page14「常連客」
〇
カウンター席に目的の人物、荒井切櫂入がまだ座っていた。レタスとハム、そして卵ペーストを挟んだミックスサンドを片手に持ち、驚いた顔をこちらに向けている。愛流のドアを開ける勢いがよっぽど強かったらしい。他に客がいなくて良かったと、陽子は心の内で安堵のため息を吐いた。
飄々としている愛流でも、重要かもしれない人物が実家の店に来ているという状況には興奮を覚えていたようだ。
「愛流、もうちょっとドアは静かに開けてくれないかな」
カウンターから茂が腕組みをしながらしかめ面を向けてくる。しかし愛流は「ごめん」と簡単に言いつつも、視線を櫂入から外さない。そして彼に向かって歩き始めた。
櫂入は席から動くことこそないものの、身を反らしていた。その様子からも、愛流に怯えていることは明らかだ。
無理もないと、陽子は思う。
勢いよく店のドアを開ける人物が現れたかと思うと、いきなり近づいてきたのだ。吉岡の時と同様、愛流の金色の髪もまた、相手を委縮させる要因の一つだろう。陽子は偏見かもしれないと思いつつも、そう感じずにはいられなかった。
櫂入の前まで来ると、愛流は隣の席に座った。そして「荒井切櫂入くんだね」と訊ねる。
「北東学園大学の一年生で、美術部に所属している」
「え、えっと――」
櫂入はすぐには答えなかった。突然現れた謎の人物に、自分の身分を肯定していいか迷っているのかもしれない。
――そもそも何で自分のことを知っているんだって話よね。
そのことに気付き、陽子は苦笑する。冷静に考えれば考えるほど、櫂入にとってこの状況は恐ろしいものだ。
「申し訳ありません。この男、私の息子でして――」
「え、マスターの?」
頭を下げる茂に、櫂入は驚きの声を上げた。そして愛流と茂の顔を見比べる。
「このような無礼者ですが、この男の問いかけに答えていただけると助かります。今回の料金は、驚かせてしまったことへのお詫びとして、結構ですので」
「でも――」
「親父、レモネードのアイスをお願い」
「お前も謝りなさい」
茂が愛流を冷ややかに見る。怒声こそ上げていないが、その声には有無を言わせぬ圧力があった。
愛流は少し沈黙した後「驚かせてしまってごめん」と櫂入に頭を下げた。
「ただ、重要なことを君に質問したいんだ。答えてくれると、すごく助かる」
「あの、質問って――」
「神野瀬里奈ちゃん」
その名前を聞いた瞬間、櫂入の様子が一瞬で変わった。口を半端に開けて、呆けたような表情になる。
「どうして、神野の名前を――」
呆然とする櫂入の顔を眺めながら、陽子は愛流の右隣の席に座った。それが合図であったかのように、愛流は神野春心から娘の捜索依頼を受けたこと、そのために先ほどまで北東学園大学の美術部メンバーに聞き込みを行っていたことを話す。
茂は愛流にレモネードを、櫂入と陽子に新たにコーヒーを提供しながらも、話を聞いていたらしい。何度も一人納得したように頷いていた。
「そういうことだったんですね」
愛流が話を終えた後、櫂入もまた何度も首を縦に振った。しかしその表情は暗く、俯きがちだ。
「さっそく本題に入らせてもらうよ。どうして瀬里奈ちゃんの死体が沈められているって通報したんだい?」
愛流が足を組みながらレモネードに添えられたストローを咥えた。一気にグラスの半分近くまで減った液体は、テーブルに置かれると揺れ動く。
「耐えられなかったんです」
やや間をおいて、櫂入が重々しく答えた。カウンターの上で指先をいじり、落ち着かない様子を見せる。
「神野とは同じ部員であると同時に、友達でした。その彼女が僕らの保身のためにあのまま放置されている。それが僕には正しいこととは思えなくて。何日も経ってからですけれど、ようやく通報する決心をしたんです」
「けど、瀬里奈ちゃんの遺体は見つからなかった」
カウンターの上で肘をつき、愛流は組んだ両手の上に軽く顎を乗せた。それだけの仕草が、陽子には妙に艶めかしく思えてしまい、手元にあるカップの中に視線を移す。
「通報した次の日に警察にそう言われて、僕、わけがわからなくなりましたよ。池でのあの出来事は、夢か幻だったのかって。それで結局、部長には通報したことがばれて、部室は追い出されるし――」
櫂入がため息を吐き、頭を抱えた。未だに瀬里奈の死体が消えた出来事が、彼の中で尾を引いていることが陽子にはわかった。
――そりゃあそうよね。
悩んだ末に勇気を持って行動したはずなのに、それが空振りに終わった。おまけに智には責められ、追い出されることになる。
混乱したうえに、苦しかっただろう。それでも櫂入の通報という行いは、陽子にはとても勇敢なことであるように思えた。
「追い出された後、家に帰る気分にもなれなくて。駅まで戻って、それから周辺を歩いたんです。その時、気付けば警察署の前まで来ていて。もう一度言ってみようかとも思ったんですけど、また嘘つき呼ばわりされそうで」
「警察に、そう言われたのかい?」
茂がカウンターから突然問いかけた。いつもの笑みを浮かべた顔は引っ込み、聞き込みを行っていた際に時折見せていた愛流のような鋭い目つきで櫂入の顔を睨む。
その変化に陽子は驚いたが、すぐに茂が元刑事であったことを思い出して理解する。
自分が去った後の警察の行いが気になったのだろう。
櫂入は茂の問いかけに対し「はい」と力なく頷く。
「嘘吐きというより、もう大学生なんだから、こんな悪戯はやめてくれって」
櫂入の言葉に、茂は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何ということを――」
「まぁ、捜索しても死体は出てこなかったんだ。警察が信じないのも無理はない」
愛流がグラスを振りながら言った。氷がカラカラとぶつかる音が店内に響く。
「そう、ですよね。僕もそう思います」
言葉に反して、櫂入の表情は落ち込んでいた。茂は愛流を睨むが、愛流はその視線を気にした様子はなく「ところで」と何気ないように言った。
「どうして警察に、池で死体を見つけた話をした時、瀬里奈ちゃんの名前を出さなかったんだい?」
「え?」
突然の言葉に、陽子は驚いてその顔を見た。
グラスを黙って見つめる愛流の無表情な顔からは、その心を読み取ることは難しい。
「なんで、そのことを?」
櫂入もまた目を丸くして愛流の顔を覗き込んでいた。その様子から見ても、愛流の言ったことが的を射ていたことがわかる。
「いくら最終的に悪戯と判断したとしても、君が見つけた死体が瀬里奈ちゃんだと言っていれば、裏を取るために警察は彼女の母親に会っただろう。だけど今朝、神野先生――瀬里奈ちゃんの母親が調査を依頼してきた時、そんな話は出てこなかった」
そこで愛流は一度言葉を止める。しばらくの間、沈黙が流れた後に櫂入が俯いたまま頷いた。
「その通りです。僕は、見つけた死体が神野だと、言いませんでした」
「どうして――」
陽子が問いかけた。
「認めたくなかったんです。あの夜、僕らが見つけた死体が、神野だったなんて。きっと生きているって、信じたかったのに」
カウンターの上に置かれた櫂入の拳が震えているのを、陽子は見た。その様子だけで、いかに悔やんでいるかが伝わってくる。
「あの夜、暗がりのせいで他の誰かの死体を神野と見間違えてしまったのかもしれない。そう思うとそれに固執してしまって、警察に死体が誰か知っているかと訊かれた時、気付けば知らない人だって、そう言ってしまったんです」
「それはあまり感心できないな。喫茶店の店長がお客さんに言うべきことじゃないかもしれないけどね」
茂が櫂入を見つめながら渋い顔をし、腕組みをした。
「友達の死を受け入れられない気持ちはわかる。それでも君の黙っていたという選択はだ、彼女を大切に思う母親や恋人、そして君のような瀬里奈ちゃんの友達に対して、あまりにも不誠実なものじゃないかな」
「そう、ですよね。すみません」
「謝るべきは、僕より瀬里奈ちゃんや、彼女のお母さんだろう。もちろん、彼女の死体を池に戻すことを提案した美術部の部長くんも、同様に頭を下げなければならないね」
そう言って茂は愛流の空になったグラスに手を伸ばした。近くにあったスポンジを濡らし、液体洗剤をつける。
「とはいえ、もう過去は変えられない。君が罪を感じているのなら、可能な限り愛流に協力してほしい。それが瀬里奈ちゃんのためになると、僕は思うよ」
櫂入は言葉を出すことができないのか、黙って頷いた。その顔はやや紅潮し、震えているように陽子には見える。
「それで、何でこのお店に来たの?」
首を搔きながら、愛流が眉間に皺を寄せて訊いた。しかし櫂入はその質問の意味がわからなかったらしく「え?」と訊き返す。
「陽子ちゃんから聞いてるよ。三日前から同じぐらいの時間によくここに来ているみたいじゃん」
「えぇ、まぁ」
「他にも喫茶店はあるだろうに、何でこの店だったのかなって。特別なメニューがあるわけでもないし、店員もさ、定年迎えたプロレスラーっぽいオッサンに、猪突猛進タイプのお節介な女の子だよ」
「悪かったな」
「悪かったですね」
茂と陽子が、愛流を睨みながら同時に言った。しかし愛流が気にした様子はなく、隣に座る櫂入の目を見つめ続ける。
「それなのに、何でこの喫茶店に三日連続で来るようになったのかなって気になってさ」
「うーん、そうですね。雰囲気ですね、やっぱり」
頬を掻きながら櫂入が答えた。愛流は「雰囲気?」と訊き返して首を傾げる。
「さっき部室を追い出された後、無意識の内に警察署の近くまで来ていたってところまでは話したじゃないですか。でも結局行けなくて、そんな時、警察署の前に建っているこのお店が目に入ったんです」
櫂入の話を聞きながら、陽子は窓から見える夢見市警察署の建物を眺める。道路を一つ挟んだだけの距離なので、一階部分や駐車場の門がよく見えた。
「気持ちを整理するためにも、ゆっくりと座って考えられる場が欲しくて、このお店に入ったんです。コーヒーを一杯飲んで出るつもりだったんですけど、不思議とこのお店は居心地の良さを感じるというか、まだいたいって思わせる雰囲気がありまして。ついコーヒーのおかわりと、お腹も空いてきてたんで、ミックスサンドを注文したんです。それから一昨日も、昨日も今日も、このリラックスできる空間を求めて、それでよく来るようになったんです」
「そう言ってもらえると、僕としても嬉しいよ」
茂がにこやかに言った。先ほどの渋面が嘘のようだ。
しかし陽子としても同じ気持ちだった。
働いている場所が「居心地が良い」と言われると、自分のことも含めて褒められたような気がして、妙に嬉しく感じてしまう。
「それから美術部や、もしくは例の宴会にいたっていう映画研究部のメンバーとは、メッセージのやり取りもしていないの?」
あまり心には響かなかったらしく、愛流は淡々と質問を投げかけた。櫂入は気弱そうに頷く。
「元々映画研究部とは、三年生同士が交流があったというだけで、十日前の宴会もその流れからの形式的なものでしたし。美術部の先輩達とも仲が良かったわけでもないので。でも、同期の芽衣だけは毎日のようにメッセージを送ってくれるんです。けど、なんて返事をすればいいかわからなくて、未読スルーばかりしてしまって」
「ちゃんと返事をしてあげてください」
いち早く陽子が反応した。俯き加減だった櫂入が、陽子に視線を向ける。
「芽衣さん、櫂入さんのことをすごく心配していました。心配しているからこそメッセージも送りますし、本当は今すぐにでも会いたいと思ってるんじゃないでしょうか」
「でも、僕のせいで彼女の人生も危険にさらしてしまったと冷静に考えると、何を書けばいいかわからなくて」
「まぁ独断じゃなくて、一言その芽衣ちゃんっていう子に相談はしといた方が良かったかもしれないね」
茂がカウンターから言った。しかしその言葉に冷たさはなく、むしろ口元には笑みを浮かべていた。
「だから、今からでも直接会いに行ってみたらどうだい?」
「直接、ですか?」
「そう。もちろんお互いの都合が良ければね。古い考えかもしれないけれど、やはり面と向かって会うのが一番気持ちがわかるというものさ。愛流、彼に他に訊きたいことはあるかい?」
茂が息子に目を移した。愛流は「だから、何勝手に仕切ってんだよ」と呆れたように言いながらも、特に不快に感じている様子は見られない。
「けどまぁ、俺としてもこれぐらいかな。また訊きたいことができたら電話なりメッセージなり送らせてもらいたいから、連絡先を交換したいけど」
「あっ、いいですよ」
そう言って櫂入はスマートフォンを取りだし、愛流に向き直る。
連絡先の交換が終わったのか、櫂入が席を立った。
「じゃあ僕、これからバスで大学に行こうと思います」
「すまないね。私から提案したことだが、送ることもできなくて」
「いえ、お気になさらず。ところで、お代は本当に――」
「あぁ、いいよ。その代わり、また来てくれると嬉しいかな」
茂がそう言った瞬間、櫂入が初めて笑みを浮かべた。そして頭を下げ、店を後にする。
(続)
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