page12「同期」
〇
時が止まったかのような沈黙が、三人の間に流れた。しばらくして目を真っ赤にした芽衣が顔を上げ「その通りです」と頷く。
「私達は瀬里奈の死体を見てパニックになり、何人かが逃げ出そうとしました。その時、ある人が大声で呼び止めて池に沈めることを提案したんです。このことがニュースになれば、同時に公園で無断で宴会を開いていたことも大学側にばれてしまう。そうなれば部活動の停止どころか、各個人で何らかの処分を下されるかもしれない。そうなる可能性があると言われて、みんな恐くなって――」
「ひどい」
思わず陽子はそう漏らした。芽衣は反論することなく、唇を嚙みしめている。
人が一人死んでいるのだ。にも関わらず自分達の保身を優先し、隠蔽した。とても理解できる思考ではない。
隣に座る芽衣が、別の生き物のように陽子は思えてしまった。
――いや、違う。
すぐに陽子は思いとどまり、首を小さく横に振った。
「でも、ある人がっていうことは、芽衣さんが提案したことじゃないってことですよね」
確認する調子で、陽子は訊ねた。それに対し、芽衣は少し間を空けてから「――そう、だけど」と答えるもすぐに涙ぐんでしまう。
――やはりそうだ。
陽子は素直に芽衣の言葉を信じることができた。
もし芽衣がそうしたことを提案、もしくは最初から同意していれば、陽子達にこのような秘密を話すわけがない。
愛流のような洞察力を持っているわけではないが、それでも芽衣が後悔し、苦しんでいることは直感的にわかった。だからこそ助けを求め、打ち明けてくれたことを嬉しく思う。
「それで、そのある人は誰なんだい?」
愛流が鋭い目つきのまま訊ねる。手元に置かれているレモンスカッシュは先ほどから減っておらず、レモンシャーベットの底には、黄色い液体が広がりつつあった。
「福智院部長です」
芽衣が重々しく言った。その答えを聞いても、陽子は驚かなかった。むしろやはりそうかと思い、部室で感じた嫌悪感が蘇ってくる。
これは愛流も同様だったらしく「だろうと思った」と呆れた調子で呟いた。
「智くん、プライド高そうだもん。自分が部長の時に、美術部の不祥事発覚。しかも発見された死体は行方不明中の部員。スキャンダルの嵐だね」
「ええ。でもこれには、一緒にいた映画研究部の人も賛成だったみたいです。吉岡先輩は何も言いませんでしたが、福智院部長の指示通り速やかに瀬里奈の遺体を池に戻していたので、少なくとも反対ではなかったんだと思います」
「そして、隠蔽工作は無事完了。後は解散ってところかな」
愛流が終了を告げるように手を叩いた。その言葉には嫌悪感を滲ませたような棘がある。
芽衣は「そうです」と視線をテーブルに向けたまま言った。
「最後に、福智院部長はこう言いました。これで自分達は全員共犯だ。さっきも言ったけど、このことが明るみに出れば、何らかの処分は免れないし、今後の人生で犯罪者として後ろ指を指されることになる。そのことを忘れないように――と」
「そんなの、脅迫じゃないですか」
声を低くして陽子は言った。
何と卑劣な脅し方だ。自分が率先して隠蔽工作を提案したことを棚に上げ、周囲の人間に黙ることを強要するとは。
「けど、間違ったことは言ってないんじゃないかな」
冷たい愛流の言葉が、向かいの席から飛んできた。
陽子は目を大きく見開き、改めてその顔を見る。愛流は仏頂面で、溶けかかっているシャーベットにデザートスプーンを差し込んだ。
「実際に隠蔽工作には加担している。つまり犯罪に手を染めたという事実には変わりがないわけだ。その自覚、芽衣ちゃんはあるのかな」
「どういう意味です?」
陽子は心臓が重たくなるのを感じた。愛流は一体、何を言おうとしているのだろう。
「俺には芽衣ちゃんが、被害者面をしているように思えてならない。自分は本当はやりたくなかった。あの人がやれと言った。あの人もたぶん本心はそうだと思っている――何を甘ったれたことばっかり言っているんだ」
愛流の冷ややかな言葉が、陽子の内臓を鷲掴みにした。そう感じるような不快感が、胃の辺りに生まれる。隣では芽衣が、ビクッと肩を震わせた。
「当時の状況がどうあれ、君だって罪を背負うべき人間となったわけだ。それを――」
「もう十分でしょ」
陽子は決して大声を出したわけではなかった。しかし不快な気分から出した低いトーンの声は、愛流にちゃんと届いたらしい。不満そうな顔をしながらも、口を閉じる。
「愛流さんの言うこと、確かに間違ってはいないかもしれません。それでも、言い過ぎです」
「言い過ぎ、ね」
愛流が鼻で笑う。その姿がさらに陽子の神経を逆なでした。
「ハッキリ言います。私には愛流さんが、個人的に気に食わないから、必要以上に芽衣さんを傷つけているようにしか見えません」
「俺に女の子を傷つけて楽しむ趣味はないよ。気に食わないって点は認めるけど。でもさ、だから何だい?」
「何って――」
「陽子ちゃんも言ったじゃん。内容的には間違っていないって。だったらそれでよくない? 事実を言っているなら、言い方なんてどうでも」
「あなたに、人の心はないんですか?」
陽子の腕が震えた。それが怒りから来るものなのか、それとも愛流に反抗する恐怖から生まれたものなのかはわからない。
ただ一つ言えるのは、愛流の「きつい言い方をしても構わない」という考えには、どうしても共感できないということだ。
陽子がさらに言葉を続けようとする。しかしそれを止めるかのように、芽衣が陽子の腕をつかんできた。
「陽子さん、ありがとうございます」
隣から芽衣の弱々しい声が飛んでくる。口元に浮かぶ笑みもまた、明るいものではなかった。
「でも愛流さんの言うように、これは私の罪なんです。私は結局、自分のために瀬里奈のことを警察に言うことができなかった」
「――ちょっと待って」
少し間をおいて、愛流が制するかのように手を振りかざした。
「今の芽衣ちゃんの言葉、私は、って言ったけど、まるで他の誰かが警察に告げたような言い方だね」
「――はい。その通りです」
こればかりは愛流だけでなく、陽子も驚いた。
そのような勇敢な人間が出てくるとは思わなかった。しかし冷静に考えれば理解できる。
口を封じることで、良心が痛む人間はいるはずだ。そのような人間なら、覚悟を決めて警察に事実を告げることもあり得るだろう。
「私と瀬里奈の他に、もう一人美術部に一年生がいるのはご存じですよね? 五日ぐらい前に、その子が警察に告げたんです。根耳公園の池に、死体が沈んでいるって」
「何だって」
愛流が当惑した。唇を擦る姿は、まるで自分を落ち着かせようとしているようにも見える。
「警察は、その同期の通報を信じたんだね?」
「ええ。次の日には池の捜索が開始されました」
「そうなると、事情が大きく変わってくる」
「どういうことです?」
話についていけない陽子は、思わず訊ねた。言った後に今しがたの口論を思い出すが、愛流もまた気にしている余裕はないらしい。眉間をつまみながら「わからないかい?」と半ば苛立ったように言った。
「警察が動いて池を捜索したんだ。けどさっきも言ったように、そんな報道は流れていない。つまり瀬里奈ちゃんの遺体は、出てこなかったということだ」
愛流の言葉で、ようやく陽子は納得した。と同時に、彼がなぜそれほど動揺したのか理解する。
ホラー映画ではないのだし、死体が動くはずはない。にも関わらず、死体は見つからなかった。
愛流の言う通り、これは奇妙な状況だった。
「警察が見落としたという可能性は?」
「海の真っただ中ならまだしも、公園の池だ。その限られた範囲で、人間の死体を見落としたとは考えにくい」
「でも――じゃあ、どういうことなんですか?」
混乱し始めた陽子の問いかけに、しかし愛流は答えなかった。唇に指を当てたまま「芽衣ちゃん」と呼びかける。
「その通報したという君の同期に会いたい。智くんは彼が体調不良で来ていないと言っていたけど、実際はどうなんだい?」
「――今、部室から追放された状態なんです」
芽衣の重々しい言葉に、陽子は我が耳を疑った。しかし愛流にとっては想定の範囲内だったらしい。表情を変えることなく「そんなことだろうとは思ったけど」と呟く。
「追放の理由は、警察に通報したからだね」
「はい。先週の金曜日の部室で、福智院先輩が、珍しく感情的になって責め立てたんです。それで『皆を危険にさらすような奴はここに置いてはおけない』って言ってあいつを追い出して」
「どの口が、そんなこと言えるんですか」
陽子の中で、さらに智への嫌悪感が高まった。
皆を危険にさらすような奴――この言葉はどう捉えようと詭弁にしか聞こえない。自分が口止めしたことをばらされたくないという気持ちが、一番強かったことだろう。
「そして今日、君の同期は朝から美術部には顔を出していないんだね」
手を揉み始めた愛流に、芽衣は黙って頷いた。
愛流は天井を見上げると、デザートスプーンを手に取る。しかし肝心のシャーベットは溶けてしまい、黄色い液体の上に少し固まりが残っている程度だった。
残念そうにため息を吐くも、その最後の一かけらを口に含み、残っていたレモンスカッシュを飲みほした。
「とりあえずだ、そのもう一人の一年生が大学に来ている可能性は低そうだけど、住所とかってわかる?」
「行ったことはないですけど、部室に部員の住所録があるはずです。そこには連絡先も記入されていますね」
「オーケー。芽衣ちゃんには悪いけど、その辺り探ってもらってもいいかな? 写真でいいから把握できたら送ってほしい。ついでに他の部員のものも」
「わかりました」
芽衣は目にまだ残っていた涙を拭うと、立ち上がろうとする。しかし愛流がそれを呼び止めた。
「それと、一応その一年生の写真も見せてほしい」
「いいですよ。瀬里奈がいなくなる日の、食事会の後に三人で撮った写真があります」
そう言って芽衣は、スマートフォンを取りだし、ディスプレイを何度も触る。やがてその一年生の写真が出てきたらしく、テーブルの上にそれを置いた。
夢見市駅を背景に、三人の男女がカメラに向かってピースサインを作っていた。誰かに撮影してもらったのか、カメラから三人の間には距離がある。楽しそうに笑顔を浮かべている瀬里奈を見ると、まさかこの後失踪するなどと思わなかっただろうと感じ、陽子は胸を締め付けられる感覚に襲われた。
ジーンズに緑色のダウンジャケットを羽織った芽衣と、黒いブーツに茶色いロングスカートを着た瀬里奈に挟まれる形で、一人の男子大学生が立っていた。黒い髪のナチュラルヘアに、痩せた体型。黒いブルゾンの下に白いTシャツを着ている。垂れた目からは気弱そうな印象を受けた。
彼が通報したという芽衣の同期なのだろう。陽子はそう思いつつも、写真に違和感を覚えた。
――どこかで見たような。
同じ疑問を愛流も感じたらしい。写真を見ながら首を傾げ、唸っている。
先に答えに到達したのは、陽子の方だった。その違和感の正体が何なのか。理解すると同時に「あ」と思わず声を漏らした。
「常連さん」
「何だって?」
「え?」
愛流と芽衣が、ほとんど同時に言った。陽子は頷き、写真に写る男子大学生を指さす。
「常連と言っても、三日前からなんですけどね。いつも私生活に同じ時間帯に来て、コーヒーとミックスサンドを注文しているんです」
「今から戻っても、その彼はいると思う?」
愛流が鋭い目つきのまま訊ねた。
陽子は腕時計に目をやった。針は現在が十三時五分であることを示している。
「いつも十四時ぐらいまでいるので、大丈夫だと思います」
「そうと決まれば、すぐに向かわないとな」
そう言って愛流は立ち上がった。ライダースジャケットの内ポケットから素早く財布を出し、レジへと向かう。
どこに向かうかは言わなかった。しかし目的地は陽子にもわかった。
(続)
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