page9「嫌い」


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 美術部のあるプレハブ建物から出た後、愛流と陽子はレンガ校舎とその隣のガラス張りの建物を通り過ぎ、学内に設けられた食堂へと向かった。

「にしても、この大学の美術部は闇が深いね」

 コンクリートで造られた二階建ての食堂が見えてきた辺りで、愛流が呟くように言った。その言葉に陽子は首を傾げる。

「闇、ですか?」

「そう」

「そう、ですかね。確かに色々と問題は多そうですけど」

 部員の一人が行方不明となり、未成年の飲酒も認めている。さらには部長があのような傲慢な態度を見せるようでは、前途多難なように陽子は思えてならなかった。

 そのことを陽子は口に出して伝えた。すると愛流は「んー、まぁ、それもそうなんだけどね」と斜め上の方角を見ながら顎を擦る。

「美術部の部室を出る少し前にさ、吉岡くんが言ったこと覚えている?」

「吉岡さんの言ったこと、ですか?」

「そう。瀬里奈ちゃんと仲が良かった友達のこととか聞いた時、こう言っただろ? 一年生同士は仲が良かったって」

 愛流の言葉で、陽子は「あぁ」と声を上げた。確かにそのようなことを言っていた。

「けど、それがどうしたんです?」

「この言葉から、部内の先輩と後輩の間には何らかの確執があると思われる。あるいは二年生同士が不仲なのかもしれない。現に智くんと吉岡くんは同じ空間にいたのに、一切目を合わせようとはしなかったからね」

 愛流は淡々と言葉を繋いだ。陽子は部屋にいた時の二人の様子を思い返し「本当だ」と呟く。それと同時に、体が震えた。

 こうして思い返すと、愛流の言う通り闇を感じられる。確かに智と吉岡は、互いを互いに見ようとはしていなかった。部室内に流れていた重い空気は、それも原因に加わっていたのかもしれない。

「それに、その芽衣ちゃんがこの食堂にいることも問題だ」

 愛流は食堂の自動扉の前に立ち、入り口を見つめた。ガラスを隔てた向こう側には、券売機で食券を買う男子大学生の姿がある。

「今はお昼時ですし、食堂で食べること自体はそんなにおかしくないような気がしますけど」

「食べるだけだったらね。問題は滞在時間だ」

「滞在時間?」

 陽子は愛流の言いたいことがわからず、首を傾げるしかなかった。

「そう。智くんや吉岡くんが言っていただろ? その芽衣ちゃんは、いつも食堂に行って、一時間ぐらいは戻ってこないって」

「あぁ、そういえばそう言っていましたね」

「ここから部室棟までは、実際に歩いてみて五分程度といったところだ」

 陽子は愛流の言葉を聞きながら振り返った。ガラスでびっしり覆われた校舎の一階部分が見える。学生課らしく、事務作業を行っている多くの職員の姿が目に映った。

「一時間から往復十分を引いたとしても五十分。昼食だけ取るにしては、時間がかかり過ぎじゃないかな。智くんの言い方からしても、いつもそれぐらいいるということらしいし」

「混んでるとかじゃないですかね?」

 陽子は思いついたことを口にした。愛流は目を鋭くして頷く。

「それもあり得るだろう。けど食堂はどうやらこの建物の二階にもあるらしい。それに今は春休みで、部活で集まっているとは言え利用者は少ないはずだ。それでも混雑するとは考えにくい。そもそも、時間だけで言うのなら、吉岡くんのようにコンビニで買ってきた方が早い。つまりよっぽどのこだわりがない限り、毎回食堂を利用する理由はないはずなんだ」

 言いながら愛流は歩き出し、自動扉を通り過ぎていった。陽子はついて行きながら、思わず感嘆のため息を漏らしてしまう。

 会ってあまり時間は経っていないが、愛流の洞察力には驚かされる。一人一人の言動や行動で、そこまで発想を膨らませることは、陽子にはできない。

 ――これが探偵か。

 陽子は体がわずかに興奮しているのを感じた。まるでミステリードラマの世界に入り込んだかのような気分だ。口元が緩みそうになるのを、必死でこらえる。

 などと考えていると、人の賑わう声が聞こえてきた。視界にはオレンジ色の照明に照らされた空間があり、白い丸テーブルとプラスチックの椅子が所狭しと並べられている。野球部やサッカー部などのユニフォームを着た学生、あるいは私服を身にまとった若い男女が思い思いに席に座ったり、お盆を持ったまま空いている席を探したりしていた。

「春休みなのに、けっこう人がいますね」

 予想以上の人の多さに陽子は半ば気圧されていた。対して愛流はその隣で平然とした顔を保っている。

「確かに、思いの外いたね。けどやっぱり、昼飯だけで一時間とは考えにくい」

 そう言いながら愛流はスマートフォンを取りだすと、先ほど吉岡に送ってもらった芽衣の画像を出し、歩き始めた。

「毎回一時間、部室に戻らずに食堂に居続ける理由。さっきはないと言ったけど、強いて言うなら二つ。友達や恋人と話をするためか、あるいは美術部の部室から少しでも離れておきたいか――どうやら後者っぽいね」

 言いながら愛流は立ち止まった。危うく陽子はその背中に頭をぶつけそうになるが、すんでのところで立ち止まることができた。

 愛流の背中から顔を覗かせ、陽子は前方を見る。

 画像に写る女性――新谷芽衣が、席に座りながらスマートフォンを手に持ち、不思議そうにこちらを見上げていた。テーブルの上には、食べ終わった食器とそれを乗せているトレーが置かれている。

髪を後ろで束ねている点は同じだが、画像よりも少し短い。写真は夜に撮ったものであったためにわからなかったが、その肌は日に焼けていた。そのためか白いTシャツとジーンズというシンプルな服装が似合っている。

「あぁ、すみません。今からここどくんで」

 愛流と陽子を、席を探している学生だと勘違いしたらしい。芽衣が立ち上がろうとすると、愛流は手をかざして「違う違う」と笑いながら止めた。

「俺達は君に用があるんだよ」

「私に、ですか?」

 立ち上がろうとしているところを止められたため、芽衣は中腰のような姿勢のまま首を傾げた。

「そう。君、美術部の新谷芽衣ちゃんだよね?」

「ええ、そうですが――」

 席に戻った芽衣が、眉間に皺を寄せながら再び愛流と陽子を見上げた。警戒しているのは明らかだ。

 ――まぁ、それも当然か。

 陽子は密かに芽衣に同情した。

 見知らぬ人間がいきなり話しかけ、しかも自分の名前と所属している部活を知っていたのだ。警戒するどころか、恐いと思われていたとしても不思議ではない。

「探偵の愛流と助手の陽子ちゃんって言います。以後お見知りおきを」

 愛流は名刺をテーブルの上に置くと、恭しくお辞儀をした。陽子はそのように軽い態度を取る気分にはなれず、頭を下げるにとどめる。

 芽衣の顔からは、まだ戸惑いの色は拭えない。それでも話を聞く気にはなってくれたらしく「とりあえず座ってください」と向かいの席を指でさした。

「ありがとう」

 言うが早いか、愛流は顔を上げると同時に椅子に座った。陽子も礼を述べた後、席につく。

「それで、探偵さんが私に何の用でしょうか?」

 芽衣は手に持っていたスマートフォンを伏せるようにテーブルの上に置くと、細い腕を組んで前のめりになる。愛流も足を組み、椅子の背もたれに身を預けた。

「いつもなら君のようにスポーティーな女性をお茶に誘ったりするんだけどね。今回は辞めておこう」

 隣に座る陽子は、思わずため息を吐きそうになる。今朝といい、この男は見境なしに女性をナンパしなければ気が済まないのか。

「美術部で起こったことに関する調査って言えばわかるかな」

「――瀬里奈が行方不明の件、ですか?」

 やや間を空けて芽衣が訊いた。上目遣いにこちらを見る様は、何かを探ろうとしているかのようだ。

「そう。瀬里奈ちゃんの母親から、探してほしいって依頼が来たんだよ」

「何で、今になって――」

「警察に行方不明届を提出したのに、見つかっていないからだってさ」

 愛流の簡易的な説明を聞いて、芽衣は納得したように何度も頷いた。

「三か月も経ちますからね。痺れを切らして当然か」

 そう言った芽衣の口調は、どこかぶっきらぼうなものだった。

 陽子は芽衣の態度をどのように受け取ればよいかわからず、内心戸惑っていた。智のように冷たさを感じられるが、そうだと判断するには早計なように思われる。

「わかりました。可能な限り協力するので、質問してきてください」

 芽衣は顔を上げ、真っ直ぐに愛流を見つめた。愛流は満足そうに口角を吊り上げると「オーケー」と手を組んで前のめりな姿勢になる。

「まずは君と瀬里奈ちゃんの身辺的な情報を訊ねたい。今の二年生、智くんや吉岡くんのことをどう思う?」

「ハッキリ言って嫌いです」

 芽衣が片目をつぶりそうなほど顔を歪ませた。声が低くなり、体がわずかに震えている。今のストレートな言葉は、感情を十分に乗せて放ったもののようだと、陽子は独自に分析した。

 愛流は半ば楽しむかのように「おお、言うねぇ」と笑いながら言った。

「よっぽど嫌いみたいだね」

「部長と副部長には、もう会ったんですよね、たぶん」

「あぁ、君に会う前にね」

「だったらわかると思いますけど、あの部長。傲慢な態度で自分以外の人間は全員バカだと言わんばかりに見下してきますし。何よりもあのプライドの高さ――部長にはどんな話を聞いたんですか?」

「色々聞かせてもらったよ。美術部はどんな活動をしているのかとか、部員に慕われてるんじゃないかとか。後、瀬里奈ちゃんのことをどう思っているのかについても訊ねたね」

「あの人、どんな風に答えたんです?」

 芽衣がテーブルの上で拳を握り、鋭い目つきで愛流を見つめた。愛流は椅子にもたれたまま、思い出すように天井を見上げて顎を擦る。

「初めて会った時から好きになれなかった。八方美人だし、その彼氏も礼儀のれの字も知らないような男だって」

「は、よく言うわ」

 芽衣が鼻で笑った。嫌悪感で顔が歪み、目はやや伏せ気味になる。

「どういうことですか?」

 下から覗き込むように陽子は訊ねた。芽衣は額の右端をつまみ、苦笑いを浮かべる。


(続)

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