page15「姉」
〇
「――さて」
愛流が立ち上がると、その場で伸びをした。それからカウンターに置いていたスマートフォンを手に取り「一回かけてみるかな」とディスプレイを操作する。
「もしかして、もう櫂入さんに連絡するつもりですか?」
愛流が何をしようとしているのか想像し、陽子は驚く。
たった今店を出て行ったばかりだ。走れば間に合うだろうし、何よりも早過ぎる。
しかしこれは陽子の想像が的外れだった。愛流が「まさか」と言って腕を横に振る。
「有力な情報を得られそうなところに電話しているんだよ」
「それって――」
「こういうことは、警察に訊く方が話が早い――お、つながったね」
そう言って愛流はスマートフォンをカウンターの上に置いた。
〈はい、天馬です〉
スピーカーモードにしており、スマートフォンから女性の声が流れてきた。
陽子の知る人物、里奈の声だ。いつもと比べ、声のトーンがやや高い。
「知っているからかけたんだよ、姉貴」
〈愛流? 何よ、久しぶりじゃん〉
電話口の相手が弟とわかった瞬間、里奈の声が砕けた調子に変わった。しかしすぐに〈どうしたの?〉と警戒の色を滲ませる。
〈まさか、また厄介ごとじゃないでしょうね〉
「失礼だな。俺がいつ姉貴に厄介ごとを頼んだ?」
〈あんた、それ本気で言ってる? 仕事中にあんたからかかってきた電話は、たいてい無理難題だったでしょ〉
「そうだっけ? まぁいいじゃん。今回はそんな無理難題じゃないって」
愛流はあっけらかんとした調子だ。しかしそれで里奈の警戒が解けたとは、陽子にはどうしても思えない。
〈本当でしょうね?〉
「そうそう。今は警察署にいる?」
〈絶賛デスクワーク中〉
「なら都合がいい。今から職場を抜け出して、私生活まで来て」
〈十分無茶ぶりじゃ――〉
里奈の不満の声は、愛流が一方的に通話を切ってしまったことで最後まで流れることはなかった。陽子は里奈に深く同情する。
「警察の職場って、簡単に抜け出せるものなんですか?」
「姉貴の場合は別」
「父親が元刑事だから、ですか?」
陽子は首を傾げて茂の顔を見る。茂は苦笑して「微妙なところだね」と呟くように言った。
「今の刑事課長が、話のわかってくれる人物だからと言うのが大きいかな」
茂の言葉でも、陽子の疑問が解消されることはない。父親の言葉を引き継ぐように、愛流が口を開いた。
「課長はね、事件を迅速かつ正確に解決するためなら、手段を選ばないタイプの人なの。探偵の仕事してた時、偶然警察が追っていた事件を解決してさ」
「そんなドラマみたいなこと、実際にあります?」
陽子は半信半疑だった。しかし愛流は「あったんだから仕方ない」と平然とした調子で肩をすくめる。
「それから夢見市警察署とは持ちつ持たれつな関係になったっていうか。こっちの調査が事件に関わってきそうなら姉貴を仕事中でも貸してくれるし、逆に向こうが事件に行き詰まってたら俺に相談してくるし。まぁその課長が昔、親父に世話になったみたいだから、そういうので俺や姉貴を特別扱いしているのもあるかもだけど。いずれにせよ、職権乱用もいいところだよね」
「でも刑事さんがこの店に相談しに来てる相手って、マスターなんですよね?」
陽子の言葉に対し、茂は「まぁね」と苦笑いを浮かべて答える。
「ただ愛流は基本一人旅に出てるからいないし、電話もつながらないことが多いみたいだからね。それで僕の方に来る、といったところかな」
その答えに、陽子は「あぁ」と納得の声を上げる。
今日出会ったばかりの人間の性格をどうこう言うのは問題かもしれないが、愛流のどこか浮世離れしたような雰囲気は、陽子も感じ取っていた。
電話に出るも出ないも、彼の気分次第なのかもしれない。そう陽子は思えてならなかった。
「そういえば、愛流さんってどんな事件を解決されてきたんですか?」
ふと頭に浮かんだことを陽子は質問した。
事件を解決に導いた一般人など、そうそういない。探偵が事件に巻き込まれることはおろか、警察と関わりがあるという話も、ドラマの中だけだと聞いたことがある。だからそこに興味を抱いてしまう。
だが――
「さぁ、どんな事件があったっけね」
愛流はカウンターに顎を乗せ、素っ気なく言った。眠そうに欠伸をし、目を擦る姿は、まるで猫のようだ。
「印象に残っているものとかあるでしょ?」
「俺、過去にはこだわらないタイプだから。依頼人への報告書を書いても、提出した後はすぐに処分してるし」
「え、そうなんですか?」
陽子は驚いた。そういったものはデータなりファイルにまとめておくなりして、手元に置いておくイメージを抱いていたからだ。
「じゃあ、過去の愛流さんが関わった事件の記録は一つも?」
「事件というより、受けた依頼の記録かな」
どこか遠くを見るような目で、愛流は言った。その瞳は悲しみを帯びているように陽子には見えてしまう。なぜそう思うのかは、自分でもわからなかった。
「それより、陽子ちゃんに一個言いたいことがある」
愛流はカウンターに顎を乗せたまま喋り出した。陽子は愛流の言いたいことというものが気になり「何でしょう?」と首を傾げて先を促す。
「君は今すぐ、この件から手を引いた方がいい。っていうかそうして」
「え?」
突然言われたことに陽子は驚き、呆然とした。
「急に、どうして?」
信じられない気持ちで陽子は訊ねた。しかし愛流は答える様子はなく、目を合わせようともしない。
何か愛流の気に食わないことをしただろうかと、陽子は今日一日の行動を思い返す。
心当たりがあるとすれば、芽衣に関連したことだ。彼女に話をさせるために愛流が言おうとしたことを邪魔しただけでなく、芽衣を巡って口論にもなった。その他にも、思わず聞き返したことはいくつかある。
――それらが、愛流さんにとっては気に入らなかった。
陽子は自分でもこれほどショックを受けていることに戸惑いを覚え、それ以上言葉が出てこなかった。
その時だった。「ちょっと待ちなさい」という茂のやや低くなった声が割り込んでくる。
「僕が愛流の助手にするよう決めたんだ。まずは僕にも一言言ってくれてもいいんじゃないかな」
「探偵は俺の仕事だろ。そもそも何で親父がこっちの仕事をどうこう決めるんだよ」
「ここを事務所代わりに使わせている、オーナー権限かな?」
茂が顎を擦りながら天井を見上げた。それに対し愛流は「ふざけろ」と小さな声を口から漏らす。
「とにかく、ここからは今まで通り、俺一人で探偵活動を行う」
愛流の有無を言わせぬ物言いを、陽子は複雑な気持ちで聞いていた。
茂は意外にも「仕方ないな」とため息を吐いた。今度はそれに陽子が驚く。
茂がこのようにあっさり諦めるとは思わなかったからだ。
「愛流が言うなら、そうするしかなさそうだ」
「そういうこと」
「じゃあ代わりに、今までの養育費を至急払ってもらおうかな」
「は?」
今度は愛流が驚く番だった。カウンターに乗せていた顔を上げ、目を丸くして自身の父親の顔を見る。
「今なんて言った」
「オーナーが決めたことを撤回してくれていいけれど、その代わり今まで愛流に費やしてきた養育費を今すぐ払うようにと言ったのさ」
「そんな無茶ぶりがあるか!」
愛流の怒鳴り声が店内に響いた。隣に座る陽子はたじろいでしまう。
――さっきまで姉に無茶ぶりしていた人間が言うことか!
反射的に陽子はそう思うものの、愛流の怒りも理解できた。さすがに茂の言うことは無茶苦茶過ぎる。
しかしさすがの愛流でも、父親に反抗することは難しいらしい。悔しそうに歯ぎしりしながらも、それ以上言葉が出ないようだ。
「というか、陽子ちゃんはどうなの?」
愛流が急に横を向いた。そして陽子の肩をつかむ。
「わ、私ですか?」
突然話を振られ、陽子の声は裏返ってしまった。しかし冷静に考えれば自分のことでこの親子は揉めているのだと、今になって思い出す。
「どうなんだ?」
愛流が再び促す。その時、タイミングを見計らってでもいたかのように、入店を知らせる鈴の音が響き渡り、里奈が店に入ってきた。
肩をつかまれた陽子と愛流を見ながら、里奈は数秒の間、パソコンがフリーズしたかのように固まっていた。そして我に返るとツカツカとこちらに歩み寄り、愛流の頭に手刀をお見舞いする。
「いってぇ」
愛流が頭を抑えた。しかしすぐにスマートフォンを顔の高さにまで上げると、暗くなった画面に写る自分を見て、髪を触る。
――痛みより髪型の方が気になるんだ。
陽子は呆れる思いでその様を見ていた。
「人を呼び出しておきながら、バイトの子に手を出そうとするなんて、どういうつもりよ!」
里奈の怒鳴り声が耳元で響き、自分が怒られたわけでもないのに陽子は身を反らした。対して愛流に動じた様子はなく、すました顔で姉を見つめる。
「こんなに早く来るなんて、お姉さまは随分暇だったんだね」
「デスクワーク中って言ったでしょうが! こっちはね、山のように溜まった書類を処理していかなきゃいけないっていうのに、あんたは――」
「ところで先週あった根耳公園の通報のことで、聞きたいことがあってさ」
「人の話を聞け!」
里奈が雄叫びのような声を上げた。しかしそれ以上は何を言っても無駄だと思ったのか、顔に不満を滲ませながらも、愛流の隣に座ろうとする。しかし一瞬動きを止めたかと思うと、体を右に向けて歩き出し、陽子の右隣に陣取った。
「で、聞きたいことって何? そもそも根耳公園の通報内容については、ちゃんとわかってるの?」
「死体があるってやつだろ?」
愛流が得意げな顔をした。里奈は目を丸くし「なんで知ってるのよ」と声を上げる。
愛流は神野から依頼を受けたことから、櫂入に話を聞くまでの経緯を、端的に説明した。里奈は黙って聞いた後、ため息を吐いて頭を抱える。
「何かまだありそうな気はしてたけど、まさか見つけた死体が誰なのか知っていたなんてね」
「それで確認なんだけど、池から瀬里奈ちゃんの死体は発見されなかったんだね?」
愛流が鋭い目つきで訊ねた。陽子の隣に座る里奈は、真剣な表情で首を縦に振る。
「警視庁からも応援が来て、何時間もかけて捜索したけど、結局は見つからなかったわ」
「で、警察は櫂入くんの言葉が嘘だと判断した」
愛流の言葉に、里奈は何も答えなかった。ただ悔しそうに唇を噛んでいる。
「里奈さんは、どう思いますか?」
陽子はそれとなく訊いてみた。
少なくとも里奈は、櫂入を嘘吐きだと思っているわけではない。陽子はそんな気がしてならなかった。
「正直、私には櫂入くんがそんな悪戯をするような大学生には思えない。嘘じゃないっていう櫂入くんのあの必死な顔。私にはあれが演技だとは思えなかった。根拠があるわけじゃなくて、直感だけどさ」
「姉貴、主観が入っているよ」
愛流が冷たく言った。肘をついて里奈を睨む。
「主観は先入観を呼び込んで、見えている事実を歪ませてしまいかねない。刑事ならそこらへんは注意した方がいい」
「――あんたに言われなくても、わかっているわよ」
悔しそうに目を伏せる里奈は、言葉とは裏腹に納得していないように見えた。
気まずい沈黙が流れる。実際には一分にも満たない時間だったのかもしれないが、陽子には永遠にも感じられた。
しかし話が途切れたのは、陽子にとってチャンスだった。気になることを質問するため「あの」とおずおずと手を上げる。
「櫂入さんや芽衣さんの話の通りなら、一つ疑問があるんですけど――瀬里奈さんは、いつ亡くなられたんでしょう」
店内にいる全員の目が、陽子に向けられた。その視線に怯むも、最後まで言い切ろうと決意し、唇を舐める。
「瀬里奈さんが行方不明になったのは三か月前ですよね。もしいなくなった直後に亡くなったのであれば、死体はもう、その――」
腐敗、という言葉をどうしても口から出すことができず、陽子は口ごもってしまった。しかしその言葉の先を察したのか、里奈は「確かに」と手の平を打つ。
「櫂入くん達は、池から出てきた死体を見て神野瀬里奈さんだとわかったのよね。ということは、死体はキレイなままだったということになる」
「それってつまり――」
「行方不明の直後に亡くなったわけじゃない。だから、ここ最近死亡したってわけね」
「それです! 私の言いたかったこと」
嬉しさのあまり陽子は里奈を指さした。しかしすぐに思いとどまり、手を膝の上に乗せる。
人の死が関わっていることで喜ぶのは、不謹慎に思えたからだ。
さらに追い打ちをかけるように、愛流が呆れたと言わんばかりのため息を漏らす。
「そうとも限らないよ」
(続)
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