を寄せ、強張った顔をしている。
はぁ、と茂がため息を吐いた。
「嫌いなものはとことん嫌い、気に食わないことがあると歯止めが効かなくなる。昔からの君の悪い癖だ。少しはマシになったかと思ったが」
愛流はばつが悪そうに首元を揉み、下を向いた。それから首を上下に動かしたりと、落ち着かない様子を見せる。
「あの、愛流さん大丈夫ですか?」
陽子が恐る恐る訊いた。しかし「大丈夫よ」と答えたのは、隣に座る里奈だった。
「これ、あいつが素直に謝るための準備体操みたいなものだから」
耳元で里奈が囁くような小声で言った。そのタイミングを見計らっていたかのように「あぁ!」と愛流が短く叫ぶ。
突然のことで陽子はビクリと肩を飛び上がらせた。そして愛流は、陽子の前まで来ると頭を下げた。
「ごめん、悪い癖が出たというか、また言い過ぎた」
「いえ、私も、すみません――」
そう言いながらも、何に謝ったのか、陽子自身も今一つわからなかった。
しかしその空気を締めるかのように、茂が手を叩いた。
「じゃあ愛流、これからどうするんだい?」
「だから何で親父が――って、もういいや」
呆れながらも、愛流は頭を上げ、窓から見える外の景色に目をやった。
「とりあえず、その宴会をやったっていう根耳公園に行ってみるよ」
そう言って愛流は陽子を見つめた。少し悩んだ素振りを見せた後、渋々と言った調子で顎で促した。
まだ陽子を外したいと考えているのかもしれない。そう思いながらも口には出さず、陽子は頷いてから立ち上がり、歩き出した。
「ちょっと待って」
突然、里奈が声を上げた。手を肩の高さまで上げ、何度も瞬きをする。
「何で陽子ちゃんまで一緒に行くことになってるの?」
その言葉を聞き、陽子は少し考える。そして納得した。
陽子が愛流の助手として働いていることを、里奈にはまだ話していなかった。そしてこの反応から見るに、茂もそのことを言っていなかったのだろう。
それが証拠に、珍しく茂は視線を泳がせていた。それとは対照的に、愛流がニヤリと笑う。
その笑みはなぜか悪魔を思わせた。そして愛流の次の一言で、その印象が正解であったことを陽子は知る。
「親父の提案でさ。陽子ちゃん、俺の助手として働いているんだよ」
「はぁ?」
一瞬にして里奈の可愛らしい顔が歪んだ。丸みを帯びた頬の右側は引きつり、今にも食いつかんばかりの空気を醸し出して、茂を睨む。
「一体どういうことよ!」
「いや、これはだね」
茂がいつもの威厳ある姿からは想像できない、しどろもどろな口調になる。愛流を制御できていた父親も、里奈には弱いらしい。
などと陽子が考えている時、視界の端で動くものがあった。
愛流がしてやったりといった表情で店から静かに出たのだ。
このまま皆を出し抜いて、一人で例の公園に向かう。そういった筋書きだろう。
「じゃあ、私も行ってきます!」
言うが早いか、陽子は急ぎ足で出入口へと向かって行った。
後ろから誰かが呼び止めたような気がしたが、陽子はまた耳の調子を悪くして、扉から出て行った。
(続)
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